神の警告を伝える

(エゼキエル書3章10-11、18)


神は、バビロニア帝国のネブカデネザル王がユダ王国に2度目に侵攻したとき(紀元前597年)、他の多くの同胞のイスラエルの民とともにバビロニアに捕囚となった人々のなかから、神の警告のことばをユダヤの民に伝える器としてエゼキエルを選ばれました。

エゼキエルは、おそらく30歳の頃に、捕囚となった民が集められたケバル河の辺(ほとり)で栄光の主の幻を見(紀元前593年頃)、神からのことばをエルサレムの民と捕囚となった同胞に伝えました。

エゼキエルにあらわれた栄光の神は、「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる。』と言え。
彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。
人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。
彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。
人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」(エゼキエル書2章4-8)と、言われました。

エゼキエルを遣わされた神からの召命は、背きと反逆のイスラエルの民にたいして彼らが神のことばを聞いても、聞かなくても神のことばを告げ、神からの警告を伝えるということでした。

バビロニアに捕囚となったイスラエルの民が、神に背き神を否定するときにも、神はエゼキエルをとおして警告をし続け、ご自身の真実を伝え続けられました。

背く民に警告を与えられ続けられること自体、、神の民にたいする慈しみが尽きないもの、神が変わらない真実の方であることを証ししています。


神はわたしたちが神のことばを聞いて、神の救い、イエスを信じ キリストの肢体の一部として 役割を担い夫々の場所で遣わされることを、願われています。
 
すべての人が同じ役割を担ってはいませんが、わたしたちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っており、それを用いるように遣わされています。
わたしたちが与えられた賜物にしたがって遣わされるときの原則をエゼキエルにたいする神の召命をとおして見ることができます。
そのときの最も基本的で大切な原則は、神が遣わされるということです。
神は遣わされていない者にはそれを成し遂げる賜物も与えられないからです。 
エゼキエルは、栄光の神を見、その圧倒的な幻に打ち倒され、語られる声を聞いて神からの警告を民が聞いても聞かなくても告げるように遣わされました。
神からの賜物にしたがって、遣わされるときのわたしたちの動機は人々への思いやり、同情、慈しみでなければなりません。

神のことばを警告として民に述べ伝える前に、エゼキエルは民と共に、捕囚となった民が集められていたその同じ場所で時を過ごし、ケバル河のほとりに共に座り、罪のもたらす影響と痛み、悲しみ、彼らの体験を黙って聞き、共有しました。

「彼らが住んでいるその所で、七日間、ぼう然として、彼らの中にとどまっていた。 」  (3章15)

使徒パウロは、御ことばを伝えるわたしたちの動機について述べています。

「私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。
私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。
もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」(第二コリント人への手紙5章9-14)

わたしたちが遣わされるのは、キリストの愛がわたしたちを取り囲むからです。


神から遣わされることは、しばしば失望と無力さを体験します。神のことばを告げたとしても、人々はそのことばを常に受け入れるとは限らず、必ずしも警告する者の期待するような成果は保証されないからです。         
神は、神のことばを伝え、悪にたいする警告を与える者にたいして、聞く者が警告を受け入れても受け入れなくても、変わらない真実を偽りなく伝えることを求めておられます。
「彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる。』と彼らに言え。」(エゼキエル書3章11)

神の真実さを証しするとき、同じことばに、或る人々は、神の真実さに心を打たれ、或る人々は、神のことばを真っ向から否定し、神のことばを語る人への人格的な攻撃さえ加えます。
誰でも人格的な攻撃を受けたり、誹謗されることを避けたいと思いますが、わたしたちは、自分で伝えることを選ぶのではなく主から受けたことを人々に伝え、(第一コリント11章23参照)その成果は主が決められることなのです。

何故或る人々は神のことばを聞いても、それを否定し神のことばとして受け入れないのでしようか。
第一には、残念ながら御ことばを伝える人々が神のことばとして記されている聖書を、神のことばとして全面的に信頼せず、理性的な観察によっては理解できないことを、神話や教えとして理解し、聖書が歴史的な事実をすべて神の霊感によって書かれているということを否定することが理由です。
さらに、第二には、聖書の述べられている神のことばを、人々は自分たちにとって都合のよい部分だけを聞こうとし、神のことばを述べる者も、耳障りのよい世間話、人情話、心理学的な人の思いに妥協して神のことばを伝えることが大きな理由です。

「 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(第二テモテ4章2-4)

神はエゼキエルに「恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。」(エゼキエル書2章6-7)と言われています。


神は、偽預言者たちが民に耳障りのよいことばばかりを伝え、民を惑わし、滅びに至らせる誤ちを厳しく戒められ、民を滅びに至らせた血の責任を警告者自身に問うと言われています。

「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。
わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。もし、正しい人がその正しい行ないをやめて、不正を行なうなら、わたしは彼の前につまずきを置く。彼は死ななければならない。それはあなたが彼に警告を与えなかったので、彼は自分の罪のために死に、彼が行なった正しい行ないも覚えられないのである。わたしは、彼の血の責任をあなたに問う。しかし、もしあなたが正しい人に罪を犯さないように警告を与えて、彼が罪を犯さないようになれば、彼は警告を受けたのであるから、彼は生きながらえ、あなたも自分のいのちを救うことになる。」(エゼキエル書3章17-21)

神のことば、警告を伝える者は、神の尽きない慈しみを否定し続ける者が神の国を継ぐことができず、罪の影響と結果が滅びをもたらすことをも伝えなければなりません。
神のことばは、神の国を継ぐことのできない者について明確に次ぎのように述べています。  

「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(第一コリント人への手紙6章9-10)

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』
すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』
また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。』」(黙示録21章1-9) 

神に遣わされたエゼキエルに課せられたのは、神が真実に民に語られていることを人々が聞いて受け入れようが受け入れまいが、述べ続けることでした。

神は、わたしたちにも、御ことばを伝え、神の変わらない愛、神の尽きない慈しみを伝えることを願われています。
同時に、罪の影響と結果の悲惨さ、悪が必ず滅び、神は悪者の滅びを喜ばれていない、という神の警告と真実を偽りなく人生で接する人々に証しするように遣わされています。



 
エゼキエル書のメッセージ


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