こわれた水ため

(エレミア書2章13)


統一イスラエル王国が北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂した後、北イスラエル王国は当時の強国アッシリア帝国によって紀元前七百二十二年に滅亡し、残ったユダ王国では王位を継いだ王たちの背信が続きました。
エレミアは、八歳で王位を継いだヨシア王の治世十三年のとき、神からの召命を受け、神からのことばを忠実に伝えました。
エレミアは王国の存続は、 神の真実さ、恵みの故であり、このことを王と民が忘れ、神との契約をおろそかにし、自分たちの力に頼り、高ぶり、生ける神以外の偶像の神々に頼るとき、滅亡が到来することを涙ながらに訴え続け、民族の滅亡と神殿が崩壊されることを預言しました。

エレミアは、預言に反対する指導者や祭司たちから疎まれ、迫害と孤立のなかでヨシア王からエホヤハズ、エホヤキム、エホヤキンに臨んで、ユダの王ゼデキア十一年の終わり(586B.C.)エルサレムの民がバビロンに捕らえ移されたときまで王と民に神からの警告を述べました。

この箇所は、ヨシア王のもとで国は改革の方向へ向かうかのように思われた時期に、国の指導者や民は心から生ける神へ立ち返ることをせず、人々が自分たちの思いを中心にして偶像を礼拝し、生ける神を忘れ、この世の富や安逸と繁栄を求め、バアル、マモン、アシュタレトなどに心を寄せてゆくことにたいして、神からの裁きが行われ、国家と周りの状況は悲惨な状態に陥ることを述べた警告のことばです。

エレミアは、神の恵みによって王朝を築くに至ったユダ王国の民が、二つの大きな悪を行っていると述べています。
彼らの大きな悪の一つは、生ける神、湧き水の泉を捨ててしまったことであり、そして、もう一つの大きな悪は、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったということでした。


人の基本的な生理的欲求のなかで水を求める欲求は、空気を求める欲求に次いでわたしたちに必要な基本的な欲求です。水は生命を維持するために欠かすことが出来ません。                

聖書のなかで水は、肉体的にも魂にとってもわたしたちの基本的欲求を満たすために必要なものとして描かれています。

わたしたちの生活の中で水のない状態は、渇いた砂漠のような状態であり、そのままではわたしたちは死に絶えてしまいます。

イスラエルの民がエジプトにおいて奴隷から解放されモーセに率いられて砂漠の旅をしたときも、人々にとって水を得ることが出来るかどうかは常に死活問題でした。

民が砂漠で水を求め、指導者のモーセに詰め寄ったとき、神は岩から水を沸き出ださせ、民が岩から流れる水を飲んで救われたことが記録されています。(出エジプト記17章1-7、民数記20章1-13 参照)

このことについて、使徒パウロは後に「民が飲んだ水は御霊の飲み物であった。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからであり、その岩とはキリストです。」(第一コリントの手紙 10章4)と言っています。

流れ出る水こそが生きた水であり、その源には必ず岩から湧き出でる泉があり、この泉から湧き出で流れる水こそがわたしたちの乾きを本当に癒す純粋な水です。  

イエスは、わたしたちの渇きを癒す水を求める人々に、ご自身に来るものが泉から湧き出で流れる尽きることの無い純粋な命の水をのむことが出来ることを、宣言されています。

イエスは仮庵の祭りというユダヤ人の祝いの7日間が過ぎ、最も大事な8日目の聖会の行われる日にエルサレムの神殿に立たれ、大声で「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書(旧約聖書)が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。
福音書を記した使徒ヨハネは、これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのだ、と言っています。(ヨハネ福音書7章13,14 参照)

イエスがエルサレムからガリラヤ地方へ行かれたとき、サマリアを通ってヤコブの井戸で、水を汲みに来た女に出会われたときにも「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」と、言われています。(ヨハネ福音書4章13,14参照)

聖書の最後の招きも「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。 」(黙示録22章17)ということばが述べられています。

神はエレミアをとおして、神の選びの民ユダ王国が生ける神、湧き水の泉を捨ててしまった、と言っています。 

ここでエレミアは、「神々でないものに、取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は、その栄光を無益なものに取り替えた。」(エレミア書2章11)と、神が嘆かれていることを述べています。

異邦の人々は偶像の神々でさえ捨てることをせず、偶像の神々に忠実なのに、イスラエルの民は、生ける神の栄光を捨てて偶像の神と取り替えるという馬鹿げたことを行っているというのです。


もう一つの大きな悪は、水をためることのできないこわれた水ためを、自分たちのために掘った、ということがエレミアによってユダ王国とその民に宣告されていることでした。

自分の人生を偶像に頼り、偶像に忠実な人々は、それを宗教的な伝統と結びつけ、偶像によって彼らの生活が支配されています。
同じように、たとえ溜まり水であっても、生きるために必要な水を確保するためにあちこちに岩を掘る人々は、いずれ水が涸れてしまうにも拘わらず、自分たちの努力で岩を掘り続けることになります。

エレミアは、イスラエルの民が、乾いた砂漠の旅のなかでも湧き出でる泉から流れる水を飲むという体験をしたにも拘わらず、生ける神、いのちの岩から湧き出でる泉を捨てて、かわりに、偶像の神々、不純物が混入し、汚れてゆき、いずれは涸れてしまう水を得るためにこわれた水ためを掘るようになってしまった、と言っています。 

「すべての被造物が虚無に服し、創造者の神を待ち望んでいる。(ロマ8:20)」と述べられているように、わたしたちは魂を本当の意味で満たす何者か、何かを拝みたいという根本的欲求を持っています。
しかし、魂を満たす何かを拝みたいという根本的な欲求を、目で見ることのできる被造物を対象にして自分の欲求や思いをその被造物に転化するとき、人は偶像礼拝へと陥ります。

被造物の素晴らしさをみてそれを創造された方を拝むかわりに被造物を拝むとき、人は神の怒りを貯めることについて、聖書は何度も警告をしています。(申命記メッセージ「魅せられて拝む」参照)

人は魂を満たす何かを拝みたいという欲求や思いに駆られ、自分たちの信条や哲学や主義によって自分の魂を満たすと思われる権力や富、快楽を人生の目標とし、偶像の神々を造り上げ、それを拝みます。

創造の生ける神ではなく、被造物をみて豊穣の神バアル、富の神マモン、快楽の神アシュタレト、支配と犠牲を強いる神モレクなどの偶像を拝み、自分の力や能力に頼ってそのような神々に自分の思いを託し、それらを生きる目標として宗教的な祭儀に結びつけ、それらの空しい神々に支配された民は、滅びへと向かいました。

エレミアは、作りあげられた偶像の神々を拝み、宗教的な努力をする人々について、彼らが水をためることのできないこわれた水ためを、自分たちのために掘っている人々になぞらえています。

神がイエスキリストにあって永遠の命の希望を与えられていることを知りながら、生きた神に信頼することより、人の作りあげた偶像の神々に心を寄せ、それらによって魂を満たそうと自分の力や能力を注ぎ込むことは、水をためることのできないこわれた水ためを、自分たちのために掘っているようなものです。

偶像の神々に頼るときに起こることは、必要な水をためるために、岩を掘って自分たちの力と能力を費やしても、こわれた水ためを掘るように、本当に水の必要なときに必要は満たされず、渇きを癒すものとならず、すべてが結局は徒労に終わる、ということです。


イスラエルには、雨の水をためるために掘られた岩が水溜めがこわれていて水をためることができず、無用の長物と化した場所が人を埋葬するための墓とされているところが存在し、現代でもそのような場所を訪れることができます。

生ける神、人生の渇きを癒す湧き水の泉を捨てて、偶像の神々、不純物が混入し、汚れてゆく水を求め、水をためることのできないこわれた水ためを掘るとき、必要は満たされず、渇きを癒すものとならず、すべてが結局は徒労に終わり、滅びがもたらされるという警告は、わたしたちが真剣に受け止めるべき警告です。



 
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