神がわたしたちを裁かれておられると思ったことはありませんか。
神の愛に疑問を抱いたことはありませんか。
わたしたちは、自分の人生が思うように行かないとき、思いがけない試練や苦難に遭遇するとき、本当に神は愛の神なのだろうか、神がわたしたちの過ちを裁かれているのではないかと思います。
自分たちの国家が崩壊し、多くの人々の命が奪われ、国家の中心的であった王族、貴族が捕われの身となり、このような悲惨な状況に遭遇するとき、サタンは、わたしたちが人生で遭遇する悲惨な状況を用いてわたしたちに神の愛に疑いの思いを起こさせます。
悲惨な状況が自分の身の回りに起こるとき、人々は往々にして神が愛の神であるならば、何故悲惨な状況に自分たちが遭遇することを許されるのだろうか、という思いを抱きます。
神が愛の方であることを信じる人々でも、自分ではどうしようもない悲惨な状況に陥れられたとき、自分の人生の歩みが不完全であり、わたしたちの肉の弱さによって神の意図とは異なった人生の歩みを歩んでいることに気付かされ、自分自身に失望と絶望的な思いを抱きます。
そのような状態のとき、わたしたちは、神もわたしたちの弱さ、過ちに満ちた人生に失望され、わたしたちを裁かれ、悲惨な状況にわたしたちを陥らせたのだと思い沈み込みます。
ネブカデネザルの率いるバビロニア軍のエルサレム侵略によって(紀元前605年)、エホヤキムが王位を奪われ、代わりに王位を継いだエホヤキムの弟エホヤキンをはじめ、王族、貴族たちがバビロニアへ捕われの身となりました。
バビロニアへ捕われていった貴族には、若いダニエル、シヤデラク、ミシャク、アベネデゴも含まれていました。
エレミアが宛てた手紙は、捕われの身となったこれらの人々にたいするものでした。
これらの多くの人々は、強制的に故郷から連れ去られ、家族から引き離され、神からも見離されたように思える状況にありました。
彼らの多くの人々は、生ける神から離れ、偽りの言葉を信じたために捕われの身となった人々でした。
バビロニアの軍が攻めて来た時も、侵略された後も、多くの人々は「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。わたしは、バビロンの王のくびきを打ち砕く。二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカデネザルがこの所から取って、バビロンに運んだ主の宮のすべての器をこの所に帰らせる。バビロンに行ったエホヤキムの子、ユダの王エコヌヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの所に帰らせる。・・主の御告げ。・・わたしがバビロンの王のくびきを打ち砕くからだ。」(エレミア書28章2-4) という安易な励ましと、バビロニアに反抗し国の復興を謳った偽預言者たちのことばを信じました。
エレミアは、そのような人々に、「エルサレムからバビロンへ引いて行かれたすべての捕囚の民は、バビロンの王に七十年仕える、と神が言われている。だから、あなたがたは、家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べ、妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。
わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」 (エレミア書25章11,29章4-7)という神のことばを伝えました。
バビロニアに捕囚となり、奴隷となった人々にとって、七十年もの期間、自分の故郷に戻ることができないという言葉を告げられた多くの人々が、神は自分たちを見捨てられたのではないか、神は自分たちにけっして良い思いを持っておられない、という疑いを抱いても無理はなかったことでしょう。
神は、エルサレムからバビロニアの地へと捕われた人々へ、エレミアの手紙をとおして、この箇所で「バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミア書29章10-11 旧約口語訳 参照)と、告げられています。
神の常に変わらない真理は、神の子たち、神の選びの民にたいして持っておられる思いが、災いを与えようとするものではなく、平安を与えようとするものであるということです。
神は、しばしばご自分の選びの民、神の子とされた者たちにも、懲らしめのむちを加えられることがあります。
子供の時に父親から折檻された経験を持っている人は、それが愛のむちだということを、認め難いことと思います。しかし、その懲らしめが、どんなに悲しい体験であっても、父親の適切な懲らしめによって、当座の痛みを経験しても人生に欠かせない成長のための訓練であったと思えるとき、成長した後に父親の懲らしめやむちが父の子を思う愛であったことを悟ります。
聖書をとおして父が愛する子を訓練し、時には懲らしめを与えることについて述べられています。
そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。(ヘブル書12章5-8)
「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」(箴言13章24)
「子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。」 (箴言22章13)
「あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。」(箴言22章14-15)
「むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。」
(箴言29章15)
神が訓練され、わたしたちに懲らしめと思われる状況の起こることを許されるとき、神がわたしたちを見捨てられ、神はわたしを愛していない、と思います。
しかし、現実には神がわたしたちを子として扱われるとき、その愛する者を懲らしめ、すべての子に、むちを加えられます。
もし、悪を行うことによって、その悪の結果、その人に痛みや懲らしめとなる状況がもたらされないようならば、その人は明らかに神の子ではありません。
主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからです。
ユダ王国の人々は、創造者である神に従順に歩むことより自分たちの力、自分の魂を満たすと思われる権力や富、快楽を人生の目標とし、偶像の神々に頼り生ける神に背きました。
生ける神に従うより、自分たちの造り上げた偶像に頼り、神に反抗し続けるとき、ユダ王国の人々ばかりではなく、わたしたちも必ずその悲惨な結果を招き、自分たちの身に災いをもたらします。
神はわたしたちが罪に陥るとき、わたしたちは必ずしも直ぐにはその罪の結果を見ないことがあります。しかし、罪は必ず痛みと悲しみを結果としてもたらします。神が罪を憎まれるのはわたしたちが罪の結果、痛みと悲しみをわたしたち自身の身に招くためです。
わたしたちが神に反抗し、災いを自分たちの身に招くときにも神のわたしたちに対する思いは、災いではなく平和の思いです。
わたしたちが、神からの懲らしめに遭っていると思うときにも、それはわたしたちのためであって、わたしたちを罰するのが目的ではありません。神からの試練は、わたしたちが誤りを正し、神とのより深い交わりによって正しい道を歩むための修正過程なのです。
神の責めと罰は、神を拒否し悪の道を歩み続ける者に臨むのです。
社会学者や心理学者は、犯罪を犯し、刑に服役しているた人たちが更生するために、彼らの服役している場所を刑務所と呼ぶかわりに更生施設と呼んで、懲罰を軽減し、更生の道を開くことで犯罪の再発を減少させることが出来ると主張しましたが、このような試みは実際のところ失敗に終わっています。何故なら、ほとんどの犯罪者たちは、罪に対する悔い改めよりも、罪が軽減されるというためにのみ更生したように見せかけ、本当の更生には至らず、懲役期間が軽減されて施設を出ると再犯に至り、時にはより重い犯罪を犯すに至り、犯罪の減少とはなりませんでした。
神は、わたしたちが罪から更生することを望まれているのではなく、完全な悔い改めによって新しい人にわたしたちがつくり変えられることを望まれています。
わたしたちが、神によって新しくつくり変えられてゆくとき、わたしたちがどんなに懲らしめに遭っていると感じ、悲しい思いをするときでも、神のわたしたちに対する思いは慈しみと憐れみに満たされた愛の思いであることに変わりありません。
神は、常に最終的な将来の希望を与えられ、その希望を達成されるご計画を持っておられます。
そして、そのご計画によって最終的に行き着く永遠の神の栄光にわたしたちが招かれるために、一時的には、わたしたちが悲しく、困難に思える道を通ることを許されます。
人は常に目先のものに捉われ、しばしばその時の状況だけが良ければよいと考えます。
わたしたちは、周りに起こる状況が困難に思えたり、自分の思いどおりにならないとき、自分たちの瞬時の感情に捉われた罪の行為によってとりかえしのつかない結果をしばしば招きます。
わたしたちは、そのときの状況だけをに捉われて喜んだり、悲嘆します。
しかし、神は常にわたしたちの行為の最終的に行き着く先、永遠の視点からわたしたちを見ておられます。わたしたちの行為が神との交わり、永遠の観点、視点から本当にわたしたちにとって良い結果をもたらすのかどうかを見ておられます。
この世での生涯を終えた後で天国に行くことと地獄へゆくことのどちらを選びますか、という質問をされた場合、大多数の人たちは天国に行くことを選ぶでしょう。
しかしながら、多くの人たちが与えられた生涯のなかで天国へと向かうための保障を確信し、その歩みを歩んでいるとは限りません。それは、多くの人々が現在の状況が自分に喜びをもたらすものかどうかが関心の焦点であって、永遠の命や天国ということは直接の関心だと思えないからでしょう。
多くの人々が、人生の歩みで永遠の命や天国について考えたとしても、生ける神との関わりや、神の愛、永遠の命よりも自分にとって現在の状況がどうかということだけに関心が当てられ、わたしたちの計画と神のご計画のあいだに溝が存在するのです。
神はわたしたちが神と共に永遠の交わりを持って、永遠の命を得るものとなることを願われています。この素晴らしい神のご計画にあずかるために神はわたしたちにとって悲しみや困難に思える状況の起こることをも許され、神の選びの民がバビロンでの捕囚という悲惨に思える状況をも許されるのです。
神のわたしたちにたいする思いは、災いではなくて、平安を与える計画であり、わたしたちに将来と希望を与えるためのものです。
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