自分自身を欺く

(エゼキエル書33章31-33)


バビロニアの捕囚となり、国が滅亡寸前に追い込まれて行くなかで、エゼキエルをとおして伝えられる神のことばにイスラエルの民は、「私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。」(エゼキエル書33章10)神の裁きに会う自分たちに希望はないという態度で聞きました。

これに対して神がエゼキエルをとおして言われたのは、「わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル書33章11)ということばでした。 
         
人々は、悲惨な状況が起こり、先の見えない状態に陥いると、神の真実さを見失い、神が厳しく罪を裁き、神に人が背くのを裁こうと待ち構えているという欺きに捉われ、「私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。」という思いになります。
神が厳正であり、罪を裁かれるということと、神の恵み、赦しについて多くの人々が、またクリスチャンと呼ばれる人々の間でさえ、神の義と神の愛、恵みについて混乱をしています。

神が愛の神ならば、何故、神は人を地獄に送られるような裁きをされるのだろうかと、いうような質問や疑問を多くの人々が持ちます。

聖書は神が人を地獄に送り込むということを述べていません。
神がわたしたちを地獄へ送り込むのではなく、わたしたちが頑なに救われることを拒否するのです。それは、神の国への招きを拒わり続けるという、わたしたち自身の選択の結果です。

神は人が神に従い、神を愛することを強要されません。
神はわたしたち一人一人の自由な選び取りによって、すべての人が神の国に入り、永遠に生きるものとなることを望まれています。  

もしわたしたちが、神の用意される救いの道を拒否し、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮り続け(ヘブル書10章29参照)、頑なに救いを拒否し神に背き続ければ、地獄への道を辿ることは可能です。
          
神の愛、赦しが あまりにも豊かで恵みに富んだものであるために、人々は神の救いについて誤解します。
自分よりも明らかに道徳的ではなく、悪を行っている他人が神の救いを受けることができるということを、しばしば神は不公平であると思うことがあります。
わたしたちは、自分の善行や、自分の義によって神の前で義とされるのではなく、神の一方的な恵み、神の義を信仰によって受け取ることによって神の前で誰でもが義とされるのです。

このことについて、神はエゼキエルをとおして、「正しい人の正しさも、彼がそむきの罪を犯したら、それは彼を救うことはできない。悪者の悪も、彼がその悪から立ち返るとき、その悪は彼を倒すことはできない。正しい人でも、罪を犯すとき、彼は自分の正しさによって生きることはできない。
わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる。』と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、彼の正しい行ないは何一つ覚えられず、彼は自分の行なった不正によって死ななければならない。
わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言っても、もし彼が自分の罪を悔い改め、公義と正義とを行ない、
その悪者が質物を返し、かすめた物を償い、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。
彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公義と正義とを行なった彼は必ず生きる。」(エゼキエル33章12-16)と伝えるように告げられています。

神のことばを伝える者は、神の尽きない慈しみと、罪の影響とその結果が滅びをもたらすことを警告し、一人一人が罪の悔い改めと神のことばに従い、神の救いを選びとりそれを行うものに変えられ、神の約束を誰でもが資格を問わず受け取ることができることを伝えなければなりません。


神は一人一人の選択を尊重され、神のことばを聞いて、神の救いにすべての人があずかることを願われています。

しかし、神の御言葉を聞いても、その御言葉を実行する人とならなければ、神のことばは、わたしたちの人生にとって何の意味もありません。
多くの人々が御ことばを聞いても罪の束縛から解放されず人生を滅亡に向かって歩み続けます。それは、御ことばを聞いても、御ことばを本当に信じず実際の自分の生活のなかに御ことばを生かすことをしないためです。 

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ書1章22)

この箇所で神はエゼキエルをとおして、神のことばを聞くことにどんなに熱心であっても、その御ことばを聞いて実行しなければ自分自身を欺いているのだ、と警告しています。

新約聖書のヤコブ書では「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ書2章14-17)と述べています。

御ことばを聞いてもそれを実行しなければ、御ことばを信じていることにはなりません。

「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ書2章26)

イエスは、「 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ福音書7章21-27)と言っておられます。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」(ヤコブ書1章5-8)

わたしたちは、これらの警告を真剣に受け止め、イエスが主であり、わたしたちを贖い、新しい命を与えられているという信仰によって行うものとなることが求められています。


多くの人が神のみことばが何と言っているのか知りたいという思いを持ち、御言葉によって人生の指針を得ようとします。しかし、自分の利得を優先し、自分に都合の良いことばだけを聞こうとする人は、真理のことばを受け入れることはありません。

真理のことばを受け入れようとしない人々に真理を伝えても所詮は無駄なことのように思えますが、神は人々がみことばを聞き入れようが、聞き入れまいが真理のことばを伝え続けるように言われています。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(第二テモテへの手紙4章2-4)

多くの人々が自分の思い通りの状況になることを願い、神が言われていることが自分勝手な思いを認めてくれるかどうかを知ろうとし、神のことばを聞こうとします。
このような態度で神のことばを聞く人々は、自分の都合に合ったことが語られないと、さらに、御ことばを聞きますが神のことばを信じて行うことはありません。

聖書は、神の言葉を聞いてそれに同意することより、神の言葉を信じて行う者が、神の国を継ぐ者とされると宣言しています。イエスの話された譬えはこのことを次のように教えています。 

「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。
それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」(マタイ福音書21章28-31節前半)

エレミアもエゼキエルと同様に神のことばを聞いて行うものへと変えられることの大切さについて、「 私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです。」(エレミア書42章8)と言ってエレミアのもとへ神のことばを聞きに来たのに、結局はそのことばを聞いても行動を起こさず滅びに至った人々のことを述べています。

神の真実に信頼し、神のことばの確かさによって、イエスキリストの贖いと復活によって成してくださった神の救いを受け取るとき、わたしたちは聖霊の導きのなかに新しい歩みをはじめます。

イエスを主として、信仰による新しい人生の歩みをはじめ、生き方が変えられるとき自分自身の思惑や懸念を超えて神はわたしたちの必要のすべてを備えてくださいます。 

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ福音書6章31-34)



 
エゼキエル書のメッセージ


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