魂の値

(ゼカリア書11章12-13)


価値のないものを高値で買ったり、非常に高価なものを知らずに安い値段で売ってしまったときに、すでに取り返しのつかない激しい後悔の念にかられることがあります。

イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言って、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返そうとしましたが
彼らから、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言われ、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、外に出て行って、首をつって死にました。(マタイ福音書27章3-5)

イエスの弟子の一人イスカリオテの ユダは、イエスを裏切り、イエスを敵視し殺意を持っていた祭司長や長老に銀貨三十枚でイエスを売り渡してしまいました。
ザカリアはこのことが実際に起こる五百年以上も前にこの箇所でそれを預言しています。 

「そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。『彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。』すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。」(マタイ福音書26章14-16)

ユダはイエスを売り渡してしまった後で、激しい後悔の念にかられ、この三十枚の銀貨を返そうとしましたが、すでに取り返しのつかないことを彼らから宣告され、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り外に出て行って、首をつって死にました。

祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言い、相談の結果、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にし、その畑が血の畑と呼ばれるようになりました。


ユダが売り渡したのはイエスではなく、イエスを裏切ることによってイエスとの関係、自分自身の魂、いのちを売り渡してしまったのです。

ユダは非常に高価なまことのいのちを、銀貨三十枚という安値で売ってしまったのでした。

イエスは、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。 」(マタイ福音書16章28)と言われています。 

アメリカ大陸にヨーロッパから渡ってきた人々が、キラキラと光る安物のビーズを先住のインデァンたちに見せ、彼らが住んでいた鉱物資源の眠る土地と引き換えて、広大な土地を手に入れるという汚点となる歴史があります。

サタンは、わたしたちに目先にキラキラと光る安物を見せ、わたしたちの最も尊い魂、まことのいのちと引き換えようと、常に虎視眈々(こしたんたん)とわたしたちの隙を伺っています。

銀貨三十枚は、イスラエルの民の律法では、牛が奴隷を突いたときに支払わなければならない賠償額でしたが、サタンはわたしたちの魂、いのちを最も安値で買い取ろうとしています。

ユダに銀貨三十枚で裏切られたイエスは、わたしたち一人一人の罪の代価を十字架の上で流された血によって買い取ってくださいました。イエスの十字架の業と復活によって、わたしたちが支払ってもとうてい買うことのできない罪の贖いの代価がすでに支払われたのです
多くの人々が、一瞬の無価値な自分の楽しみや、キリストを信じることで他から辱めを負うことを避けようとして、与えられている罪からの解放とまことのいのちを受け取ろうとしないばかりか、自分で喜ぶことのできない価値のないものと引き換えに、魂を売り渡しています。


魂と引き換えに手に入れる富や快楽は結局は空しく、仮にそれを手に入れても本当の喜びを得、楽しむことができません。

イスラエルの民がヨルダンのエリコをのぞむ対岸のモアブの草原に宿営したとき、モアブの王バラクはイスラエルの民が多数であったので非常に恐れ、銀や金の褒賞をもって同族の国にある呪術師ベオルの子バラムを招き、イスラエルの民をのろうことを依頼しました。ところが、神がバラムにイスラエルの民をのろうことを禁じられたので、バラムはピスガの頂きからイスラエルの民の宿営を臨み見て呪うかわりに、祝福の預言をしました。怒ったバラクはバラムへ褒賞を与えることを取り止めようとしました。
しかし、バラクからの褒賞金、利益に目のくらんだバラムは、モアブのミデヤン人の娘たちによってイスラエルの青年たちを誘惑し、彼らが淫らなことをして、イスラエルの男たちがモアブの神々を拝むようにしむけ、偶像を礼拝する民が生ける神からの怒りを買い、呪われるという陰険な策を授けました。
バラムは欲のために神から与えられている予見者としての能力、魂を売り渡しました。(民数記22章-24章 参照)
しかし、バラムはイスラエルがミデヤンの王たちと戦ったとき、その戦いに巻き込まれ剣にかかって殺されてしまいました。(民数記31章8参照) 

イスラエル統一王国の王ダビデには、アブシャロム、タマルの兄妹の他に腹違いの子アムノンという子供がいました。
アムノンは腹違いの妹タマルのことを恋しましたが、処女である彼女に何かするということはとてもできないと思い、恋わずらいでやつれてゆくほどでした。
アムノンにはヨナダブという悪友がいて、アムノンがタマルへの恋わずらいに陥っているのを見て、アムノンがタマルを手篭めて処女を奪ってしまうという悪計を授け、仮病をつかってタマルに病人食を自分の寝室まで届けさせました。                  アムノンは、皆を部屋から出した後で、タマルと二人きりになったところで彼女を無理やり手篭め処女を奪ってしまいました。ところがアムノンはこうして欲望のはけ口を発散させてしまうと、ひどい憎しみにかられてタマルを嫌い、その憎しみは彼がいだいた恋よりもひどいものでした。そこでアムノンは召使の若い者を呼んで「この女をここから外に追い出して、戸をしめてくれ。」と言って彼女を部屋から追い出してしまいました。
それから満二年たって、タマルの兄アブシャロムが羊の毛の刈り取りの祝いをしたとき、アブシャロムは王の息子たち全部を招き、アムノンが酔って上きげんになったとき、アブシャロムに仕える若い者たちによってアムノンを殺してしまいました。(サムエル記下13章1-28)

バラムの場合もアムノンの場合も、陰険な策略によって自分の魂と引き換えに肉の欲望を満たすため、神が禁じられている方法で無理やり富を得、性欲を満足させようとしました。
しかし、彼らは手に入れたと思われるものを本当に楽しむことはできず、結局は自分に滅びを招きました。

多くの人々がバラムやアムノンのように自分の肉の欲求の虜となって自分の魂と引き換えに、本当の喜びとはならないもののために自分のいのちを滅びに至らせています。


ユダは、イエスを売り渡してしまった後で後悔の念にかられ、銀貨三十枚を返そうとしましたが、祭司長や長老たちから「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言われ、銀貨を神殿に投げ捨て立ち去り死んでしまいました。祭司長たちは、その銀貨で陶器師の畑を買い取り墓場としました。

取り返しがつかない激しい後悔の念にかられて、ユダが神殿に投げ捨てた銀貨によって、祭司長たちが墓場としてしか利用できない陶器師の畑を買ったという預言の成就と歴史的な事実のなかにも、圧倒的な神の御手がはたらいているのをみることができます。
聖書には、陶器師の家の陶器師とろくろと粘土が、生ける神、神の用いられる状況と人々を象徴する比喩としていくつかの箇所で説明されています。 

「 しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(イザヤ書64章8)

「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
すると、あなたはこう言うでしょう。『それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。』
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。
陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」(ロマ書9章19-24) 

陶器師は粘土に対して絶対的な権威と権利をもって、粘土から自分の作品である器を作り上げてゆきます。
陶器師に比喩されている神は、粘土に比喩されている選びの民に対しても絶対の権威と権利を持っておられます。

陶器師は粘土をよく捏ねたあとでろくろの上に乗せ、ろくろを廻し圧力を加えながら手のなかの粘土を自分の気に入った作品に仕上げるために器のかたちを整えていきます。そしてできあがると上薬を塗り、最後の仕上げとして釜のなかに器を入れて焼き、作品を完成させます。
しかし、この最後の仕上げをする釜の中で壊れてしまう器があります。このような器はもはや使いものにならず、砕かれた器は捨てられますが、このような壊れた器が捨てられた陶器師の畑は、作物が育つことがなく死体を埋める墓場にしか使い道のない土地となってしまいます。

わたしたちは、神の愛と慈しみの御手に信頼し、イエスキリストが与えられたいのちによって、罪からの解放と永遠のいのちを得る者となるのか、肉の欲求、肉の思いによって魂を売り渡し滅びに至るのかの選択を、常に与えられています。



 
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