偽りのことば

(エレミア書7章4、8)


分裂したイスラエルの北イスラエル王国がアッシリア帝国によって紀元前722年に滅ぼされた後に、残った南ユダ王国では、生ける神に背いて偶像を祀った背信の王、マナセ、アモンに続いてヨシアが八歳のとき王位を継ぎました。(紀元前640年)

マナセの背信については、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、父ヒゼキヤが取りこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕え、主がかつて、「エルサレムにわたしの名がとこしえにあるように。」と言われた主の宮に、天の万象のために、祭壇を築きベン・ヒノムの谷で、自分の子どもたちに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、呪術を行ない、霊媒や口寄せをし自分が造った偶像の彫像を神の宮に安置しユダとエルサレムの住民を迷わせて、主がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行なわせたことが記録されています。(歴代誌下33章参照)そして、マナセの後を継いだアモンもその父マナセが造ったすべての刻んだ像にいけにえをささげ、これに仕えました。

このような王たちの後で、神の宮は、荒れ廃り、人心は荒廃し、偶像礼拝と悪が国中にはびこっているという状態でした。
 
ヨシアは王位を継いで18年後、エレミアが神からの召命を受けて5年目、(紀元前622年)ソロモンによって建造され荒れ放題となっていた神殿の修復を命じました。

このとき、主の律法の書が見つけ出され、この書のことばを聞いたヨシアは、王国と民が主の契約から離れていることに気付き、神殿の修復を完了し、王国の民の前で主の律法を聞かせ、過ぎ越しのいけにえを捧げるという改革を行いました。

事実、このヨシヤ王の第十八年に行われた過ぎ越しの祀りは、イスラエルの民がモーセのあとを継いだヌンの子ヨシアに率いられ、アブラハムに約束されたカナンの地に入り士師たちがイスラエルをさばいた時代からこのかた、イスラエルの王たちとユダの王たちのどの時代にもなかったほど盛大なものでした。
ただ、イスラエルでこの過越のいけにえがささげられたのはこの時だけでした。

王国の民は、修復された神殿の門をとおり、和解の捧げものとして捧げられる犠牲の牛、羊の肉を焼き、その肉を食してすべての国民が過ぎ越しの祭りを祝いました。(列王記下23章3-7、21-23、歴代誌下34章29,30参照)


過ぎ越しの祭りを祝うために民は国外、国内のあらゆる所から喜々としてエルサレムに集まり、修復された神殿を見て「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言って神殿の門を通ってゆきました。

しかし、彼らは神の約束された契約のことばを侮り、実際の生活では身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行ない、盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、イスラエルの民を導き出した自分たちの生ける神に心から全面的信頼したのではなくほかの神々に従っていました。

指導者たちも一般の民も自分の利得だけを考え、他人を平気で傷つけながら、手軽に傷をいやし平安などないのに口先では「平安、平安」と言っていました。

彼ら群衆の行為は、表面的に単に宗教的な祭儀を祝うため王の呼びかけと命令に従っただけのものでした。
神殿に集まってくる群衆は、改修された神殿を見、祭りに参集することが流行であったために、王の呼びかけに答え寄り集まることで自分たちの日頃の背きの罪意識を帳消しにしようということが参集する動機で、神との関係のなかで心から神に従おうということではありませんでした。

群衆は、修復された神殿と盛大な祭りのなかで、自分たちには神の神殿が存在し、この神殿によって、外敵からの攻撃から守られることを安易に期待しました。
神殿は民にとって幸運を呼び込む象徴となりました。

彼らは生ける神に信頼するよりも神殿という目に見える建物に信頼を置いたのでした。

過ぎ越しの祭りを祝い、修復された神殿を見、神殿の門を通ってゆく群衆の心は、いわば流行に乗って自分たちがそれに乗り遅れずに自分の利益と幸運を呼び込むものとして「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」ということばを発していたのでした。

生ける神に信頼し、神のことばに従うことより宗教的な祭儀を行うことによって、自分の利益や幸運がもたらされると思うことは、常に霊的な堕落のしるしです。

わたしたちの場合も、十字架のアクセサリーを着けているいるからといって、その人がイエスキリストに信頼を置いて人生の歩みをあゆんでいるとは限りません。
多くの人々が教会に足を運び、生ける神、イエスキリストに信頼することより教会が救いであるかのような錯覚をしています。
多くのクリスチャンたちが、生きた神との関係よりも洗礼を受けたことに安住しています。
教会に通うことがあたかも義務を果たしていると思い、主の霊によって新しく変えられることがないのであれば、教会に集まることは自分自身への欺きです。


このような群衆を前に、エレミアが述べたのが、「あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。」と言うことばでした。

群衆は、神殿の門に立って叫ぶ若いエレミアの警告のことばを神からの警告として真剣に耳を傾け、受け止めようとしませんでした。

イスラエルが王国に移ってゆくとき、預言者サムエルも初代の王サウルに「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。」(サムエル記上15章22参照)と、同じような警告をしています。

このユダ王国の民と同じように、クリスチヤンであることを自称しながら他人を自分の利益のために騙したり、いかがわしい映像を見たり、立場を利用して横領や盗みをしたり、洗礼を受けたことだけに安住し偽りによって他人を傷つけたり、聖餐式に参加したり教会に集まったりという宗教的な祭儀を行うことだけで罪を犯し続けても赦されると思う人々は、自分自身を欺いています。  
それらの行いは明らかに生ける神に背き、生ける神に重大な罪を犯していることになります。

ユダ王国の民は、盗み、殺し、姦通し、偽って誓い、バアルのためにいけにえを焼き、偶像の神々に従っていながら修復された神殿に集まり「これは主の宮だ、主の宮、主の宮」と言って、あたかも自分たちが安全であるかのように思っていました。

宗教的な祭儀を行うことが自分たちの心を偽る口実となり、流行の波に乗って偽りの霊的高ぶりに麻痺させられ、行いが伴わなわずに真実を偽るときには、真実を全く知らないよりも、自分自身を欺き、生ける神を冒涜していることになります。

このような状態にあったユダ王国の民に、エレミアは、「あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。」「なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。」と言って、神の約束と契約に従い、生ける神に信頼し善を行う者となるように民に警告をしました。


生ける神に信頼し、神とわたしたちの関係を深め、わたしたちの行いが、神がわたしたちに望まれている善を行うものへと変えられてはじめて神を礼拝するための宗教的な祭儀は意味を持つものとなります。

聖なる日、聖なる場所、神がわたしたちに為された業を記念することだけであれば、それらは過去のものとなってしまい、単に寄り集まるための口実となってしまいます。
わたしたちは、今、神のことばに従い神との生きた関係のなかを歩むことのほうがはるかに大切です。
生ける神キリストの居られない教会、主の霊に満たされていない教会はどんなに多くの人々が集まっても意味のない教会です。

神がわたしたちに望まれている善を行う者へと変えられることについて、わたしたちも、エレミアによって語られている神のことばを真剣に受け止める必要があります。

「もし、ほんとうに、あなたがたが行ないとわざとを改め、あなたがたの間で公義を行ない、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、罪のない者の血をこの所で流さず、ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう。」(エレミア書7章5-7)



 
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