命の道と死の道 

(エレミア書21章8-10)


神は、わたしたち一人一人に命の道か死の道の選択を与えられています。

わたしたちは、イエスキリストを救い主として受け入れ永遠の命の道を歩むか、イエスを自分の救いとして受け入れることを拒否し、死と滅びへの道を歩むか、二つに一つの選択を与えられています。

御子イエスがこの世にこられたのは、すべての人がキリストにあって、いのちを得、またそれを豊かに得るためです。 

御子イエスは、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」と言われています。

肉体から魂が離れるとき、わたしたちは、それを死と呼んでいます。
イエスキリストにあっていのちを得る、失われた状態から救われる、というときには、常に永遠のいのち、人の魂が永遠に人を創造された神と共にあって生きることを意味しています。    

はじめに神が人を創造されたときも、神は命の道と死への道の選択を与えられましたが、人は死への道を選びとり、この世のすべてに死がもたらされました。

イエスがこの世に来られ、十字架で人の誤った選択を帳消しにし、罪の贖いをされ、復活によって死を滅ぼされたことによって、すべての人が御子を信じる信仰によって神の前で正しい、義なる者と看做され、永遠のいのちを得ることのできる選択を与えられました。

イエスという名は、ヘブル語の原語では神を意味するヤーという語と救いを意味するホシュアという語をあわせたヤーシュアの短縮形の名となっています。     
つまり、イエスという名は、もともと「神は救い」という意味です。
イエスによってのみわたしたちは、永遠に生きるものとされ、イエスの救いにあずからないものは、罪と罪過の中に死んでゆく者であるという宣言は、聖書の次の幾つかの箇所からも明らかです。

「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ福音書3章17,18)

「もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(第一ヨハネの手紙5章9-12)

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者です。」(エペソ人への手紙2章1)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ロマ書8章13)

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ福音書3章16) 

わたしたちは、肉体の生死を問題にしますが、わたしたちを創造された神は霊の生死をより問題にされます。
霊は永遠のものであり、神はわたしたちの一時的な肉体のいのちよりもわたしたちの永遠のいのち、魂の生死について目をとめておられます。 

御子イエスキリストがこの世に来られたのは、わたしたちがイエスキリストにあって、永遠のいのちを得、またそれを豊かに得るためです。


この箇所で、神はエレミアをとおして、ユダ王国最後の王ゼデキアに「見よ、わたしは命の道と死の道とをあなたがたの前に置く。この町にとどまる者は、つるぎと、ききんと、疫病とで死ぬ。しかし、出て行って、あなたがたを攻め囲んでいるカルデヤびとに降伏する者は死を免れ、その命は自分のぶんどり物となる。主は言われる、わたしがこの町に顔を向けたのは幸を与えるためではなく、災を与えるためである。この町はバビロンの王の手に渡される。彼は火をもって、これを焼き払う」という宣告をされています。

「異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな。偶像の神々は、頼みにならない。」というエレミアの警告を聞かず、ヨシア王の後を継いだエホヤハズがエジプトに幽閉され、ユダ王国にバビロニア帝国の軍隊がエルサレムに侵攻し、エホヤキムがバビロニアに屈服し、エホヤキン(エコンヤ)がバビロニアに捕囚とされた後でバビロニアのネブカドネザル王によってユダ王国の王にゼデキアが任命されました。

ユダ王国の最後の王ゼデキアは、生ける神に背いてゆくときに後戻りのできない神の裁きに遭うことになります。

バビロニア帝国の軍隊がエルサレムに侵攻し、エホヤキン(エコンヤ)、王族、貴族がバビロニアに人質として連れ去られた直後、エレミアは神からの幻を見せられ、「この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにし、彼らに目をかけて、彼らをこの国に帰らせ、彼らを建て直し、倒れないように植えて、もう引き抜かない。また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。
しかし、エルサレムの残りの者と、この国に残されている者、およびエジプトの国に住みついている者とを、悩みとし、また、わたしが追い散らすすべての所で、そしり、物笑いの種、なぶりもの、のろいとする。 わたしは彼らのうちに、剣と、ききんと、疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」(エレミア書24章5-10、参照)という神からのことばを受けました。
さらに、エレミアは「あなたがたがわたしの言葉に聞き従わないゆえ、バビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この地とその民と、そのまわりの国々を攻め滅ぼさせ、この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。そしてその国々は七十年の間バビロンの王に仕える。」(口語訳聖書 エレミア書25章8、9、11 参照)という神からのことばを受けていました。 

このような状況のなかで、ゼデキアは、再度エルサレムに侵攻し城壁を取り囲むバビロニアの軍を前に、バビロニア帝国の支配に抵抗し王として最後まで徹底抗戦をすべきか、ユダ王国がバビロニア帝国に降り屈服をすべきか、をエレミアに尋ねました。

このときに神からエレミアによってゼデキア王に伝えられたのが、この箇所のことばでした。

神はエレミアをとおしてゼデキア王に二つに一つの選択を示し、ユダ王国がバビロニア帝国に降り屈服し、民がバビロニアに連れて行かれたとしても、その地から再び神の約束されているイスラエルへ連れ戻す計画を持たれ、その神のご計画に従うことが命への道だと言われたのでした。


神は、はじめに人を創造されたときから、命に至る道と死に至る道の、二つに一つの選択を与えられています。

神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれ、
その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせ、人に命じて仰せられ、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2章9,16-17 参照)と、
命の木と死に至る木の二つに一つの選択を与えられました。

イスラエルの民に律法が与えられたときも、モーセをとおして神は二つに一つの選択を与えておられます。

「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30章19)

箴言のなかにはいのちに至る道と死に至る道が対比されて述べられています。

「義を追い求める者はいのちに至り、悪を追い求める者は死に至る。」(箴言11章19)
「正義の道にはいのちがある。その道筋には死がない。」(箴言12章28)
「主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。」(箴言14章27)

イエスは、死からいのちへと移る者について、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ福音書5章24)と、述べておられます。

聖書は一貫して義と光の神の国と不義と闇のサタンの支配する国の二つに一つの選択があることを述べています。

使徒パウロは、神によって与えられた使命について、
「彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、イエスを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるため」(使徒書26章18参照)と、述べています。

死と永遠のいのちについても、「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」(ロマ書8章20-22) と、述べています。

これらの箇所はすべていのちの道と死への道の二つに一つの選択が与えられていることを示しています。

神は、すべての人がいのちの道を選択することを望まれています。

「主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。」(エゼキエル書33書11)

神がいのちの道を選択することを望まれているのにも拘わらず、何故多くの人々が死への道を選択するのでしょうか。

このことについて、使徒パウロは、不法の秘密が(第二テサロニケ2章7 参照)働いているからだと説明しています。

はじめの人に神が「食べるな」と命じられた善悪を知る木は「食べるに良く、目には美しく、賢くなるに好ましいと思われる」木でした。

誘惑は常にわたしたちの肉体の欲求を満たし、目には美しく、自分のプライドを満足させるように思え、神のことばに従うよりは、自分自身を満足させるように思えます。

神のことばに信頼する選択は明らかに命にいたる道であり、自分の肉の思い、目に美しく見えるもの、自分自身のプライドを満たす誘惑は、不法の秘密による選択であり、死に至る道です。

信仰による歩みは、いのちに至る道であり、モーセのように、はかない罪の楽しみを受けるより
むしろ神の民とともに苦しむことを選び取り、エジプトの宝にまさる大きな富を得、永遠のいのちを得る歩みです。(ヘブル書11章26 参照)

ユダ王国のゼデキア王は、エレミアによって示された神のことばには従わず、「バビロニアの王に仕えることはない」という取り巻きたちの進言に従って、バビロニアに徹底抗戦をする死の道を選びました。

この結果、ネブカデネザル王率いるバビロニア軍にエルサレムは包囲され、多数の民が餓えと苦るしみのなかで死に、神殿は焼かれ、城壁が崩れたとき落ちのびようとしたゼデキアは家族とともに捕らえられ、目の前で家族を殺された後で目をくりぬかれ、バビロニアへ囚人として捕われました。

わたしたちには、イエスを信じ、人生の歩みにイエスが共に歩まれるという道を選択するか、イエスを拒否し自分の肉の思い、自分のプライドだけに生きる道を選択するか、二つに一つの選択があります。

イエスキリストが来られたことによって与えられている命の道を選択し、状況を越え、イエスを主として神のご計画のなかに人生を歩むとき、わたしたちも永遠のいのちを得、そのいのちを豊かに受ける者となります。

神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望むとき、主はわたしたちを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さいます。(ユダ書21,24参照) 



 
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