主にあって喜ぶ

(ハバクク書3章17-18)


イスラエルの民ユダ王国が堕落し退廃していく時代にあって、ハバククは神に叫び、疑問を投げかけました。
神から律法を与えられた社会で暴虐が行われ、悪人が繁栄し不義によって利益を得ることが当たり前のようになり、災いが頻繁に起こり、律法は無視され、正しい裁きが行われなくなってくることにたいして、神がこのような状態を見過し、悪人を裁かれないのだろうか、神は何故沈黙されているのだろうか、ということがハバククの疑問でした。

人生の歩みで最も困難なのは、規則を守り、正しく生きようとしているのに悪がはびこり、思いがけない災難や試練ばかりに見舞われ、神がわたしたちの祈り、叫びに答えられないで沈黙をされているように思えるときです。 

正しく生きようとするのに、この世には不正と不義がはびこり、人生の困難に直面し、正しい裁きをされる筈の神がそれらの不義、不正を見過ごしにされているように思え、そして事態がより悪化していくときに、神が本当にわたしの人生に目を留められ、祈りを聞かれているのだろうか、すべてに公正な方なのだろうか、という疑問が頭をもたげます。

このような疑問にたいして神は「わたしはおまえたちの時代に、あなたがたの信じられないようなことをする。おまえたちがはたらいていない、沈黙していると思っても、わたしははたらいている、おまえたちが沈黙し、見過ごしていると思っていても、わたしはすべてを見て知っており、何一つ見過ごしにしてはいない。しかし、わたしがしようとすることを聞いても、それは信じ難いことだ。」と、ハバククに答えられ、「わたしは、律法が与えられたイスラエルの民、南ユダ王国で暴虐が行われ、悪人が繁栄し、正しい裁きの行われないことを見過ごしにしてはいない。王国で行われている暴虐を裁くために、驚くべきことが起こる。それは、強暴で激しい異邦の民カルデヤ人を起こし、彼らによって王国を裁く。」といわれました。

「異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。
見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。これは、ひどく恐ろしい。自分自身でさばきを行ない、威厳を現わす。 その馬は、ひょうよりも速く、日暮れの狼よりも敏しょうだ。その騎兵は遠くから来て、はね回り、鷲のように獲物を食おうと飛びかかる。
彼らは来て、みな暴虐をふるう。彼らの顔を東風のように向け、彼らは砂のようにとりこを集める。彼らは王たちをあざけり、君主たちをあざ笑う。彼らはすべての要塞をあざ笑い、土を積み上げて、それを攻め取る。それから、風のように移って来て、過ぎて行く。自分の力を自分の神とする者は罰せられる。」(ハバクク書1章5-11)

ハバククに与えられたこの神の答えは、より一層ハバククの疑問を深めました。
ユダ王国が神の与えられた基準から離れ、道徳的な退廃だけではなく不義と不正を行い暴虐な社会となったことを嘆き、神の公平な裁きが行われることをハバククは望みました。
しかし、神の目はあまりにきよく、悪や罪と共存されることはない方、神は正しい者の労苦に目を留められる方、その神が暴虐をもって暴虐を裁かれるのはどうしてなのだろう。
国のなかで行われている暴虐をはるかに上回る暴虐な民、カルデヤ人、偶像の国バビロニアをイスラエルの民の裁きの器として神がどうして使われるのだろう。ということが、ハバククの理解し難いことでした。


そこで、ハバククは見張り所に立って神のなさること、主がハバククに何を語り、何と答えられるるかを待つことにしました。

神は見張り所で待つハバククに、「幻を告げよう。それは定められた時、終わりについてのこと、それは必ず来る。だから、それを読んだものが急いで他に伝えることのできように木の板に書き記しなさい。見よ、高慢な者を、彼の心は正しくない。」と言われ、やがて正しい人にも降りかかる困難な時を乗り越えるために必要なことは「正しい人は信仰によって生きる。」と言うことばを告げられました。

わたしたちも正しく人生を歩もうとするとき、この世の不公平と不義によって人生における試練に直面し、神に祈り、叫んでもより大きな悪と不正によって自分の能力や力を超えた状況に陥ることがあります。
そのようなとき、わたしたちを愛され、最善の人生の計画を持っていてくださる神が、目の前のより悪化してゆく状態を許され沈黙されているように思えるのは何故だろうと疑問を持つことがあります。

悪者が正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのだろうか。と言う疑問にたいして、わたしたちはイエスの十字架に答えがあることを知っています。

キリストは、すべての人の悪、罪を背負って十字架の上でその責めを負われました。
あまりにきよく、悪をみることのない神は、目を背ける悪と罪の凝縮された十字架の裁きをキリストに負わされました。

イエスが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という苦難をわたしたちの身代わりとして受けられ、罪のないきよいお方が罪とされたことを知り、神がハバククの疑問にたいして答えられていることを悟ることができます。  

ハバククならずとも、神がなさるやりかた、神が何故そのような方法をとられるのか理解できないことがしばしば起こりますが、神は預言者イザヤをとおして、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる。 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章8-9)と、言われています。

わたしたちが人生を歩む上で、神の絶対的な善と義に信頼を置き、イエスによって神がわたしたちのために成し遂げてくださった御業を土台とする信仰以上に大切な人生の土台はありません。

わたしたちは、神を理解し、神のやりかたに納得して義とされるのでもなく、律法を守ることによって義とされるのでもありません。
神に信頼する信仰によって義とされ、神から正しいものとされるのです。


神はハバククの思った以上に状況が残酷で悲惨なものとなることを告げられました。
しかし、そのような悲惨な状況のなかでも神はそれを乗り越えることのできるように共におられることを約束されました。

神に対する疑問と与えられた驚くべき幻、悲惨な状況のなかからもハバククは神への完全な明け渡しの信仰、神への絶対的な信頼にいたりました。

その信仰のことばがこの箇所で述べられています。
「国々は滅ぼされ、そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる、しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」

目には悲惨に見え、希望のない状況のなかで神が共におられ、想像を越えるような苦難を共に乗り越えてくださることを確信し、ハバククは状況を喜ぶことはできなくとも、そのなかで主を喜ぶことが出来ることを悟り、「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」という信仰を告白をしています。

この箇所でハバククが発した喜び עלז (aw-laz')というヘブル語の原語は、勝利のなかで喜び踊り跳ねるという意味になっています。

わたしたちには神のご計画の全体像が見えません。
わたしたちに見えるのは現在の状況だけであり、その一歩先にある神の素晴らしいご計画を悟ることができません。
しかし、ハバククは、ご計画の全貌を知られる神が共におられ、状況を共に乗り越えてくださることに信頼するときに、苦難や困難の一歩先にある神の素晴らしい栄光、その栄光を共有することができることを確信し告白しています。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。全てを善きに変えてくださる神が共におられ、神が困難な状況を公平に知っておられ、神に信頼することが出来るとき、わたしたちも状況を越えて主にある喜びを体験することが出来ます。


 
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