主の霊によって

(ゼカリア書4章6-7)


バビロニアでの七十年の捕囚期間が過ぎ、ペルシア王の勅令によって帰還を希望するイスラエルの民は故郷へ戻ることが許されました。(紀元前538年)
最初に故郷へ帰還を希望したのはユダヤ地区の総督となるゼルバベル、祭司ヨシアなど約五万人がエルサレムへの帰還を果たしました。(紀元前536年)
彼らはペルシアの王によってエルサレムへ戻り、神殿の再建と神殿での礼拝のためにネブカデネザルによって奪取された、神殿の器具と共に帰還のための資金が与えられました。

彼らは神殿の再建にとりかかりましたが、やがていろいろな問題に直面し、神殿再建計画は困難を極めました。
特に、民がバビロニアで捕囚になっていた七十年の間に、エルサレムの地に他の地域から移住してきて住みついた人々からの妨害に悩まされ、彼らは、思っていた以上に実際の神殿再建が膨大な事業であることに気づかされました。

ネブカデネザルによって廃墟と化した神殿の丘は、巨大な瓦礫の山のようであり、再建をはじめた民は、当初の意気込みを挫かれ再建のプロジェクトは途中で頓挫してしまいました。
民は神殿を再建することよりも自分たちの家を建てることや畑を耕すことに精を出すようになり、神殿再建は途中十六年もの間中断され放置されてしまいました。

ゼカリアと同時代の預言者ハガイもこのような状態にあったイスラエルの民に、生ける神を忘れて自分たちのことだけに追われるだけならば、多くの種を蒔いても少ししか取り入れず、食べても飽き足らず、飲んでも酔えず、着物を着ても暖まることがない。そして彼らが最重要な課題に取り組むことを呼びかけました。
民はバビロニア捕囚以前には、農耕を中心とする生活をしていましたが、バビロニアでの捕囚期間中に、商業や金融活動をおぼえ、多くの人々が新しいかせぎをそれらの分野で得るようになりました。しかし、ハガイは、神を中心にしない生活は、かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるような状態となると言って民が再び神殿再建計画に取り組むよう励ましを与え、民に奮起を思い起こさせました。(紀元前520年)

このような励ましによって、民は再び神殿再建の計画に取り組みますが、山のような瓦礫とソロモンの時代に比べて圧倒的な資金不足と人手不足によって計画は遅々として進みませんでした。


神はこの同じ時期に、レビ族の祭司の子孫ゼカリヤに幻を見せられました。「あなたは何を見ているのか」と問いかける天使に、幻を見ているゼカリヤは「七つの管の上部に鉢があり、その上に七つのともしび皿のある全体が金でできた燭台、ミノーラ、のそばに二本のオリ-ブの木があり、一本は鉢の右に、他の一本は鉢の左にあります。」と答えました。
さらに、御使いがその意味について尋ねましたが、ゼカリヤにはその意味がわかりませんでした。(ゼカリヤ書4章2-5)
すると、御使いは「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。
大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」(ゼカリヤ書4章6-7)と答えました。
  
七本の管の上部に鉢があり、その上のともしび皿に油を入れて明かりを照らすミノーラと呼ばれる燭台は、モーセが神から天の御座を模して、イスラエルの民の中心となる幕屋を作ったときも、ソロモンのときに建造された神殿のときにも重要な役割を持っていました。

神はイスラエルの民が、神によって祝福を受けることを異邦の国々が見ることによって、彼らがこの世の光、祭司の国となることを望まれました。
燭台は、闇を照らす光としての重要な象徴でした。神殿の聖所のなかで祭司たちは、明かりが消えないように、燭台のともしび皿に油を切らさずに、ミノーラの七本の管の上部の鉢に油を満たすことが日常の重要な役割でした。
油は聖書全体をとおして聖霊をあらわす象徴となっています。

ゼカリヤが幻に見たのは、七本の管の上部の鉢からともしび皿に生きたオリーブの木から直接に油が注がれるように、金の燭台のそばに二本のオリ-ブの木があり、一本は鉢の右に、他の一本は鉢の左にありました。
従って祭司が毎日ともしび皿に油を切らさないように鉢にある油を点検し、あらたに油を注ぐ作業をしなくとも、火が燃え続け、神殿の聖所の明かりが灯されているという興味深い幻をゼカリヤは見たのでした。

新約聖書の黙示録には、イエスキリストの本来の栄光に満ちた姿と、神の偉大なご計画と素晴らしさが、使徒ヨハネの見た幻をとおして示されていますが、その冒頭でヨハネは七つの金の燭台の真ん中を歩まれる栄光のキリストを見ています。
そして、 この七つの金の燭台は七つの教会だと説明がされています。
ここでも、神のイスラエルが、神のことばと真理を証し、この世の闇を照らす光、灯火となることが求められ、キリストがそのなかを歩まれていることが描かれています。
イスラエルに課せられたこの世の光となる責務は、教会に課せられた責務ともなっていることがわかります。


御使いはゼルバベルに金の燭台の幻を見せ、民が主のわざをどのように行うのかを説明しています。
エルサレムに帰還した民は、期待に胸を躍らせ、情熱をもって神殿再建を行おうとしました。
しかし、神殿再建のための土台作り、基礎工事に取り掛かるにつれて、思った以上に神殿の再建が、彼ら自身の能力や力をはるかに越えた難事業であることに気づき、意気阻喪し、実際に神殿再建は中断を余儀なくされました。
彼らは自分たちの能力や力に頼って神殿再建計画を進めようとしましたが、計画は失敗してしまいました。

神はゼカリアに見せた幻をとおして、燭台の火が灯され光が輝くのは祭司の能力や力ではなくオリ-ブの木から直接注がれる油であり、神が注がれる聖霊によって神殿の再建を行うとき、自分たちの能力や力を越えた大きな山も平らにすることができることを示されました。    
幻は、聖霊の力に頼ることが、問題を乗り越える鍵であることを示していました。


わたしたちの人生にも、自分たちの能力、力だけでは手のほどこしようのない山のような大きな問題に突き当たることがあります。

自分の出来る限りの能力や力を傾け、大きな問題に向かっても失敗と挫折の繰り返しのような結果に終わり、挫折感と失望感に襲われ、もうどうなってもよいという思いに駆られ、意気消沈し、暗闇に落ち込んでゆくような体験をすることがあります。

ゼカリアに示された幻は、主によって与えれれた仕事を自分の力で成し遂げようとして失敗と挫折を味わうときに、わたしたちにも励ましとなる幻であることがわかります。

神は、わたしたちが聖霊の力に信頼するときに、自分たちの能力、力、努力だけではなし得ないことを、わたしたちのために成してくださいます。

「権力によらず、能力によらず、主の霊によって、わたしたちの前にある大きな山のような問題が生きた主によって平地にされてゆく」と宣言されておられます。


使徒パウロは、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(第一コリント6章19)と述べています。

神は、わたしたちが神から受けた聖霊の宮であるわたしたちのからだが贖われ、神の宮として完成されることを望まれています。

聖霊の宮であるわたしたちのからだが完成されるには、自分の力だけでは多くの問題と障害があります。
ゼカリアは、「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。
だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目である。」(ゼカリヤ書4章9-10)という主のことばを、このすぐ後で聞きました。

この箇所で述べられた神のことばは、歴代誌のなかで万軍の神がユダ王国のアサ王に言われたことばがそのまま引用されています。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」(歴代誌下16章9)

神はあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。
その心が神の心と全く一つになっている人々とはどのような人々でしょうか。
それは、神のわざを行おうとし、それが自分の力や努力によっては不可能だということを認め、神の霊に自分の肉の欲求、思いを完全に明け渡す人々のことです。
自分の生涯をとおして神の宮が完成ることを求める人々は、主を賛美し、聖なる主の住まわれるところとなります。
神はわたしたちの人生をとおして御力をあらわしてくださいます。

イエスが十字架の御業を完成され、死んで復活をされ弟子たちにあらわれたときに、弟子たちは「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」と尋ねました。   このとき、イエスは、「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒書1章7-8) と、答えられています。
わたしたちの生涯は、この闇の世にあっても聖霊の力に満たされて歩むときイエスキリストの証しとなり、世の光となる人生へと変えられます。

エレミアをとおして神が言われている御ことばは、現代のわたしたちにとっても真実です。
「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミア記29章12-13)

イエスは山を動かす信仰についても述べておられます。

イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ福音書17章20)

わたしたちが主の霊に自分を明け渡し、神に信頼して人生を歩むとき、主はわたしたちの人生の山を動かしてくださいます。



 
ゼカリア書のメッセージに戻る


a:1174 t:2 y:0

powered by HAIK 7.0.5
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK