陶器師の家 

(エレミア書18章1-6)


神殿を修復し、過ぎ越しの祭りを盛大に行い、改革を行おうとした南ユダ王国のヨシアは、アッシリヤの王のもとに行こうとユーフラテス川のほうに上って来たエジプトの王パロ・ネコを迎え撃ちに行き、メギドの戦場で戦死してしまいます。
ヨシア王の後を継いだ子のエホアハズは、エルサレムで3ヶ月間王位に就きますが、エジプトの王に幽閉され、代わりにヨシアの子エホヤキムが王位に就きます。
エホヤキムは十一年間エルサレムで王でした。このエホヤキムが王位に在るとき、エホヤキムはエジプトに金、銀を貢ぐため民に重税を課します。
紀元前 605 年、アッシリア帝国を破ったバビロニア帝国とエジプトとの間でアッシリアの領土と中東の全地域の覇権を得るために、古代帝国の雌雄を決する戦いが起こり、この戦いはバビロニア帝国が勝利します。
バビロニア軍を指揮するネブカドネザルがこの戦いから帰還の途にエルサレムを包囲し、ダニエルなどの王族貴族が人質としてバビロニアへ捕らえられ神殿の宝物が奪われました。

このように、エホヤキムの時代、ユダ王国はエジプトとバビロニアに挟まれ、国の存続と民は先行きの見えない不安な状態にありました。

ユダ王国が神の差し伸べようとされる恵みを拒否し、生ける神に背いてゆくときに後戻りのできない神の裁きに遭うことをエレミアは、警告し続けました。 
しかし、一方で、エレミア自身、何故、ますます状況が悪化し、神の選びの民が生ける神との拘わりのない異邦のエジプトやバビロンなどの国々によって裁きと滅びがもたらされなければならないのか、神の裁きの方法について解決のつかない疑問を抱き、神へ問いかけ、とりなしの祈りをしました。  


わたしたちは、時として思いがけないときに思いがけない場所で神の真理を知らされます。

この箇所で、エレミアは主なる神から陶器師の家へ行くように、ということばを受けて陶器師の家へ下っていったときのことが述べられています。

陶器師の家では、陶器師がろくろで仕事をしているところでした。
彼は粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の意のままにほかの器に作り替えていました。
陶器師が粘土にたいして絶対の権威を持ち、粘土から器を作品として完成させるために何度でも粘土に水をかけてこね、ろくろをまわし、器が気に入ったかたちになるまで粘土の器をこわし、作り替えながら仕事をしているのを見ているエレミアに「見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、 わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。」という主のことばが臨みました。

エレミアは、陶器師の家で示されている陶器師とろくろと粘土が、陶器師が神、作品を作り出すためのろくろが神の用いられる状況、粘土が神の手の中にある民を象徴をしていることを教えられました。

聖書ではこの箇所の他にも、陶器師の家の陶器師とろくろと粘土が、生ける神、神の用いられる状況と人々を象徴していることが同じような比喩によって説明されています。 

「 しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(イザヤ書64章8)

「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。
すると、あなたはこう言うでしょう。『それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。』
しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。
陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。
ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。
それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。
神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。」(ロマ書9章19-24) 

これらの箇所からも示されているように、陶器師は粘土に対して絶対的な権威と権利をもって、粘土から自分の作品である器を作り上げてゆきます。
陶器師に比喩されている神は、粘土に比喩されている選びの民に対しても絶対の権威と権利を持っておられます。

神の作られる状況はろくろに比喩されているように、日毎の周りに起こる状況をとおして、圧力を加えたり、試練をとおしてわたしたちが神の意のままに器、作品に作りかえられます。

もし、わたしたちがすべての状況に神の御手を認めることが出来ないときには、ろくろの上に乗せられた粘土が陶器師にむかって何故このような場所で目の回る思いをしなければならないのか、と文句を言っているような状態となります。

陶器師は粘土をよく捏ねたあとでろくろの上に乗せ、ろくろを廻し圧力を加えながら手のなかの粘土を自分の気に入った作品に仕上げるために器のかたちを作り替えてゆきます。
神の手にある人々は、陶器師の選んだ粘土に比喩されています。
陶器師がどこにでもある粘土を選び、これに水をかけながら、粘土が柔軟になるまで捏ねられるように、わたしたちも神の選びのなかで御心に柔軟になるまで捏ねられ、神の作られる状況のなかで神の作品、器として作り替えられてゆきます。

陶器師が粘土にたいして絶対的な権威と権利を持っているように、神が御手の中で人々に対する絶対的な権威と権利を行使されるだけのものならば、神の権威と権利はわたしたちにとって単に恐れを抱かせるものでしかありません。


陶器師にとってよく捏ねられた粘土がこれから作り上げてゆく素晴らしい器のための素材であるように、神は御手の中にある人々に慈しみの目を留め、心を込めて素晴らしい器に作り替えられるご計画を持っておられます。

ろくろの上の粘土が充分柔らかくされていないとき、陶器師はろくろから固い粘土をとりあげ再び固い粘土を砕き、捏ねるという作業をします。

粘土はどこにでもある素材であり、捏ねられて柔らかくならなければ、ろくろの上でも陶器師の思うように形作られることがありません。
陶器師の手の中で柔らかくならない硬い粘土は捨てられてしまい、粘土はそれ自体では何の目的も持つことができません。

神は時としてわたしたちが理解することのできないような悲しみや悲惨に選びの民を突き落とされる状況をもつくりだされます。
しかし、神の慈しみとご計画に信頼し、神の愛のご計画に委ねるとき、そのような状況をとおしても、わたしたちは神の慈愛と慰めを体験することができ、御手の中で替えられ神の作品として完成されてゆきます。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(第二コリント書1章3-4) 

神の愛とご計画に信頼し、慈しみの御手の中に委ねるとき、陶器師が決して仕損じることのない熟練した腕をもって粘土から素晴らしい器を完成させるように、わたしたちも神の素晴らしい器に作り替えられてゆきます。



 
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