裁きのもたらされる時

(エレミア書14章11,12、)


生ける神が恵みと慈しみの御手をどんなに差し伸べても、それを拒否し続けるとき国家の場合でも個人の場合でも神の恵みと慈しみの及ぶ境界線、限界点が存在し、その境界線、限界点を越えるとき、裁きを招き滅びがもたらされます。

わたしたちには、その境界、限界が何時でどこにあるのかはわかりませんが、しかし、神の豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじ、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げ、恵みと慈しみを拒否し続けるとき後戻りのできない滅びを招きます。

神がエレミアをとおしてユダ王国に対して宣言されているこの箇所も、ユダ王国が生ける神を知りながら、神の恵みの限界点を超え、神の裁きに直面することを宣告することばとなっています。

神はエレミアをとおして、この箇所を含めて同じような宣告を三度もユダ王国に述べています。

「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。」(エレミア7章18)
「 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいに会ってわたしを呼ぶときにも、わたしは聞かないからだ。」
(エレミア書11章14)

神が、この民のために祈ってはならないという状態にあることほど悲惨なことはありません。

生ける神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなり、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代え、心の欲望のままに汚れに引き渡され、互いにそのからだをはずかしめるようになり、神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕え、
あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者となり、
かたくなさと悔い改めのない心のゆえに御怒りを自分のために積み上げ、神の豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじ、(ロマ書1章21-32、2章4-6参照)
神の恵みと慈しみの及ぶ境界、限界点を越えるとき、神がエレミアをとおしてとりなしの祈りも無駄であると宣告されているように、裁きと滅びに至ります。            

人類の歴史には、神がアブラハムを選ばれ、その約束の子孫であるイスラエルの民が約束の地で繁栄し、王国となりダビデの時にその末が絶えることがないと約束された王朝が成立するずっと以前に神の恵みと慈しみの及ぶ限界を越えて滅びを招くことがありました。

その時も神は、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」と言われ、いのちの息あるすべての肉なるものを、天の下から滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こされ、主の心にかなっていたノアとその家族を除く地上のすべての人々が滅びにいたりました。

主はこのとき、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。」といわれています。神の霊が人のうちにとどまってくださるということは、素晴らしい神の恵みです。しかし、人が生けるすべてを創造された神を拒否するとき、神の霊は人のうちから離れ、そのとき人には裁きと滅びがもたらされます。


神は、わたしたちが恵みと慈しみの及ぶ境界、限界点を越えてしまう前にいろいろな方法で神の裁きの警告と、危険信号を送られます。

この記述の最初の部分で、日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば、と述べられているように、当時のユダ王国はひどい飢饉に見舞われ、雨の降らない状態のようでした。
神は、人が神が差し伸べようとされる恵みを拒否し、生ける神に背いてゆくとき、ことばをとおしてだけでなく、自然の災害や天変地異をとおしても人々に警告をされます。

このような状況のなかでエレミアはそれでも神にとりなしの祈りを神に陳べています。エレミアのとりなしの訴えは、次のようなものでした。

「 私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。私たちの背信ははなはだしく、私たちはあなたに罪を犯しました。
イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。なぜあなたは、この国にいる在留異国人のように、また、一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか。
なぜ、あなたはあわてふためく人のように、また、人を救うこともできない勇士のように、されるのですか。主よ。あなたは私たちの真中におられ、私たちはあなたの御名をもって、呼ばれているのです。私たちを、置き去りにしないでください。」(エレミア書14章7-9)

生ける神はその栄光を他の神々と共有されることはありません。わたしたちも、もし心から神の国とその義とを第一に求めるのなら、神はわたしたちにとってその時に本当に必要なすべてを備え、救いの御手を伸べてくださいます。 

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ福音書6章33-34)


神は、神の恵みと祝福を受けて実を結ぶものとなることをわたしたちに望んでおられます。神はイスラエルの民を神のぶどう畑になぞらえて、甘い実のなるのを待ち望んでいたのに、酸いぶどうしか実らなかったといわれています。

「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。
さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。
わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」(イザヤ書5章1-6)

そして、これと同じようなことを、イエスも言われています。

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ福音書15章4-5)


現代のアメリカの状況は、この時のユダ王国と同じような状況にあるということができます。
イエス・キリストにある信仰の自由と生ける神の恵みによって繁栄を享受してきた現代のアメリカは、生ける神を否定し、同性愛を肯定し、人が中心であるかのような人文主義によって教育がなされ、教育の場でコーランを読むことや避妊用具を配るようなことが、信仰の自由や人権の尊重と混同されるような状況が起こっています。 

生ける神の恵みと宗教的な偽善は、いたるところでアメリカにおける生活のなかに見られます。

エレミアをとおして神がユダ王国に警告し、宣告されたように、イエスキリストの福音を聞いた後にキリストの福音に信頼せずに、神の霊を拒み続けるならば、次の聖書の警告に真剣に耳を傾けるべきです。

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。
まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。』、また、『主がその民をさばかれる。』と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(ヘブル書10章26-31)

救いの最後のとき、救いの残されている今日という日に、生きた神に帰ることは、わたしたちに語られている大切な警告です。



 
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