エジプトへ逃げる 

(エレミア書43章2、5-10)


ユダ王国最後の王ゼデキアは、バビロニアの軍に王宮も神殿も焼かれ、捕らえられ、敵の王バビロニアのネブカデネザルの前で自分の子たちと家族が虐殺され、その後、両眼をえぐり出され、青銅の足かせにつながれて、バビロニア帝国の捕囚として連れて行かれたました。(紀元前586年)

この後で、バビロンの王ネブカデネザルは、ゲダルヤを焼け残ったユダ王国地方の総督にし、彼に、バビロンに捕え移されなかった男、女、子どもたち、国の貧民たちをゆだねました。

ところが、散らされていたすべての所からユダの地に帰って来た人々のなかで、王族のひとり、ネタヌヤの子イシュマエルは、バビロニアの王ネブカデネザルによって任命された総督ゲダルヤを暗殺してしまいました。

このことを知ってバビロンの王の仕返しを恐れ、カレアハの子ヨハナンと、彼と共にいる軍勢の長たちはイシュマエルと戦い、すべての残りの民、女、子ども、および宦官たちを連れて、バビロンの軍が再び戻って来る前にエジプトへ逃れる計画を立て、「どうぞ、私たちの願いを聞いてください。私たちのため、この残った者みなのために、あなたの神、主に、祈ってください。ご覧のとおり、私たちは多くの者の中からごくわずかだけ残ったのです。あなたの神、主が、私たちの歩むべき道と、なすべきことを私たちに告げてくださいますように。」 (エレミア書42章2-3)と、エレミアのところへ来て、神が彼らの歩む道となすべきことを何と告げられるのかを聞きにやってきました。

さらに、彼らはエレミヤに「主が私たちの間で真実な確かな証人でありますように。私たちは、すべてあなたの神、主が私たちのためにあなたを送って告げられることばのとおりに、必ず行ないます。私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです。」(エレミア書42章5-6)と言って、自分たちがエレミアによって告げられる神のことばに従うことを誓いました。


わたしたちは、自分たちでは解決のゆかない状況に陥ったとき、そこから逃れるためにしばしば聖書のことばが何といっているかをを尋ね、自分たちの問題を解決してくれる御ことばが述べられていることを期待し、それに従うことを誓ったりします。

「 神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。」
(伝道の書5章4-5)

神は、わたしたちが神に誓うことより、神の御ことばに信頼し、神の御心を行う者へと変えられることを求めておられます。

イエスは、祭司長、民の長老たちとの問答のなかで、神の言葉を聞いて誓うことより、神の言葉を信じて行う者が、神の国を継ぐ者とされることを譬えによって教えておられます。

「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。
それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」(マタイ福音書21章28-31節前半)

多くの人々が追い詰められる状況に陥ると、神に頼って状況が変えられることを願い、神が何と言われているかを知ろうとし、神のことばに聞き従うことを誓います。
しかし、このような口先で安易に神に誓う人々は、状況が変わると実際にはその神に誓った約束を簡単に反古にしてしまいます。

神は、わたしたちが宗教的に自分の神への忠誠を人前で誓うことより、生きた神の御ことばに信頼し、それを従順に行う者へと変えられることを望まれています。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(第一サムエル15章22-23)

御ことばを聞いて、御ことばを行う者へと変えられる信仰の大切さについて、イエスご自身も次のように言われています。

「 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ福音書7章21-23)

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ書1章22)


エレミアのところにやって来た人々に答えて、「私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主に祈り、主があなたがたに答えられることはみな、あなたがたに告げましょう。何事も、あなたがたに隠しません。」とエレミアは言って、彼らのために祈り、暫くして告げられた主のことばを彼らに伝えました。

それは、 「『もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、あなたがたを植えて、引き抜かない。わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。 あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼をこわがるな。・・主の御告げ。・・わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、彼の手からあなたがたを救い出すからだ。
わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼は、あなたがたをあわれみ、あなたがたをあなたがたの土地に帰らせる。』
しかしあなたがたが、『私たちはこの国にとどまらない。』と言って、あなたがたの神、主の御声を聞かず、『いや、エジプトの国に行こう。あそこでは戦いに会わず、角笛の音も聞かず、パンにも飢えることがないから、あそこに、私たちは住もう。』と言っているのなら、
今、ユダの残りの者よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『もし、あなたがたがエジプトに行こうと堅く決心し、そこに行って寄留するなら、 あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの国であなたがたに追いつき、あなたがたの心配しているききんが、あのエジプトであなたがたに追いすがり、あなたがたはあそこで死のう。
エジプトに行ってそこに寄留しようと決心した者たちはみな、そこで剣とききんと疫病で死に、わたしが彼らに下すわざわいをのがれて生き残る者はいない。』
まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『わたしの怒りと憤りが、エルサレムの住民の上に注がれたように、あなたがたがエジプトに行くとき、わたしの憤りはあなたがたの上に注がれ、あなたがたは、のろいと、恐怖と、ののしりと、そしりになり、二度とこの所を見ることができない。』
ユダの残りの者よ。主はあなたがたに『エジプトへ行ってはならない。』と仰せられた。きょう、私があなたがたにあかししたことを、確かに知らなければならない。
あなたがたは迷い出てしまっている。あなたがたは私をあなたがたの神、主のもとに遣わして、『私たちのために、私たちの神、主に祈り、すべて私たちの神、主の仰せられるとおりに、私たちに告げてください。私たちはそれを行ないます。』と言ったのだ。
だから、私は、きょう、あなたがたに告げたのに、あなたがたは、あなたがたの神、主の御声を聞かず、すべてそのために主が私をあなたがたに遣わされたことを聞かなかった。
だから今、確かに知れ。あなたがたは、行って寄留したいと思っているその所で、剣とききんと疫病で死ぬことを。」(エレミア書42章10-22)というものでした。

神のことばに信頼し、ユダ王国の地に踏み止まっていれば、バビロニアのネブカデネザル王の軍隊がやって来ても、神が彼らを守られる、しかし、エジプトの地に逃げるのであれば、バビロニアの軍は、そこに攻めてきて、彼らに滅びが来る。エルサレムに留まり、エジプトに行ってはならない、というのがエレミアの述べた彼らに対する神のことばでした。


ところが、エレミアをとおして告げられたこの神のことばを聞いた人々は、「あなたは偽りを語っている。私たちの神、主は『エジプトに行って寄留してはならない。』と言わせるために、あなたを遣わされたのではない。ネリヤの子バルクが、あなたをそそのかして私たちに逆らわせ、私たちをカルデヤ人の手に渡して、私たちを死なせ、また、私たちをバビロンへ引いて行かせようとしているのだ。」(エレミア書43章2-3)と言って、折角告げられた神のことばを聞こうとしませんでした。
人々は、神のことばを求めたのではなく、神のことばが自分たちの思惑どおりのことを述べられるかどうかということだけに関心をもって神のことばを聞こうとしたのでした。

そして、カレアハの子ヨハナンと、彼と共にいる軍勢の長たちは、散らされていた国々からユダの国に住むために帰っていたユダの残りの者すべて、男も女も子どもも、王の娘も、それに、侍従長ネブザルアダンが、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに託したすべての者、預言者エレミヤと、ネリヤの子バルクをも連れて、エジプトの国に下って行きました。(エレミア書43章4-7)

彼らは、神のことばを聞こうとせず、神のことばを伝えたエレミアとバルクを人質にして、神がこの時より900年前にアブラハムに約束され、500年前モーセによって導き出された神の約束の地からエジプトの地に逃げて行きました。

エジプトの地は、聖書のなかでは肉の思いに支配される、罪の奴隷の状態を象徴しています。
イスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトの地から解放されるまでエジプトの地で奴隷の状態にありましたが、エジプトの地で再び肉の思いに捉われ、支配された状態に自分たちの身を置くことになりました。

彼らは、エジプトに逃げればバビロニアの軍がエジプトの領土まで攻め込むことはない、エジプトのパロが自分たちを庇護してくれるという思惑に捉われ、神よりも人を恐れたのでした。

しかし、神がエレミアをとおして告げられたとおり、バビロニアの軍は、エジプトに攻め込みました。
エジプトのパロ、ホフラの宮殿は攻め崩され、エレミアが預言したとおりパロの宮殿の入口にある敷石のしっくいの中に隠した石の上に、侵攻してきたバビロンの王ネブカデネザルの本営が張られ、エジプトは完全に敗北し、エジプトの国とパテロスに住むすべてのユダヤ人は欺きの代償として、剣とききんによってついには滅び絶えました。(8-10)

エレミアが預言したエジプトのパロ、ホフラの宮殿の入り口にある敷石のしっくいの中に隠した石の上に、侵攻してきたバビロンの王ネブカデネザルの本営が張られたことについては、後世の歴史家ヨセフスも歴史記述のなかで触れています。
20世紀になって考古学者のフリィンダース・ペトリが現代のエジプト、デフェニー(古代タフパヌヘス)の発掘の結果、古代パロの宮殿の入口にある敷石を発見し、この上に巨大な保塁が築かれた跡が見られ、このことからも聖書の預言が歴史的にも、考古学的にも事実であることに驚かされます。Flinders Petrie discovered in Tell Defenneh. http://en.wikipedia.org/wiki/Tahpanhes


わたしたちは自分の意図や自分の思いに合うものかどうかを確かめるためだけに神のことばを聞くことがあります。
御ことばをそのように聞くとき、人は自分自身を欺いているのです。

御ことばを聞いても自分を欺き、聞いてそれを行わないときに、罪から一旦解放され、救われても再び罪に束縛され自分の身に滅びを招く危険にさらされることになります。

神はわたしたちがどんなに先の見えない状況の中でも御ことばに信頼し、救いの道を選び、生きるものとなることを常に望まれています。
御ことばを聞いて信じ、それを行う者となることについて、聖書は様々な箇所でわたしたちに励ましと警告をしています。 

使徒パウロは、信仰に励み、行う者へと変えられることについて、「 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。 」(第一コリントの手紙9章27)と、述べ

使徒ペテロは信仰に歩む者が、愛の実を結ぶことについて、次のように述べています。

「私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。
それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。
これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。
ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。」
(第二ペテロの手紙1章3-10参照)

使徒ヨハネも同じことをわたしたちに次のように述べています。

「 真理と愛のうちに、御父と御父の御子イエス・キリストから来る恵みとあわれみと平安は、私たちとともにあります。
お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。
愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。
なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。
よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。」(第二ヨハネの手紙1章3、5-8 参照)



 
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