すべてを御手に支えられる

(ダニエル書5章22-25)


バビロニア帝國は、紀元前562年バビロニア帝國のネブカデネザル王が没した後に、エビル・メロダクが王位を継ぎ、その後も相い次いで王位が変わりました。
ネブカデネザルの後を継ぎ長期間バビロニアの首都を離れていたネブカデネザル王の子ネボニドゥスとともにバビロニアの都で国内統治を委ねられたネブカデネザルの孫ベルシャツァルは、大臣、高官一千人を大宴会場に招き、盛大な酒宴を催しました。

この酒宴がたけなわになった頃、ベルシャツァルは、ネブカデネザルがエルサレムの神殿から戦利品として取ってきた金、銀の器を持って来るように命じ、これを王とその大臣、高官たち、および王の妻とそばめたちの酒を飲むための酒宴の器として饗しました。
さらに、王とその大臣、高官たち、および王の妻とそばめたちは、神殿の金、銀の器から酒を飲みながら、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を讃えました。

すると突然、人間の手の指が現われ、この宮殿の大宴会場の大広間の塗り壁に物を書きました。
ベルシャツァルは物を書くその手の先を見て顔色を変え、それにおびえて、腰の関節がゆるみ、ひざをがたがた震わせひざが互いに打ち合うほどでした。

王は、大声で叫び、呪文師、星占いたちなどのバビロンの知者たちを連れて来させ、「この文字を読み、その解き明かしを示す者にはだれでも、紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけ、この国の第三の権力を持たせよう。」と命じました。
しかし、そのとき大広間に呼ばれてはいって来た王の知者たちはみなその文字を読むことも、王にその解き明かしを告げることもできませんでした。

ベルシャツァル王がひどくおびえて、顔色が変わり、貴人たちも途方にくれているところへ、王母が王と大臣たちの言葉を聞いて、その宴会場にはいってきて、「王よ、あなたの国には、聖なる神の霊のやどっているひとりの人がおります。あなたの父の代に、彼は、明知、分別および神のような知恵のあることをあらわしました。あなたの父ネブカデネザル王は、彼を立てて、博士、法術士、カルデヤびと、占い師らの長とされました。王がベルテシャザルという名を与えたダニエルという者ですが、このダニエルには、すぐれた霊、知識、分別があって、夢を解き、なぞを解き、難問を解くことができます。ゆえにダニエルを召しなさい。彼はその解き明かしを示すでしょう」(注、口語訳 ダニエル書7章12)と奨め、この時に70歳近くになっていたダニエルが王の前に連れて来られました。

ベルシャツァルは、「あなたは、私の祖父ネブカデネザル王がユダから連れて来た捕虜のひとり、あのダニエルか。あなたのうちには神の霊が宿り、また、あなたのうちに、光と理解力と、すぐれた知恵のあることがわかった、と聞いている。知者、呪文師たちを私の前に召して、この文字を読ませ、その解き明かしをさせようとしたが、彼らはそのことばの解き明かしを示すことができなかった。今、もしあなたが、その文字を読み、その解き明かしを私に知らせることができたなら、あなたに紫の衣を着せ、首に金の鎖をかけさせ、国の第三の権力を持たせよう。」と言いました。


ダニエルは王の申し出に、「あなたの贈り物はあなた自身で取っておき、あなたの報酬は他の人にお与えください。しかし、私はその文字を王のために読み、その解き明かしをお知らせしましょう。」と答え、

「神は、あなたの父上ネブカデネザルに、国と偉大さと光栄と権威とをお与えになりました。神が彼に賜わった偉大さによって、諸民、諸国、諸国語の者たちはことごとく、彼の前に震え、おののきました。彼は思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低くしました。
こうして、彼の心が高ぶり、彼の霊が強くなり、高慢にふるまったので、彼はその王座から退けられ、栄光を奪われました。そして、人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。

ベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。

それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。

それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。
その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』
そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。
『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。
『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」と、現われた人間の手の指が塗り壁に書いた文字とその意味を解き明かしました。

その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは、ミード軍が堅固なバビロニアの城壁の濠の水門を堰き止め渇いた濠をつたって都に侵入してきた混乱のなかで、家臣に暗殺されました。

こうして、このときから160年以上前にイザヤが「彼らは食卓を整え、座席を並べて、飲み食いしている。『立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。』主は私にこう仰せられた。『さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。 戦車や、二列に並んだ騎兵、ろばに乗った者や、らくだに乗った者を見たなら、よくよく注意を払わせよ。』すると獅子が叫んだ。「主よ。私は昼間はずっと物見の塔の上に立ち、夜はいつも私の見張り所についています。ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。『倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた。』」(イザヤ書21章5-9)と述べた預言が成就しました。

バビロニア帝國は紀元前536年に滅亡し、ミード、ペルシャ帝国に時代が変わり、ダニエルはクロス王の時代まで歴代の王に仕えました。


メネמְנֵא
神は、わたしたち一人一人のこの世での人生を割り当て数えておられます。
わたしたちは、若いときには人生がいつまでも続くように思えます。しかし、中年を過ぎる頃から自分の人生が半ばを迎えていることを悟り、より真剣に自分の人生について思うようになります。そして、老年を迎えると、自分の人生を振り返りはじめます。
わたしたちの人生のすべての道は、神が支配されておられます。誰も人生を自分ではじめ、自分で終わらせることはできません。神がこの世でのわたしたちの人生をはじめておられ、わたしたちの人生を終わらせるのです。

テケルתְּקַל
秤は、しばしば正義の象徴として、例えば現在でも正義を守る象徴として秤が法曹界のシンボルとしてつかわれています。そして、このばあい、善と悪のバランスを量るものとして秤が使われています。
ベルシャツァルは、神の権威、支配についてネブカデネザルが光栄と権威を与えられ、心を高ぶらせ、高慢にふるまったために王座から退けられ、栄光を奪われ、悔い改めていと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者を立てられることを知るようになり、ダニエルの勧告を受け入れて、国の繁栄を回復したことを見、知っていました。
そして、エルサレムの神殿から戦利品として取ってきた金、銀の器が主の宮の器が神に奉献された器であることも知っていました。
さらに、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々、聞くことも、見ることも、知ることもできない偶像を賛美して創造主である生きた神の栄光を冒涜しました。
ベルシャツァルの人生は秤で量られ、目方が足りないということが決定しました。

わたしたちは、しばしば自分の善を過大評価し悪を過小評価して秤を量る誤ちを犯します。

神は、わたしたちの人生を人の義とキリストの義を量る秤によって量られます。
神の量られる秤によってわたしたちが量られるとき、、わたしたちの義は不完全でキリストの義に比べぼろきれのように汚く、キリストの義の重さにたいしてわたしたちの義の目方は圧倒的に足りません。

しかし、素晴らしいことに、神は、わたしたちがキリストを信じるとき、わたしたちの側にイエスキリストの義を秤の上に置いてわたしたちの人生を量ってくださり、わたしたちの人生の罪の重みを帳消しにしてくださいます。

ウ・パルシンוּפַרְסִין
あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられる。
「あなたの時は終わりとなった。」という時が誰の人生にも必ずやってきます。わたしたちがどんなにこの世の富を蓄え、この世で食べ、飲み、楽しんでいても、この世で貯めた富、物は分割され、他人の手に渡ることになります。

イエスは「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ福音書12章16-21参照)というたとえ話しをされています。

わたしたちが、この世での人生を終えるとき、もしわたしたちが神の恵み、キリストの救いを受け入れない人生を歩むならば、わたしたちの魂は滅びに至り、神の前に富むことのない愚かな人生となります。


ダニエルは、神がわたしたち人の息、わたしたちのすべてをその手に握っておられると宣言しています。

多くの人々が、神が、わたしたちの息、わたしたちのすべての道をその手に握られていることさえ意識していません。 
神は、人を神に似せて創造されたばかりではなく、人の体の細胞の細部に至るまでをデザインされ、その御手で支えておられます。

わたしたちが呼吸することや、わたしたちの心臓が働き血液を体内の器官に送り続けることは、人がコントロールして機能しているのではなく、人の身体がそのように創られているからです。
わたしたちは、自分の人生は今日と同じように明日も続くと考えています。
しかし、元気に過ごしている人が突然交通事故で死亡したり、知らないうちに体内がガン細胞に犯され、わたしたちの予測を超えた人の命のはかなさを体験することがしばしば起こります。

神が、わたしたちのすべてをその手に握られている事実は、神に信頼し、わたしたちの罪の贖いを神がイエスキリストによって成就してくださったことを信じる人々にとっては限りない慰めであり希望となります。

しかし、生ける神を否定し、冒涜する人々にとっては、神がわたしたちの息、わたしたちのすべての道をその手に握られているという事実は受け入れがたい恐怖となります。

人々が不品行な行いや自分の快楽のためだけに人生を送り、偶像の神々を讃えるとき、それはベルシャツァルの場合と同様に神を冒涜する人生の歩みとなります。

神に信頼し、わたしたちの罪の贖いをイエスキリストの十字架によって成就してくださったことを信じ、恵みによって希望に満ち神の前に富んだ人生を歩むか、神を否定し、神を冒涜し滅びにいたる人生を歩むかは、わたしたち一人一人の選択にかかっています。



 
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