新しい契約 

(エレミア書31章31-34)


ネブカデネザルの率いるバビロニア軍のエルサレム侵略によって(紀元前605年)、エホヤキムが王位を奪われ、代わりに王位を継いだエホヤキムの弟エホヤキンをはじめ、王族、貴族たちがバビロニアへ捕われの身となりました。
バビロニアへ捕われていった貴族には、若いダニエル、シヤデラク、ミシャク、アベネデゴも含まれていました。

エレミアは、エルサレムから、捕われの身となったこれらの人々にたいして手紙を送りました。
手紙には、イスラエルの神、主が預言者エレミアをとおして告げられた神のことばがすべて記されていました。

それには、イスラエルの民が七十年のバビロニア帝国での捕囚の期間を過ぎた後で起こる遠い将来の預言が述べられていました。

この手紙はユダ王国の人々だけでなく、すでにアッシリア帝国によって滅ぼされたイスラエル王国の人々を含む、イスラエルの民全体にたいして宛てられていました。(31節参照)

この手紙の預言は、聖書を読んでいるわたしたちにとっても、これから先に起こる、世界の歴史のなかで起こるイスラエルの民が経験することについての預言でした。

それには、人類の歴史をとおしてイスラエルの民が最終的に国家として再建され、その後にもイスラエルの民にとって今までにもこれからもないような苦難の時が訪れ、一方で解放と神との関係が回復される希望の約束がイスラエルの民、ユダヤ人全体にたいして述べられていました。 

その内容は、
「おののきの声を、われわれは聞いた。恐怖があって平安はない。
男が子を産めるか、さあ、尋ねてみよ。わたしが見るのに、なぜ、男がみな、産婦のように腰に手を当てているのか。なぜ、みなの顔が青く変わっているのか。
ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。
その日になると、・・万軍の主の御告げ。・・わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない。
彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう。
わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。・・主の御告げ。・・イスラエルよ。おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、おびえさせる者はだれもいない。」(エレミア書30章6-10)

「見よ。わたしはヤコブの天幕の捕われ人を帰らせ、その住まいをあわれもう。町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ。
彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る。わたしは人をふやして減らさず、彼らを尊くして、軽んじられないようにする。
その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。
その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。・・主の御告げ。・・ あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」(エレミア書30章19-22)
というものでした。

この預言は、この手紙を送ったエレミア自身、手紙で述べた神のことばが何時、どのようにして起こるのかを予測しがたい内容のものだったでしょう。

そして、この手紙の内容を読む人々が本当に悟ることのできるのは終わりの日であることが告げられています。

「見よ。主の暴風、・・憤り。・・吹きつける暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。
主の燃える怒りは、御心の思うところを行なって、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを悟ろう。」(エレミア書30章23-24)


イエス・キリストは十字架に架かられる直前、人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着かれるという再臨のことを予告され、そのときにすべての国々の民が裁かれることについて述べられました。(マタイ福音書25章31-46、参照)
このとき、イエスは、イスラエルの民に対してどのようにすべての国々の民が振舞い接したのかによって裁きの扱いと行方が決められることを話されています。

クリスチャンであると自認する人々の中にも、歴史的にイスラエルの民、ユダヤ人に対して偏見をもって臨む人々が存在することは残念な現実です。
置換神学とよばれる神学の立場は、神はイエスをキリストとして受け入れないイスラエルを見捨てられ、キリストの教会が霊的なイスラエルであることを主張しています。神がイスラエルの民にされた約束はキリストの教会が受け継いでいるのだというのです。

しかし、旧約聖書の預言は明らかに、この箇所を含めて文字通りこれから起こるイスラエルの民が歴史のなかで経験する預言であって、キリストの教会にたいする霊的な比喩としてのみ預言されているのではありません。


使徒パウロは、イエス・キリストの十字架の贖いによってイスラエルの民ばかりでなく異邦人にも救いがもたらされたことを次のように述べています。

「思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(エペソ書2章11-13、3章5-6)

イスラエルの民に約束された救いの約束は、イエス・キリストの十字架の贖いによって異邦人にももたらされました。

イエス・キリストによってキリストの教会もまたイスラエルの民に約束された神の国の共同相続者となり、ともに約束にあずかる者とされています。

しかし、神が終わりの日に国と民に対して回復の約束をされているのは教会に対してではなく、イスラエルの民に対してされています。そして、この新しい契約は神がイスラエルの民の罪を取り除く時に完成するというのです。

使徒パウロは、新しい契約が完成する時のことについて次のように述べています。

「私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」 (ロマ人への手紙11章25-27)


旧約聖書におけるイスラエルの民に対する預言とキリストの教会に対して述べられている約束とを混同し、誤った解釈をするときに、イスラエルの民に対する誤った偏見が生まれるだけでなく、終わりの日の神の怒りの時、患難の時代にキリストの教会が患難の時代を迎えねばならないという誤った解釈をすることとなります。

この箇所の預言でイスラエルの民は、いままでにもこれからもないようなヤコブの苦難の時、捕われのときを経験することが述べられています。
しかし、「神は、ヤコブの天幕の捕われ人を帰らせ、その住まいをあわれもう。町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ。彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る。わたしは人をふやして減らさず、彼らを尊くして、軽んじられないようにする。
その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。」という、イスラエルの民が回復し、エルサレムに宮殿が建てられ、民が神の前で堅く立てられるという約束の成就する日の来ることが述べられています。


終わりの日には「神は、その時になると、神の律法をイスラエルの民の中に置き、民の心にこれを書きしるす。神が彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」という主の約束が述べられ、この箇所の「神が神の律法を人々の中に置き、人々の心にこれを書き記し、神がすべての人々、イスラエルの民の神となって、イスラエルの民が神の民となる」(33節)ということが約束されています。 

イスラエルの民は、エジプトからモーセに率いられて神の約束の地に向かう前に、神から律法を授かりました。
神から律法を授かったモーセは、律法の刻まれた石の板を民に示し、イスラエルの民はこの律法を解釈し、実際の様々な生活のなかでどのように適応させるのかについて律法学者からそれを学び、律法を解釈するタルムードは60編もありました。

律法は神の意図されることを個人の生活のなかでどのように行うかをはっきりとさせることが目的でした。今日でもわたしたちは、神がわたしの人生のなかで今日意図されていることは何だろうか、ということを問いかけます。

神は、神の意図されている律法を石の板にではなく、心の板に刻まれるといわれています。


人は常に外からの規則を捜し求めますが、わたしたちは一瞬一瞬の人生の歩みのなかに心のうちにはたらく聖霊の導きを求めることができるのです。

わたしたちは、神ご自身を知ることにによって神のわたしの人生に意図されていることを知ることができ、神がわたしたちの人生に何をもとめられているのかを知ることができます。

神が何をわたしたちの人生に求められているのかを知るためには、神の本当の姿、神ご自身を知ること以外に方法はありません。

神は難しい解釈をする律法学者の律法によってご自身を示めされるのではなく、身分の低い者から高い者にいたるまで、イエスが神の御子であり、個人的にわたしを救われる方であることを、幼子のように受け入れる者にご自身を示めされます。

イエスは「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(マタイ福音書11章25-26)と、言われています。

神を知るということは、より深い知識によって知るのではなく、信頼して神のことばを受け入れることによって知ることが出来るのです。

神への信頼は、神のことばが肉体をとって来られたイエス・キリストに信頼し、御子キリストと神の交わりのなかで神を知ることに他なりません。


神の意図に背いて歩む人生から御子の流された血によって赦されていることを知り、人は御子キリストと神の交わりのなかでより深く神を知ることができます。
幼子のように混じり気のない心で主に信頼するとき、毎日のわたしたちの人生の歩みを主が導いておられるのを知ることができます。
「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ福音書5章8)

石の板に刻まれた古い契約は、わたしたちがどのように契約を真実に守るかにかかっていますが、わたしたちの心に刻まれる新しい契約は、神ご自身が契約を真実に守り、わたしたちが契約を破っていることの責めを十字架の上で血を流され、神の仲保者、遺言者となってわたしたちが受け継ぐべき資産を保証された(ヘブル書9章参照)という神ご自身の真実にかかっています。

わたしたちの心に刻まれる新しい契約は、決して破棄されることのない、破れない契約です。



 
エレミア書のメッセージに戻る


a:1132 t:1 y:0

powered by HAIK 7.0.5
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK