霊的な無関心 

(エレミア書48章10-12)


エレミアは、イスラエルの民に対する預言だけでなくイスラエルの周辺の国々に対しても預言を述べ、この箇所ではモアブ人にたいして預言しています。

神がソドムとゴモラの町を滅ぼされたとき、御使いによってアブラハムの甥ロトは、妻と二人の娘とともに町から引き出され、町が硫黄と火によって滅び、破壊を逃れたロトと二人の娘は一緒にほら穴に隠れて住みました。
結婚する男がいないと思ったロトの二人の娘はロトに酒を飲ませ、いっしょに寝て、子孫を残そうとしました。

「ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。」(創世記19章36,37)

さらに、ルツ記の女主人公ルツはモアブ人であり、姑のナオミと共に、未亡人としてエルサレムに戻り、ナオミの夫エリメレクの一族に属する富裕なボアズの畑で働くうちに見初められ、ボアズの妻となり、オベデを産み、オベデの子が後にイスラエル統一王国の王となったダビデの父エッサイであったことを見ても、モアブ人とイスラエルの民が近い関係にあったことがわかります。

モアブ人の住み着いた地域は、ヨルダン川の東岸の肥沃な高地でしたが、メソポタミアの地域とエジプトの地域を結ぶ地中海沿岸沿いの古代交通の要衝(ヴィアマリス)からはずれていたため、古代から戦争に巻き込まれにくく比較的、平安を保つことが可能でした。

さらに、この地域は葡萄が豊富に産出され、この箇所にも述べられているように、葡萄酒が造られていたようです。

この箇所に、「彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。」と、述べられています。

古代の葡萄酒の製造過程は、葡萄の搾り汁に残っている酒かすを器から器へと移し変えることによって、葡萄の酒かすを濾し、より純度の高い葡萄酒が質の良い葡萄酒とされていたようでした。

葡萄の搾り汁を何度も器から器へと移し変えないと葡萄のかすがよく濾されず、搾り汁の底に沈殿し、葡萄酒そのものが酸味の強い、臭いをもった質の悪い葡萄酒となってしまいました。

モアブの問題は、器から器へと濾されることがなく、熟成しないで酒かすの上にたまっているような、コクのない味の悪い、臭いを持った葡萄酒のようになってしまったということでした。

皮肉なことにモアブの問題は敵に襲われず、捕われることもなく安泰であったために、その安泰に甘んじて霊的な無関心に陥っていたことでした。
彼らは、目に見える表面的な肉の思いにふけり、灼熱の太陽と豊穣に関わる偶像神ケモシを拝み、創造主である生ける神を求めることがありませんでした。

神は、このようなモアブの主にたいする高ぶりに対して滅びをもたらされると言われています。


多くの人がモアブのように人生が安泰であり安楽であることを望み、目先の安穏を求めます。
誰でも、肉の思いは自然に物質的な豊かさと平穏であることを思い、物質的に満ち足り生涯安穏と暮らすことを求めます。
しかし、わたしたちのこのような心の状態は永遠の命より目先の安穏にのみ関心が移り、霊的な無関心に陥る危険な状態です。

わたしたちも、自分自身の計画とやり方をを優先し、福音を聞いてイエスを知っていると言いながら心を決めて神の言われることを聞かず、行うことはせず、自分の安穏な生活を確保することができる範囲で習慣的な枠のなかでのみ神のことばを聞いているということがあります。
わたしたちは、たとえ一度イエスキリストの福音を聞いて受け入れても、神の恵みに狎れてしまうと容易に安穏な自分たちの生活と習慣のなかで、おりのように肉の思いがたまってしまいます。

このように人生の歩みのなかで変化のない狎れによって生ける神を忘れ、毎日の自分だけの安穏と安楽を求めて日々を暮らし、神から離れ、他の偶像に心を寄せ、モアブ人のようにいつか滅びを招く危険に陥ります。

この世の目に見えるものはやがて滅びますが、イエスを主として聖霊の導きのなかに歩む人生には永遠の命が約束されています。

イエスは、わたしたちの物質的な豊かさと平穏のみに目を留めて生きることにたいする警告を次のように述べられています。 

「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。」 (ルカ福音書12章15-22)


神は、安穏な状況に甘んじているとき、かすを取り除くために葡萄の搾り汁を器から器へと移し変えて純度の高い香りの葡萄酒を造るように、わたしたちのうちに滓(おり)のように溜まっている肉の思いを取り除くために、わたしたちの状況を変え平情な状態をかき乱されます。

人は試練をとおして品性を錬られ、人格に深みを加えられるのです。 

わたしたちは、安穏と安楽を求めているとき、状況が かき乱されると、不安と心配に満たされます。
神がわたしたちの肉の思いをより聖いものへと変えられるためにわたしたちの状況を変えられるということを覚悟し、心が状況によってかき乱されるときにも自分自身の弱さを知り より深くキリストによって与えられている神の恵みを体験するとき、神の平安を喜ぶことができます。

「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(第二コリントへの手紙12章10)

神の言葉は、様々な箇所で試練をとおして信仰が成長することを述べています。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ書1章2-4)

「 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(第一ペテロの手紙1章6-7)

わたしたちが福音の恵みにとどまり続けるために、ヘブル書には、「私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。
もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」(ヘブル書2章1-4)という警告と励ましが与えられています。

使徒パウロも、同様な警告と励ましを「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ書6章7-8)と述べ、

使徒ヨハネは、肉の思いよりも霊の思いによって生きることについて、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(第一ヨハネの手紙2章15-17)と、述べています。

神は愛するものを錬られ、朽ちない栄光のいのちを与えようとされています。



 
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