必ず成就することば

(エゼキエル書24章14)


バビロニア帝国に攻められ紀元前606年にはユダ王国の王族や貴族が捕囚となり、紀元前597年には2度目のエルサレム侵攻によってエゼキエルや他の多くのユダヤの民が、バビロニアに捕囚となりました。バビロニアの傀儡政権となったユダ王国の最後の王ゼデキアは、隣国エジプトの王、パロ、ホフラとの密約によって、バビロニアから独立をするための画策をし、反抗を試みました。

このような状態のなかで、エルサレムから約650キロ離れたバビロニアの地で捕囚となっているエゼキエルに、神から、ゼデキア王の治世、第九年の第十の月の十日の日にバビロニアの大軍によって街が包囲され、エルサレムは完全に滅びが来ることが告げられました。

エゼキエルは、他の捕囚となったユダヤ人と共にケバル河のほとりに集められ、そこで神から告げられたことばを人々に伝えました。
ケバル河畔で、バビロニア帝國の侵攻とエルサレム包囲の日付を告げたときからほどなく、予告されたとおりの年月日に一日の狂いもなくエルサレムはバビロニアの軍によって、街は蟻の這い出る隙もない大軍に包囲され、エルサレムは滅びを迎えました。

神がエゼキエルをとおして予告されたことばは、違いなく歴史的な事実として成就しましたが、予告されたことばが一日の狂いもなく起こり、バビロニア軍の包囲がはじまったことは驚くべきことです。

エゼキエルは、バビロニア軍がエルサレムをどのように包囲し、人々が悲惨な状態に追い込まれ、神殿も城壁も焼かれ、残るもののない廃墟となってゆくことについても、詳細な預言をしています。

バビロニアのユダ王国への三度目の侵攻によって、蟻の這い出る隙なくエルサレムの城壁は包囲され、街は食糧が欠乏し、飢餓や疫病によって多くの民が悲惨な死を迎えました。
この日から2年後の紀元前586年、ゼデキア王の治世第十一年に神殿は焼失し、街は廃墟と化し、逃亡を企てたゼデキアとその家族は捉えられ、リブラにいるバビロンの王のところへ連れられ、ゼデキヤの子らは彼の目の前で虐殺され、ゼデキヤは両目をえぐり出され、青銅の足かせにつながれ、バビロンへ連れて行かれました。こうして王国は滅亡に至り、エゼキエルをとおして預言された神のことばは成就しました。

神が言われることばは、これから先に起こることについても必ず文字通り一部の狂いなく成就するでしょう。


聖書のことばが神ご自身の語られたことばであり、はじめから終わりに至るまですべてを知られ、時と空間を超越される方が語られていることは一つも違わず成就します。

イスラエル統一王国の王として父ダビデから王位を継いだソロモンも、父の意志を継いで神殿を完成させ、神殿を神に奉献するとき、イスラエルの全会衆のまえで、神が約束され、語られたことを成し遂げられる方であり、神の約束が一つも違わなかったことを宣言しています。

神の語られたことが何一つ違わず成就するということは、神のことばに信頼する人々にとっては喜びの希望が与えられ、自分自身を中心に生き、神の語られたことに心を留めない人々にとっては滅びを予告する恐ろしいことばとなります。
そして、このことは、わたしたちが神のことばに信頼するか、自分の肉の思い、自分のプライドによって生きるかという二つに一つの選択を常に迫られていることを意味しています。

神のことばに信頼する選びは明らかに命にいたる道であり、それ以外の選びは死に至る道です。 

神のことばが必ず成就することについて、聖書はわたしたちが、神のことばに信頼し、永久に変わることのない永遠のいのちの約束を得る者となるように勧め、滅びにいたるものを捨てるように警告をしています。

「 悪者どもは、よみに帰って行く。神を忘れたあらゆる国々も。」(詩篇9章17)

イエスは他の誰よりも地獄について述べられています。それは、イエスが他の誰よりも地獄の悲惨さを知っておられ、わたしたちをつまずかせ、滅びに至らせるものを振り捨てることの重大さ、緊急さを知っておられるからです。
イエスは何度も、「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」(マルコ福音書9章45)と、警告されています。 

神が一人一人の人生を裁かれ、悲惨な地獄が存在するという神のことば、警告を多くの人々が心に留めようとしません。
しかし、神のことば、イエスの警告には偽りがありません。

「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」(民数記23章19)

聖書は、至るところでわたしたちが神のことばを真剣に受け止めることの重要さを宣言しています。
「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ書40章8)

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ福音書24章35)

使徒パウロは、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づいて使徒とされた、(テトス書1章2 参照)と述べています。

エゼキエルは、神殿が焼失し、街は廃墟と化し、イスラエルの民が世界に流浪の民となっても、後の時代に再び国として復活し、建て直され、荒れ果てていた所に木が植えられ、世界に離散したユダヤ人が再び集めらることも預言として述べています。

「神である主はこう仰せられる。わたしが、あなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人が住めるようにし、廃墟を建て直す。
この荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒地とみなされていたが、耕されるようになる。
このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった。』と。 
あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行なう。」(エゼキエル書36章33-36)

このエゼキエルの預言は紀元前587年頃、二千六百年近く前に述べられています。今から100年前までは荒れ果て廃墟となっていたエルサレムに対する預言です。
この預言は長い間、実現することのない過ぎ去ってしまったことばとして多くの人々に忘れられてきましたが、1948年にイスラエルが独立を認められ、現在のイスラエル、エルサレムの地を見るとき、廃墟となっていたエルサレムには人が住み、荒れ果てていた所に木が植えられ、有数のヨーロッパへの果物の産出国にイスラエルが変貌していることを見ても、預言が現実のものとなっていることに驚かされます。 


神は、預言のことばをとおして、それが成就するとき、神が主であることを知ることになると宣言されています。
しかし神は、わたしたちが預言の成就する前に神のことばに信頼し、永遠のいのちの希望を抱いて人生を歩む者となることを求めておられます。

神のことばには、素晴らしい約束が述べられています。

「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ福音書3章13-16) 

神のことばは、イエスを信じ、人生の歩みにイエスが共に歩まれるという道を選び、勝利を得る者にたいして、想像を超えた希望と約束を与えています。

「わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」(黙示録2章7)

「決して第二の死によってそこなわれることはない。」(黙示録2章11)

「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」(黙示録2章17)

「 最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。」(黙示録2章25)

「汚れのない白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。」(黙示録3章5)

「わたしの神の聖所の柱としよう。」(黙示録3章12)

「わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示録3章21)

ダニエルも預言のなかで、永遠のいのちを選ぶ者について、
「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」(ダニエル書12章2-3)と預言しています。

イエスは、イエスに従い、永遠のいのちを受けるために、弟子たちに、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ福音書16章24)と、言われています。

イエスに従い勝利を得る者に対する約束の素晴らしい預言、神のことばは必ず成就します。 

また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(黙示録21章6-7)

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 
御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」(黙示録22章1-7)

神のことば、イエスに従い勝利を得る者に対する約束が成就し、神が主であることを知るときは迫っています。
神のことば、預言のことばに信頼し、それが実現する喜びを自分のものとすることが出来るのは、今、という時です。



 
エゼキエル書のメッセージ


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