終わりの時

(ダニエル書12章6-10)


ペルシアの王クロスの治世第三年に(紀元前533年頃、)ダニエルは、終わりの日にイスラエルの民に起こることを悟らせるためにあらわれた(ダニエル書10章14)亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締め、からだは緑柱石のようで、顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのような目をし、腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のような、ひとりの人から(ダニエル書10章5-6)幻を見せられました。

ダニエルが示された幻は、ミードペルシア帝国、ギリシア帝国、およびローマ帝国に至る時代にイスラエルの民、エルサレムの地で起こることの詳細(ギリシア帝国時代からローマ帝国へ移行してゆく時代、ギリシア帝国のアレクサンダー大王の死後、その将軍たちが広大な領土を分割し争ってゆく時代、とくにセレウコス王朝とプトレマイオス王朝の各時代の確執の詳細とセレウコス王朝のアンチオコス・エピファネスのエルサレムの神殿に於ける暴挙の預言、ダニエル書11章1-34参照、)でした。
そればかりではなく、この幻は終わりの日にこの世にどのようなことが起こり、神に背く人々の欲求と矛盾の行き着くところで、世界中の人々を巻き込む大きな戦いが起こり、イスラエルの国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難の時を経て、神のいのちの書に名を記されているすべての人々に、救いがもたらされてゆく様子が示されていました。
ダニエルはこの幻の意味を尋ねていますが、ダニエルにあらわれた人は、「このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられている」と、答えています。
終わりの時について、「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。」(ダニエル書12章11)
「思慮深い人々が大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者が、世々限りなく、星のようになる。」(ダニエル書12章3)と述べられています。 


エルサレムを建て直せという命令が出された時から数えて六十九週目にメシアが神殿に入城されるという預言のとおり、紀元32年4月6日イエスは、子ろばに乗ってエルサレムに入城し、ホサナ、ホサナという群衆の歓呼に迎えられ、はじめてご自身が救いの君であることを公にされました。そしてその直後メシアであるイエスは、ご自分のためには何も受けることなく十字架に架かられました。

メシアとしてこの世に来られたイエスは、イエスを救いの君、主であることを信じ従った弟子たちに「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」(ヨハネ福音書14章3)と約束をされ、十字架の上でわたしたちの罪の贖いを完成され、復活されて天に昇られました。

イエスキリストの福音は約束の民ユダヤ人だけでなく異邦人にも伝えられました。

福音が異邦人にも伝えられてから、エルサレムの都と神殿は、御使いによってダニエルに告げられたとおり紀元70年に滅びました。イスラエルの民、ユダヤ人たちは洪水に押し出されるように世界中に離散しエルサレムは荒廃した状態が続き、この町と城壁をめぐって現代にいたるまで紛争は続き戦争の絶えない状態が続いています。


イスラエルの土地は長い間荒廃し、草木の生えない石の多い荒地となりましたが、19世紀後半頃から20世紀にかけて、今まで不毛の地であった地域への開墾が行われ、、緑豊かな土地に回復してゆきました。さらに、農作物、特に果樹栽培が盛んになり、イスラエルの地の回復が歴史的現実となりました。
イスラエルの民は20世紀にもわたって世界各地に離散し、差別と侮蔑の的のなかで民族としての独自性を失わず、神が約束された地に戻り土地と国家の回復を遂げ、1948年5月14日、再建された国家に独立が認められました。   

神の霊は現在、イエスキリストの十字架の贖いと復活の希望にあって人生を歩む人々の群れに注がれています。そして、神の霊が再びイスラエルの家に注がれる前に、イエスキリストの十字架の贖いと復活の希望にあって人生を歩む人々の群れは、御使いのかしらの声と神のラッパの響きのうちに引き上げられ空中で主にお会いします。この歴史的な出来事は携挙と呼ばれます。

「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」(第一テサロニケ4章15-5章6)

終わりの日にはイスラエルへ北方から侵攻するロシア、イラン、エチオピア、リビア、などの大軍によって侵略戦争が引き起こされることが預言されています。

この中東戦争と同時か、それ以前に、キリストを主とし信頼して生きる人々が、突如この世から携挙されるという預言が実現すると思われます。                                        
そして、携挙が起こることによって世界を巻き込む中東の混乱状態は、より加速的なものとなるでしょう。  

こうして御使いガブリエルをとおしてダニエルに示された、イスラエルの民とエルサレムの都についての70週の預言の最後の聖なる都について、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎が贖われ、永遠の義がもたらされる最後の一週、7年間が、再び動き出します。


世界が携挙という出来事と中東の戦争によって混乱状態に巻き込まれてゆくなかで、人々は、世界平和を実現し、強力な指導力をもって世界の混乱を安定させる政治、経済の分野にわたって優れた指導力を発揮する人物の登場を期待します。            

この期待に応えて、多分ヨーロッパ共同体のなかから天才的な政治力、経済的な指導力を持った人物が登場し、「彼」によって、世界中に7年間の和平条約が結ばれます。
「彼」は、イスラエルとイスラム圏諸国の和平の象徴として、わたしたちが現在見ることのできるエルサレムの神殿の丘の岩のドームの北側を塀で仕切り、そこにユダヤ人たちが待望していたソロモン時代の神殿を築くと思われます。

現在、イスラエルは未だに国家としては、非常に世俗的であり、聖書の神、イスラエルの神を信じる人々は、人口の僅かに5分の1に満たないと言われています。
神の霊は、イスラエルの家に未だに注がれていません。イスラエルの民は、エルサレムに神殿を再建する人物「彼」を自分たちの救世主、平和の君として期待しています。

「 わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。
互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」(ヨハネ福音書5章43-47)

この「平和の君」は、携挙の起こった後で、宗教的偽善と背きのことがおこるなかで、世界中の宗教にかかわる指導者的人物をたて、この人物と互いに利用しあいながら、人々の魂や思いを宗教的支配下におき、世界中の人々の思いまでも管理しようとします。

「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」(第二テサロニケ人への手紙2章3-4)

「彼」の登場とともに、先にダニエル書の預言でみた7年の期間、彼に捉われ、支配されてゆくこの世に対するの神の怒り、人類の患難の時代が到来します。
このときの様子がどのようなものであるかは、黙示録6章から19章や、マタイ福音書24章におけるイエスの預言に、さらに詳しく描写され、述べられています。

「彼」は、ダニエルの預言の最後の一週、7年間の半ば、和平条約の結ばれた3年半後に、自らこの条約を破棄し、 エルサレムに再建された神殿の至聖所に入り、自分の肖像を祀り、すべての人々に「彼」が神であることを認め、拝むことを強要します。 

この「彼」、「獣」、「滅びの子」の独裁政権にたいして世界中が今までにない混乱と破滅の時を迎え、7年目の終わりの時、人類は絶滅戦争に突入し、「終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて、彼を襲撃し、国々に侵入し、押し流して越えて行く。彼は麗しい国に攻め入る」(ダニエル書11章40、41参照)という預言が現実のものとなり、世界の十字路メギドの平野にアフリカ圏、ロシア圏、ローマ帝国時代のヨーロッパ圏、東洋の軍団もふくむ、世界中の軍隊が集結し、メギドの平野一帯は血ぬられた戦いの場となります。この戦いはハルマゲドンの戦いとよばれています。(黙示録16章12-16参照)
     


この人類の最終戦ともいえる絶滅戦のまさにそのとき、この地上にイエス・キリストが再臨されます。
この7年の患難の期間の最後に世界中の軍隊がイスラエルのメギド平野に集結し、互いに最後の大戦闘を行い、すべてが共倒れになろうとしている時に、携挙されすでに栄光の姿に変貌した聖徒と共にキリストがこの地上に再臨されます。 
この時、世界の軍隊はキリストに立ち向かおうとしますが、一瞬のうちに反キリスト「彼」と彼に従うものを滅ぼされ、その後、子羊の婚姻の大晩餐が開かれイエス・キリストにある信仰を持つ者がこの大晩餐に招かれます。

この時こそ「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。」(ダニエル書12章11)という預言が成就し、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐ」ということが現実のものとなる時です。 

イエスが神の御国を建てられるために戻って来られる時、まず初めにされる事は、民を集められ、大患難の期間を生き残った人々の中で、誰が神の御国に生きる特権が与えられるかを決められられます。それから、イエスが神の御国を千年の間支配され、キリストのからだとされた人々が共に地上の王国の祭司として治め、仕えます。

神の国がこの地上に到来する時には、嫉み、妬み、奢り高ぶり、争いなどの存在しない全くの平和のなかで、心の傷や悲しみを持つ者のない、すべての人々が想像を超えた栄光ある豊かさのなかに、解放と喜びと完全な義の宿る光の世界が訪れます。
 
イエス・キリストの千年の支配の間、人々は正しく義なる生活を送る以外の選択はありません。私達は特別な力と栄光の体を持ってそこにいるでしょう。正義が全人類に執行されます。
イエスを主とし、キリストに従う人々はその千年間、人々が義なる人生を送る時、それがどんなにすばらしいかを見ることになるのです。 

神は、地上から疫病、病、戦争、争い、災害が無くなった平和と義の千年間の終わりに、地上に住む人々を試される為に、サタンを一時その牢から解き放されます。(黙示録20章7節)
しかしこのサタンの抵抗は短期間に砕かれます。「彼らは聖なる御使いたちと子羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。彼らは昼も夜も休みを得ない。」(黙示録14章10-11節)
そして、黙示録20章11-15節に記録されているように、主が大きな白い御座の裁きを始められます。
このとき、いのちの書に名のしるされていない者がみな燃える火の池に投げ込まれ永遠に神から離れ、第二の死を迎えます。

その後、神は新しい天と新しい地とを創造され、御座から出る大きな声を聞きます。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21章3,4)  

「思慮深い人々が大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者が、世々限りなく、星のようになる。」(ダニエル書12章3)という預言が成就します。



 
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