心の秘密を知られる

(エゼキエル書8章12)


エゼキエル書には、エゼキエルの見た栄光の神の幻がエルサレムの神殿から去り、エルサレムが崩壊滅亡し、イスラエルの民ヘブル人たちが散らされ、後の日になってイスラエルの民が再び集められ、エルサレムの神殿に栄光の神が戻られるまでの壮大な預言が述べられています。

7章と8章は、何故、選びの民であるユダ王国が神の裁きのなかで滅びに至ったのか、そして、
神の裁きの意味と公平さをエゼキエルが見せられている場面が描かれています。

エゼキエルは、バビロニア帝国のネブカデネザル王がユダ王国に2度目に侵攻したとき(紀元前597年)、バビロニアに捕囚となり、捕囚となった民が集められたケバル河の辺(ほとり)で栄光の主の幻を見(紀元前593年)神からのことばを捕囚となった同胞に伝えました。     

エゼキエルがこの栄光の神の幻をみた翌年、(バビロニア帝国にエゼキエルが捕囚となってから6年目 紀元前592年頃)、神である主の御手がエゼキエルの髪をつかみ、霊がエゼキエルを地と天との間に持ち上げ、神々しい幻のうちにエルサレムへ携え行き、ねたみを引き起こすねたみの偶像のある、北に面する内庭の門の入口に連れて行かれるという体験をしました。(エゼキエル書8章1-3 参照)  

エルサレムがバビロニアの軍隊に包囲されているその最中、神はエゼキエルに幻のなかで、神殿の庭の入り口に集うイスラエルの長老、祭司たちの心の隠れた部分を見せられました。

「それから、この方は私を庭の入口に連れて行った。私が見ると、壁に一つの穴があった。
この方は私に仰せられた。『人の子よ。さあ、壁に穴をあけて通り抜けよ。』私が壁に穴をあけて通り抜けると、一つの入口があった。この方は私に仰せられた。『はいって行き、彼らがそこでしている悪い忌みきらうべきことを見よ。』私がはいって行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。」(エゼキエル書8章7-10) 

この箇所でエゼキエルが見た壁は、長老、祭司たちの心の奥底を取り巻く場所を蔽っている壁、誰も知ることが出来ないような心の秘密を蔽っている壁でした。
エゼキエルは、神の霊に連れられ、エルサレムの指導者たち、70人の長老、祭司たちの心の秘密の部屋の壁に穴を開けて彼らの心の奥底に潜む思いを目の当たりにするという体験をしました。 

彼らの心の奥底の部屋の壁に穴を開け中を覗き見ると、そこは淫らな偶像と、おぞましい忌むべき獣などが壁一面に彫られていました。この汚らわしく、おぞましい像を見て愕くエゼキエルに、神はエゼキエルの見ている彫像こそ、王国の指導者たちの心を占めている思いであることを告げられました。

そして、この箇所で述べられているように、神はエゼキエルにイスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。』と言ってこれらのことを行なっているのだと言われました。

神は、国の指導者である長老、祭司たちが心のなかで犯している決定的な誤り、裁きの理由を指摘されています。一つは、彼らが「主は私たちを見ておられない。」もう一つは、「主はこの国を見捨てられた。」と言うことでした。


聖書の全体をとおして、何度も、神がわたしたちを見ておられ、わたしたちのすべてを知っておられ、神の前に隠れたものはなく、わたしたちの心の秘密をもすべて見通しておられることが明らかに述べられています。

主なる神は、わたしたちの心の秘密の部屋の壁の内側を見ておられ、そこに潜んでいるわたしたちの思いの映像がどのようなものなのかもすべて知っておられます。

神はノアの時代にも人々の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になっていました。

わたしたちは、外側から目に見えるものに頼り、人に信頼するときに、それはしばしば裏切られます。人は自分の心の底にある思い、損得勘定を隠す偽善に満ちています。
人の罪の性質は、自分の喜びのために人生を送ろうという肉の思いを持っており、人を創造された神の喜びのために人生を送りたいという思いを持っていません。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。 わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」(エレミア書17章9-10)と、神は言われています。

イスラエル統一王国の王となり、繁栄の礎を築いたダビデが、子のソロモンに王位を譲るとき、王国を治め末永く繁栄と神からの祝福を王国が受けるために与えた訓戒は「わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現わされる。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。」(歴代上28章9)というものでした。

「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル書4章13)

イエスがこの世に来られたときも、イエスは人の思いのすべてを知られ、律法学者やパリサイ派の国の指導者たちが偽善的に振舞うときに彼らの心の奥底の思いを見抜いておられました。

神は、わたしたちの心の内側を見られ、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法に満ちた者を憎まれます。


神がわたしたちのすべてを知られ、思いを見抜いておられるのに、何故、人は「神はわたしを見ておられない」という錯覚に陥るのでしょうか。

わたしたちの錯覚は、神がどのようなお方であるのかを、限られた枠のなかで理解しようとするときに起こります。
神の尊厳、偉大な創造とご計画、恵み、まことの大きさは、わたしたち人の理解を遥かに超えています。

神は人を神のかたちに似せて創造され、すべての被造物を素晴らしいデザインで造られました。

わたしたちが、神を理解しようとして創造された様々な生命、その繊細なデザイン、造られたそれらの目に見える素晴らしいものに似せて、それらを神とするとき、それらは偶像となります。

多くの人々が人の想像や概念によって神を作り上げています。
人は神によって神に似せて創造されたのに、多くの場合、自分自身の思いの投影によって神々を作り上げます。

偶像を神とする人は知ることがなく、また悟ることがない。その目はふさがれて見ることができず、その心は鈍くなって悟ることができません。(イザヤ書44章18参照)

神が人を創造されたのに、わたしたちが限られた自分たちの理解によって神を作り上げるとき、「神はわたしを見ておられない」という錯覚に陥ります。

さらに錯覚に陥るもう一つの理由は、わたしたちが、神が慈しみに満ちた、寛容で忍耐に富んだ方であるということを、不義を見過ごされていると思うときに「神は見ておられない」という錯覚を起こします。

神が悪を即座に罰し、裁かれないとき、人は往々にして神の寛容、神の忍耐を罪や背きを見逃されていると錯覚し、「神は見ておられない」と、思うのです。

神の寛容と忍耐にたいして「どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。」(詩篇73篇11参照)と言うとき、わたしたちは神との関係から離れ背きの道を歩むことになります。

創造された神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もしないとき、人の思いはむなしくなり、無知な心は暗くなり「神は見ておられない」と錯覚するのです。 


ユダ王国の長老、祭司たちは、国がバビロニア帝国の侵攻や捕囚という事態に立ち至り、状況が自分たちの思うようにいかず悪化してゆくとき、自分たちの身勝手さを棚に上げて、「主はこの国を見捨てられた」と言って、神は王国の状況に関わりを持たず、遠いものとなり、自分たちの願うことに関心を持っておられないという一方的な誤解に陥りました。 

わたしたちも、周りで起こる状況が自分の思うようにならず問題と困難な状況に遭遇するとき、「神はわたしを見捨てられた」と思うことがあります。

神が人々の営みには関心を持っておられず、遠い存在なのだと思うとき、それぞれが自分の目によいと思うことをそれぞれ行い、自分たちの思う偶像の神々を作り上げるようになります。

神はわたしたちの身近におられ、わたしたちの一瞬一瞬の営みに深い関わりを持たれています。生ける神は、すべての被造物に目を留めておられるばかりでなく、わたしたち一人一人がこの世で試練や困難に出会うときにも深い慈しみの目を向けておられます。

人々が神から見捨てられても仕方がないと思える状況をこの世でしばしば見聞きしますが、生ける神は被造物全体だけではなくその一つ一つを、ことに神に似せて創られたわたしたちの人生、わたしたちの魂に深い関心と愛情を持っておられます。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。
また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(マタイ福音書10章28-31)

「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」(申命記30章14)


主はわたしたちの心の秘密、私たち自身でさえ気付かない本当の動機を知られ、わたしたち一人一人の人生、わたしたちの魂に関心を持っておられます。

愛と恵みに満ちた生ける神は、わたしたちが神に叫び求めるとき答えられ、寛容と忍耐をもってわたしたちの不義を赦し、救いの手を差し伸べられたいと願われています。
しかし、生ける神は義なるまことの神であり、神に背く者、偶像、悪と妥協される方ではありません。主にむかって犯した罪は必ず身に及びます。

神の愛、神の寛容と忍耐を誤解し、神はわたしたちからは遠いかけ離れた方であり、すべては単に偶然の積み重ねにすぎないのだと言って 人が、思い思い勝手なことを行い、神に背き、偶像を拝み、悪を積み重ねるとき、神はこれに公平で峻厳な裁きをされます。

「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」(申命記32章35)

こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう。(申命記29章19-20)  

神はユダ王国にたいして、国の指導者たちをはじめ民が神殿の建てられた地を暴虐で満たし、偶像を拝み、悪を積み重ねているゆえに神の怒りが下ると述べられています。

「だから、わたしも憤って事を行なう。わたしは惜しまず、あわれまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない。」(エゼキエル書8章18)

神のさばきは、人が思い思い勝手なことを行い、神に背き、偶像を拝み、悪を積み重ねるとき、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれます。
(ロマ書2章16参照)  

神は、御怒りの日、神の正しいさばきの現れる日に、かたくなさと悔い改めのない心、不純で不義なものを滅ぼされ、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いられます。

すべての人が神の裁きの座の前に立つことになります。
わたしたちが神の差し伸べられた救い、恵みの福音にとどまり、過ちを悔い改め、御言を聞いてそれを行うものへと変えられ神からの称賛を受けるか、主は私たちを見ておられない、主はわたしを見捨てられた、と言って滅びに至るのかは、わたしたちひとりひとりに与えられている心の選択です。



 
エゼキエル書のメッセージ


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