不従順による高価な代償 

(エレミア書38章14-19)


エルサレムを包囲していたバビロニア(カルデヤ人)の軍が、パロの軍勢の来るのを聞いてエルサレムを一時的に退いたとき、エレミアは、「「主はこう言われる、この町にとどまる者は、つるぎや、ききんや、疫病で死ぬ。しかし出てカルデヤびとにくだる者は死を免れる。すなわちその命を自分のぶんどり物として生きることができる。主はこう言われる、この町は必ずバビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを取る」(エレミア書38章2-3)ということばを、再三、王と民とに告げました。

このエレミアのことばにユダ王国の首長たちは憤って、彼を地下牢に入れ、そこに閉塞し、監視の庭にひきだし、監視の庭の穴に投げ入れ、エレミアに迫害を加えました。

しかし、ネブカデネザル王の率いるバビロニアの軍が再びエルサレムを包囲し、ユダ王国のゼデキア王に降服を迫っている最中、ユダ王国の王ゼデキアは、人をやってエレミアをひそかに召し寄せ、自分の家で「主から、みことばがあったか。」と尋ねました。


ゼデキア王は神のことばが何といっているのか、これからの王国の行方が知りたいと思い、預言者エレミアを王宮に召し寄せました。

神のことば、聖書のことばが何と言っているかを知りたいという動機は人によって様々です。 

多くの人々が、これから起こること、将来の自分の行方を知りたいと願います。
毎日のニュースや、世の中に起こる様々な出来事が、自分の将来にとってどのような関係があるのかを知りたいと願い、神のことばである聖書にその解答を求めます。

ある人々は、聖書のことばの誤りを見つけ出し、御言葉が宣言している事柄を論争の種とするために、神のことばが何といっているかに興味を持つこともあります。これらの人々は、多くの場合、神のことばが罪を容認しないために、神に背く自分の生き方を正当化するために聖書のことばの誤りを証明しようとして聖書を読みます。

ある人々は、神のことばに従うということより、単に好奇心から一体神のことばが何と言っているのかが知りたくて神のことばを聞こうとします。 
さらに、ある人々は、文学的な書物として聖書を読みます。実際、大学で文学のテキストとして聖書が使われることがしばしばあります。

ゼデキア王が預言者エレミアを召し寄せたとき、王は他の誰にも知られないように、ひそかにエレミアを召し寄せました。ゼデキア王はエレミアを主の宮の第三の入口に召し寄せた、と述べられています。
一般の人々が主の宮である神殿に入るための入り口は第一の門と呼ばれ、これとは別に、神殿に仕える祭司たちの出入りする第二の門がありました。ゼデキア王がエレミアを召し寄せたのは、さらにこれとは別の、王宮と主の宮を繋ぐ王と特別の人だけが出入りする第三の門でした。

王はエレミアを召し寄せたとき、神のみことばが何と言っているのかを知りたいと願いましたが、そのことを他の誰にも知られたくないと思いました。
誰でも、すべての人が神のみことばが何と言っているのかを知りたいという願望を持ち、御言葉によって人生の指針を得たいという思いを心に秘めています。しかし、そのことを他の人に知られるのは自分のプライドが許さなかったり、恥ずかしいことだと多くの人々が思っています。


ゼデキアがエレミアに神のことばを一言も漏らさず告げるように要求したとき、エレミアは、「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず、私を殺すではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞きません。」と答えて、神がエレミアに告げられた言葉をゼデキア王に伝えることを躊躇しました。

神の言葉を真実に伝えようとしたために、すでに数々の迫害にさらされ、命を狙われてきたエレミアにとって、王の要求に答えることに躊躇があったのは無理のないことでした。

神は、すでに預言者エレミアによって、ユダ王国の王と民とに何度も主への背きを悔い改めないならば、その結果として裁きを受けることを告げられました。
生ける神を捨てて偶像に頼り、自分たちの肉の欲求によって弱い者、貧しい者を虐げることを止めなければ、バビロニア帝国をその裁きの器として使われ、ユダ王国が滅びに至ることについて彼らは、警告を受けていました。
神の決められた裁きによって、バビロニアの軍に包囲され、すでにエルサレムの王族や貴族が捕囚となった後になっても、エレミアは、バビロニアの軍に抵抗して滅びるより生き残る道が残されていることを人々に告げました。

神からの警告を人々に伝えることによって、エレミアはすでに数々の迫害を受けていました。 

神のことばを受け入れず、拒否する人々は神のみことばを伝える者に攻撃を加え、迫害します。
人々は、神のみことばが肉体をとってこられたイエスを十字架に架けて殺しました。

真理のことばを受け入れようとしない人々に真理を伝えても所詮は無駄なことのように思えます。
神の言葉をゼデキア王に今更告げることが、エレミアにとって無駄なことのように思えたのも無理はありません。

御言葉を忠実に伝えようとしても人々が神の言葉を聞きながら、御言葉を心から受け入れようとはせずに、かえって反対のための反対をとなえ、挙句の果てに、御言葉を伝えようとする人への人格的な攻撃さえ加えることがしばしばあります。
心を注いで御言葉を伝えようとする者にとって、それは最も深い心の憂いとなります。


神の御言葉を聞いても、その御言葉を実行する人とならなければ、神のことばは、わたしたちの人生にとって何の意味もありません。
ゼデキア王は、エレミアが神のことばを告げればエレミアを殺さないことを誓いましたが、神のことばを聞いてもそれに心を決めて従いませんでした。
実際、ゼデキア王はエレミアから神のことばを聞いても、神のことばにたいする不従順な態度を改めようとしませんでした。

多くの人々が御ことばを聞いても罪の束縛から解放されず人生を滅亡に向かって歩み続けます。それは、それらの人々が御ことばを聞いても、御ことばを行う者へと変えられないからです。
聖書は、このことについて、わたしたちにも警告をしています。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ書1章22)

神のことばを聞くことにどんなに熱心であっても、その人の人生が変えられなければ御ことばは、その人にとって何の意味のないものとなってしまいます。

イエスは、「 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。」(マタイ福音書7章21-27)と言っておられます。

イエスは、イエスとの問答のなかでイエスを信じたユダヤ人たちに、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」(ヨハネ福音書8章31)とも言われています。

さらに、わたしたちは、「もしあなたが、神のことばを聞き、知っていると思い、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。」(ロマ書2章21,22参照)という警告にも注意して耳を傾けなければなりません。


神のことばは、神の恵みと祝福に満ちています。
そして、永遠の栄光にわたしたちが招かれ、神の国を継ぐための警告に耳を傾け、心を決めて御ことばに従い、御ことばを行う者となることが求められています。

「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(第一コリント6章9-10)

「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。・・こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」(エペソ書5章5-6)

「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、
敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(ガラテヤ書5章19-21)

「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
このようなことのために、神の怒りが下るのです。」(コロサイ書3章5-6)

「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録21章7-8)  

エレミアから「イスラエルの神、万軍の神、主は、こう仰せられる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この町はカルデヤ人の手に渡され、彼らはこれを火で焼き、あなたも彼らの手からのがれることができない。』」(17,18節)という神からのことばを聞いてもゼデキア王は、この警告を聞き入れず、最後までエルサレムを取り囲むバビロンの軍に降状することはありませんでした。

ゼデキアは神を恐れるより人を恐れました。

バビロニアに投降し、自分がバビロニアに連れてゆかれたときに、すでにバビロニアに捕らえられている同胞からの嘲りを恐れたのでした。
「私は、カルデヤ人に投降したユダヤ人たちを恐れる。カルデヤ人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするかもしれない。」(19節)
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29章25)

ゼデキア王は、神のことばを聞いてもそれを行わず、神のことばにたいする不従順によって最終的には王宮も神殿も焼かれ、バビロニアの軍に捕らえられ、敵の王バビロニアのネブカデネザルの前で自分の子たちと家族が虐殺され、その後、両眼をえぐり出され、青銅の足かせにつないでバビロニアに連れて行かれました。(エレミア書39章4-8 参照)

ゼデキア王のみならず、わたしたちも、みことばに不従順な結果、高価な代償を支払わねばならないという警告を真剣に受け止めねばなりません。



 
エレミア書のメッセージに戻る


a:1143 t:1 y:0

powered by HAIK 7.0.5
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK