神が喜び愛の詩を歌われるとき

(ゼパニア書3章17)


神が約束される栄光に満ちた日が全世界におよび、主がすべてを清められ、神に信頼するイスラエルの栄光が回復され、万物が贖われる日についてゼパニアは預言しています。 
その日にはイエス・キリストが王の王、主の主として来られ、義と平安と喜びに満ちた神の国がこの地にもたらされ、サタンは地獄の牢につながれ、この世には悪の存在しない、悪を行うものも存在しない文字通りの楽園が出現します。

しかし、このような素晴らしい神の国が到来する前に、避けることのできない破滅が迫っていることがゼパニア書全体をとおして述べられています。

「主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。
その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日」(ゼパニア書1章14-15) 

神は義と平安と喜びに満ちた世界を治められ、悪、背き、罪を容認されず、主の日、主の憤りの日が必ず到来し、神がこの世の穢れをすべてきよめられる日が近づいていることをゼパニアは警告しています。

「呼びかけを聞こうともせず、懲らしめを受け入れようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない。」(ゼパニア書3章2)ものには破滅が到来することが述べられています。


ゼパニアは、創造主である神を神として認めず、偶像を神とし、神の愛を拒否する人々に神の激しい怒りの日が必ず来、神の裁きがすべての民に及ぶことを予告しています。

「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。」(ロマ書1章18-25)

全人類におよぶ主の大いなる日、主の激しい怒りの日が近づいているしるしを世界中で起こっている出来事をとおしても見ることができます。

神は自然現象に見える様々な災害をとおして、そのつど人々が悔い改めて主に立ち返る機会を与えられています。

20世紀の終わり頃から、世界中で起こる地震、津波、嵐、ひでり、干ばつなどの自然災害は、スマトラの地震、大津波、中国やチリ、ハイチで起こった地震、日本における東北大地震や津波の例を挙げるまでもなくその激しさを増し加えています。

アラブの春と呼ばれる中東区域におけるアフリカ、リビア、ソマリアなど、さらにシリアにおける内戦は今も続き、イスラエルを取り巻く中東の情勢は混沌としています。
世界中の人々の心は冷え、人々はより一層、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者となっています。

これらのすべてのしるしが全人類におよぶ主の激しい怒りの日がすでに近づいていることを示しています。 

しかし、多くの人々がこれらのしるしがすでに昔から繰り返されてきたこととして神の警告とは受け止めていません。
度々起こる自然の大災害や国家財政の疲弊、政治の腐敗、社会の道徳的堕落、不正と不義、を見てもほとんどの人々が、終わりの日の裁きが近付いているにもかかわらず、悔い改めて自然と宇宙のすべてを創造された神に立ち返ることに思いを留めず、神の救いに注意を払わず、いかにこの世で楽しく過ごすかということだけに関心を向けています。

人々が偶像礼拝、腐敗、堕落、不義に陥ってゆくという状態のなかでも、民が心から主なる神を求め、神の義を求めつづけるなら、神は裁きと神の怒りから守られるかも知れないと、ゼパニアは述べています。

「主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」(ゼパニア書2章3)

イエスご自身もこの世に来られたときに「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(ルカ福音書21章36)と言われています。


イエス・キリストは、わたしたちの代わりに、罪、穢れ、背きのすべてを十字架の上で、負われ、神の裁き、罪の責めを負って下さいました。
このキリストの贖いを自分のものとして受け入れ、主の霊に導かれ、復活の栄光の主にお会いする希望によって神に信頼して人生を歩む人々は、主がきよくあられるように自らを一瞬、一瞬きよくします。(第一ヨハネの手紙3章3)

このような人々は、主の怒り、主の憤りがこの世に下る前に号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主とお会いし主の怒りの日から守られます。

しかし、偶像礼拝、腐敗、堕落、不義に陥った世界中の民が破滅に向かう日を避けることは出来ません。
ヨハネの黙示録6章から18章には神の怒りの日がどのようものであるのかについて、より詳細が描かれています。

そのとき、神は諸国の民を集め、もろもろの王国をかき集めてさばき、神の憤りと燃える怒りがことごとく彼らに注がれます。全地は偶像を拝み、神に背く罪にたいする主のねたみの火によって、焼き尽くされます。(ゼパニア書3章8)


神の裁き、罪にたいする神の怒りの日は必ずやってきます。
しかし、神のご計画は、人類に破滅をもたらされることではなく、神に信頼する人々を救い、栄光に満ちた義と平安と喜びの世界で互いにキリストの愛の実を喜ぶことの出来る神の国をもたらすことにあります。
イエスキリストが地上に再臨されるときには、神の霊が再びイスラエルに注がれます。

「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリア書12章10)

「わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示すとき、
彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。わたしは彼らを国々に引いて行ったが、また彼らを彼らの地に集め、そこにひとりも残しておかないようにするからだ。
わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さず、わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ。・・神である主の御告げ。・・」(エゼキエル書39章27-29)

「シオンの娘は喜び歌い、イスラエルは喜び叫び、エルサレムの娘は心の底から、喜び勝ち誇るときがきます。それは主がイスラエルへの裁きの宣告を取り除き、敵を追い払われ、主が民のただなかにおられ、もう災いを恐れることがなくなります。」(ゼパニア書3章14-15)

そしてゼパニアがこの箇所で述べているように、「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」のです。

神は、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださり、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもなくなります。以前のものが、もはや過ぎ去り、すべてが新しくされます。(黙示録21章4-5)

イエス・キリストが来られたのは、罪を贖われ、人々を救われるためです。
主は救われた人々を喜びをもって楽しみ、その愛によって安らぎを与えられます。

神が救われた人々を喜びをもって楽しむということはわたしたちの想像を越えた素晴らしいことです。
わたしたちも、自分たちが犠牲となっても子や孫の幸福を喜び、交わりを持って時を過ごし子供たちや孫たちに囲まれ愛する家族、子供や孫たちが共に集うとき心がはずみ、喜びをもって楽しむという幸福を味わうことがあります。
神がわたしたちを救い、わたしたちが神の救いに信頼し、わたしたちに神が喜びをもって楽しまれ、そのなかで安らぎを得ることほど素晴らしいことはありません。

神は イエス・キリストを信じ新しく生まれ神の子とされた人々を喜びをもって楽しまれます。
そればかりではなく、神はその愛によって救われた人々に安らぎを与えられます。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ4章10)

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ福音書15章13)

神は、わたしたちが永遠のいのちを得るものとなるために、わたしたちにいのちを与えられました。
神の与えられる安らぎに安らぐことほど大きな安らぎはありません。

神は、救われて神の子とされた人々を喜び楽しまれ、力強い威厳のある声で愛の詩を歌われます。
「主の声は、力強く、主の声は、威厳があります。」(詩篇29篇4)

神は、はじめからご計画されたようにすべてを清められ、神に信頼するものを回復され、万物を贖われ、永遠に新しくされた素晴らしい神の国で神の子を喜びをもって楽しまれます。  

使徒パウロの、「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3章19)という祈りは、わたしたちのための祈りです。


 
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