栄光の回復

(エゼキエル書43章1-5)


天地を創造され、ご自身に似せて人を造られた神は、人が神のことばよりもサタンのことばを選び、サタンにこの世が隷属するものとなってから、一人の人を選び、この人、アブラハムに子孫と土地と祝福の契約を与えられました。
神が約束されたとおり、アブラハムの子孫、ヤコブは神にイスラエルという名を与えられ、カナンの地が飢饉のときに、ヤコブの息子の一人ヨセフがエジプトの宰相となったとき、他の息子たちの家族と共にエジプトに移住しました。
この地、エジプトでヤコブの子孫は増えましたが、時代が変わり、このイスラエルの民はエジプトで奴隷の状態に陥りました。
神はイスラエルの子孫の一人、レビ族のモーセを選び、このモーセによってエジプトで奴隷であったイスラエルの民を導き出されました。
神は、ご自身がどのような方であるのかを示し、イスラエルの民をとおして神の栄光と真実を世界の人々に知らせるすために、イスラエルの民に祝福の契約を与えられ、律法を示され民を導かれました。
神はイスラエルの民が荒野を旅し、約束の地へ向かうときにも、夜は火の柱、昼は灼熱の太陽を蔽う雲となって民と共に居られ、常に臨在されました。

神はモーセに神の臨在される栄光の天の御座を模して、地上の幕屋の建設を命じられ、イスラエルの民が荒野を旅するときには常に幕屋が民の中心に在りました。

幕屋が奉献され、犠牲の動物が捧げられたとき、栄光が、モーセとアロンさえも幕屋に近付くことのできないほどの神の栄光が満ちました。
神は、文字通りイスラエルの民とともにおられ、彼らの中心に臨在され、幕屋の至聖所の栄光の御座に大祭司が民を取り次ぎ、栄光の神に近付くための方法を示されました。

後に、イスラエルの民が約束の地に定住し、イスラエル統一王国の王ソロモンのときに、エルサレムの都に神殿が建設され、この神殿が完成し、ソロモンが神殿を奉献したときには火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くし、神の栄光の臨在が神殿に満ちました。

エルサレムの神殿はイスラエルの民のうちに栄光の神が臨在されることを人々に思い起こさせるものでした。
神はイスラエルの民と共に臨在されました。しかし、イスラエルの民は、繁栄をもたらされ、祝福を与えられると王国が堕落し、神を忘れ、神の律法から離れ、神が預言者たちをとおして度々王国と民に警告したにも拘わらず、神に背いて偶像の神々に心を向けるようになりました。 


神の律法から離れ、神に背き、偶像の神々に心を向けるようになったイスラエルの民は、王や民に対する預言者たちの警告にも拘わらず、神の預言を嘲笑し、警告に心を留めず、神の裁きと王国の滅びを招きました。
この結果、エゼキエル書でも述べられているように、神の栄光がエルサレムの神殿を去り、バビロニア帝國の侵略を受け、民はバビロニア帝國へ捕囚となり、神殿も焼失してしまいました。

エゼキエルは神の栄光が神殿を去るときの様子について、「ケルビムが翼を広げると、輪もそれといっしょに動き出し、イスラエルの神の栄光がその上のほうにあった。主の栄光はその町の真中から上って、町の東にある山の上にとどまった。」(エゼキエル書11章22-23)と述べています。

神の栄光は、町の真ん中から上って、町の東の山、オリブ山の上でしばらくとどまっていた、と述べられているように、主の栄光がエルサレムの神殿から去り難い様子が伺えます。

この同じ山の上から都を見られたイエスは、「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」(ルカ福音書19章41-44)と、イスラエルの民とエルサレムの都のために泣いて言われました。

イエスはオリブ山の上からヘロデによって改修、修復された壮麗な神殿を眺めながら弟子たちが感嘆し、「お話しください。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」という質問に答えられ、「わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)
そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
死体のある所には、はげたかが集まります。だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」と、言われこの世は人類が今までに経験をしたことのない破滅へと向かう期間を迎えることを預言されました。(マタイ福音書24章、オリブ山の問答参照)
そして、「そのようなことが、いつの日、いつの時に起こるのでしょうか。」という弟子たちの疑問にたいしては、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。 」と答えられました。

この直後、イエスは十字架に架かられ、3日ヵ目に復活され、復活をされたイエスは40日の間、使徒たちに現れ、神の国のことを語られ、彼らといっしょにいる時、彼らの見ている前で、雲に包まれて天に上げられ見えなくなりました。
イエスの生前のことばどおり、イエスは復活され再び来られることを約束され天に昇られましたが、神殿は紀元70年ローマ軍団によって崩壊され、エルサレムの城壁が崩されイスラエル、ユダヤの民は世界中に離散してゆきました。

エゼキエル、エレミアが預言しているように、イスラエルの民は、バビロニアの捕囚の70年後カナンの地に帰還を許されました。

ペルシャのアルタシャスタ王によって町と城壁を建て直せという勅令が出されたBC445年3月14日に該当する日から69週目、太陰暦で480年目、すなわち、173,880日目の西暦32年4月6日に、ネヘミア、ゼルバベルによって再建され、ヘロデ王が拡張、修復した神殿に、神の御子イエスがメシア、救いの君であることを民衆に公にされ、子ろばの背に乗って群衆からホサナ、ホサナという歓呼で迎えられエルサレムの神殿に入城されました。
そして、「この後にメシアは、自分のためではなく断たれ、きたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている」という預言のとおり、メシアであるキリストは自分自身のためには何も受けることなく十字架の上で「断たれ」、エルサレムの町と神殿は、ローマ皇帝ネロの将軍タイタスの軍団によって、紀元70年に滅ぼされました。さらに、この後イスラエルの民は流浪の民として世界に散らされ、荒廃した状態が続き、この町と城壁をめぐって現代にいたるまで紛争は続き、戦争の絶えない状態が続いています。

神は、エゼキルをとおして、36章から、荒れた地となり廃墟となったイスラエルの山々、約束された土地が、長い時を経た終わりの時に回復することについて述べ、37章から谷間にあるひどく干からびた多くの骨が筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、息を吹き入れられて生き返るというイスラエルの民、国家が回復してゆく預言を述べています。

この36章の預言については、長い期間イスラエルの地は荒れ、草木の生えていない石の多い荒地が緑豊かな土地が回復してゆき、農作物、特に果樹栽培が盛んになり、イスラエルの地の回復していった事実を知ることによって、預言が歴史的現実となったことが解ります。

37章の預言についても、第二次世界大戦後イスラエルが国として1948年に再建され、1967年のいわゆる中東6日戦争によってエルサレムが奪還され、20世紀にも亘って世界各地に離散し、差別と侮蔑の的となり多くの場合隔離されていたユダヤ人が、民族としての独自性を保ち、神が約束されたイスラエルの地に戻り、土地と国家の回復を遂げているのを見ることによって、預言が歴史的な成就を遂げていることを知ることができます。
さらに、38章、39章にはイスラエルが国家として独立再建された後に、メシュクとトバルの大君、マゴグの地のゴグがペルシヤとクシュとプテとともに、ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマとそのすべての軍隊、それに多くの国々の民によって久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる民を攻めることが述べられています。
この終わりの日に行われるイスラエルへの侵略戦争は、北方から侵攻するロシア、イラン、トルコ、エチオピア、リビア、などの大軍によって、多分核兵器によるイスラエル軍との交戦状態になるのだと思われます。この戦争で、ロシア、イランをふくむ北方からのイスラエル侵略同盟軍は、兵器、兵力に圧倒的に優る大軍にも拘わらず、神ご自身が介入され緒戦(ちょせん)で致命的な敗北を喫します。
この結果、侵略軍の6分の1を残して壊滅状態に陥り、彼らに火が放たれ、イスラエルの家は、その国をきよめるために、七か月かかって彼らを埋める、ことが述べられています。

この38、39章の預言、終わりの日に、イスラエルの国土を回復し、国家を再建され、イスラエルの国の民をロシア、イランなどの侵略軍が突如侵略し、神ご自身が介入され、このロシアおよびイスラム諸国の侵略軍が壊滅状態となる預言は、世界の情勢、特にイスラエルを取り巻く中東情勢に敏感であれば、何時現実のものとなっても不思議でない世の中にわたしたちは日々を過ごしていることに気付かされます。

現在の世界がすでにアフガニスタン、イラクでの戦争をはじめとしてロシアのグルジアへの侵攻、イラン、トルコ、北アフリカ地域を主体とするイスラム過激派やテロの問題、インド、パキスタン、中国国境の紛争、北朝鮮における緊張など、さらに、イスラム圏諸国とイスラエルの緊張関係をふくむ解決のめどがたたない状態の中東問題など、38章、39章で述べられている来るべき中東戦争が何時起こっても不思議ではない世界にわたしたちが置かれていることは避けられない現実です。      

ダニエル書9章に述べられている聖なる都について、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎が贖われ、永遠の義がもたらされる70週の最後の一週、7年間は、このエゼキエル書39章の預言が成就すると同時に再び動き出すと思われます。

しかし、このために、世界中が混乱状態に陥り、この中東戦争と同時か、それ以前にキリストを主とし、信頼して生きる人々が、突如この世から携挙されるというキリストの花嫁としての教会にたいする預言が実現します。
そして、この携挙という神のキリストにある恵みを否定する人々にとって理解し難いことが起こることによって、中東の戦争と世界を巻き込む混乱状態は、より加速的なものとなるでしょう。

世界中が混乱状態に陥った時、この状態を解決するカリスマ的人物が登場し、世界中に和平条約を結ばせ、特にイスラエルとイスラム圏諸国の和平の象徴として、エルサレムの神殿の丘にユダヤ人たちが待望していたソロモンの時代の神殿の建設を認め、多分わたしたちが現在見ることのできる岩の神殿の隣に神殿が築かれることが預言されています。


現在イエスキリストの十字架の贖いと復活の希望にあって人生を歩む人々の群れに注がれている神の霊は、再びイスラエルの民、ユダヤ人たちに注がれます。
それは、エゼキエルをとおして38,39章で預言されている、国家として独立再建されたイスラエルにロシア、イランなどの侵略軍が突如イスラエルに侵攻し、神ご自身が介入され、このロシアおよびイスラム諸国の侵略軍が壊滅状態となる預言が現実に歴史の上で成就するときと時期を同じくしています。そしてこの時から、ダニエル書9章に述べられている聖なる都について、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎が贖われ、永遠の義がもたらされる70週の預言、最後の一週、7年間が始まると思われます。
イエスキリストの十字架の贖いと復活の希望にあって人生を歩む人々の群れが引き上げられ空中で主にお会いするという出来事は携挙と呼ばれます。
使徒パウロは、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ個人的に受け入れ、困難な時代にあってイエス・キリストの再臨と、この世が贖われることを待ち望む人々が、天から下ってこられる栄光のイエスのもとへ一瞬のうちに引き上げられ、キリストにあって、希望を抱いてすでに眠った人々と共に朽ちない栄光の姿に変貌する携挙という出来事が必ず起こることを明言しています。(第一テサロニケの人々への手紙4章14-17 参照)
この、携挙という歴史的な出来事は、この中東戦争と同時か、それ以前に起こると思われます。

偏在され、キリストを信じる人々のうちに住まわれる聖霊は、夜中にともしびを灯す油に譬えられています。したがって、携挙が突然におこり、携挙された人々が天上の神の御座の前で栄光と賛美に満ちた時を迎えると同時に、この世は文字通り暗闇となり、キリストが言われた人類が今までに経験をしたことのない破滅へと向かう期間を迎え、再びイスラエルの家に神の霊が注がれます。
そして、不法の者、滅びの子が出現し、神の怒りが地上に訪れ、聖なる都について、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎が贖われ、永遠の義がもたらされる70週の預言、最後の一週、7年間の期間の終わりに栄光のメシアが再臨されます。

中東の戦争と突如この世からクリスチャンが携挙されるという混乱状態に世界が巻き込まれてゆくなかで、人々は、世界平和を実現し、強力な指導力をもって世界の混乱を安定させる政治、経済の分野にわたって優れた指導力を発揮する人物の登場を期待します。
この期待に応えて、多分ヨーロッパ共同体のなかから天才的な政治力、経済的な指導力を持った人物が登場し、「彼」によって、世界中に和平条約が結ばれ、特にイスラエルとイスラム圏諸国の和平の象徴として、わたしたちが現在見ることのできるエルサレムの神殿の丘の岩の神殿の北側を塀で仕切り、そこにユダヤ人たちが待望していたソロモン時代の神殿が築かれると思われます。

エゼキエル書の40章から42章には、イスラエルに侵略したロシア、イラン、イスラム圏諸国が神ご自身の介入によって壊滅し、世界が混乱に陥った後に再建されるエルサレムの神殿がどのようなものなのかについて詳しく描かれています。 
「神殿の周囲の外壁の回りは、同じ長さと幅の正方形の壁に四方を巡らされ、聖なるものと俗なるものとを区別していた。(エゼキエル書42章15-20参照)」という記述、外壁の東の門の入り口と内庭にある神殿の東側入り口が直線となることからも、神殿は現在の岩のドームの北側を塀で仕切り、そこへ再建されます。(第三神殿参照)

しかしながら、中東和平の象徴としてエルサレムの神殿の丘にソロモンの時代の神殿が再建されると、「彼」は、ダニエルの預言の最後の一週、7年間の半ば、和平条約の結ばれた3年半後に、自らこの条約を破棄し、 エルサレムに再建された神殿の至聖所に入り、自分の肖像を祀り、すべての人々に「彼」が神であることを認め、拝むことを強要します。そしてこの日から1290日目に栄光の神、キリストが再臨されます。
「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。」(ダニエル書12章11)

43章のこの箇所には、エゼキエルが神々しい幻のうちにイスラエルの地へ連れて行かれ、その姿は青銅でできているようであり、その手に麻のひもと測りざおとを持って門のところに立っているひとりの人に出会い、彼がエゼキエルを再建された神殿の東向きの門に連れて行き、そこでイスラエルの神の栄光が東のほうから、すなわち神殿の城壁、東の門から向かった東側、オリブ山の上の方向から現われたことが述べられています。

「彼は私を東向きの門に連れて行った。すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。私が見た幻の様子は、私がかつてこの町を滅ぼすために来たときに見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。それで、私はひれ伏した。主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。」(エゼキエル書43章1-5)

栄光の神、キリストは、復活されオリーブ山の上で天に昇って行かれるのを人々が見たときと同じ有様で再びこの世に来られます。

ゼカリヤは、「 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」(ゼカリヤ書14章4)と、預言しています。
イエス・キリストは必ず再びこの地上に来られます。
イエス・キリストが主であることを信じ、歩む人々が「御國が来たりますように。御心が天におけるごとく地にも行われますように。」と繰り返し祈る祈りは、必ず現実に成就します。
イエスは、十字架に架かられる前、弟子たちに「わたしは父のもとへ行く、そして場所が用意できたら、また来てあなたがたをわたしのもとへ迎えよう」と言われました。 
イエス・キリストは再びこの地上に来られます。
エルサレムに神の栄光が回復され、神の国が建てられ、万物が改められ、すべての人々が想像を超えた栄光ある豊かさのなかに、解放と喜びと完全な義の宿る光の世界に主と共に住まう時は必ず訪れます。
神のご計画は変わることなく真実です。



 
エゼキエル書のメッセージ


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