新しい心、新しい霊

(エゼキエル書18章30-32)


神は、バビロニア帝国を ユダ王国の背きを裁かれる器として使われ、民がバビロニアへ捕囚として捕らえ移され、神殿も焼失し、エルサレムが廃墟となり、国が滅び、七十年の期間は捕囚の状態が続くことをエゼキエルだけでなく、エルサレムに残っているエレミアをとおしても預言されました。

ユダ王国は、ネブカデネザルの率いるバビロニア軍に攻められ、紀元前606年には王エコンヤをはじめ王族や貴族が捕囚となり、紀元前597年にはバビロニア軍の2度目のエルサレム侵攻によってエゼキエルや他の多くのユダヤの民が、バビロニアに捕囚となりました。
このような状況の中でバビロニアの傀儡政権、バビロニアのネブカデネザルによってユダ王国の王位を継いだユダ王国の最後の王ゼデキアは、隣国エジプトとの密約によって、バビロニアから独立しようと反抗を試みました。

国がバビロニア帝国とエジプト王国の強国に挟まれ、多くの民がすでにバビロニアに捕囚となり、エレサレムの街は衰退の一途をたどるという状態に陥ってゆくなかで、民は、エルサレムに残っている人々も、捕囚となった人々も、惨めな状態になったのは自分たちの親や先祖の責任で、自分たちに先祖の悪行の報いが及んでいるのだという風潮が広まり「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。」という格言が広まりました。 

わたしたちは、問題や失敗について、自分に責任があることをなかなか認めようとはしません。
わたしたちも「親の因果が子に報い」という諺を聞くことがありますが、問題や困難な状況に陥った責任は自分ではなく、自分以外の人たち、親たちや、環境、ひいては、それぞれの状況や環境が生まれたときから異なっているのは神が不公平なのだ、神が公平ならば何故悲惨な状況がひきおこされるのだと主張します。

神は、イスラエルの民の、このような態度にたいして「すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯す者は、その者が死ぬ。しかし、公義と正義とを行ない、正しい人は、必ず生きる。しかし、無法の者で、人の血を流し 乏しい者や貧しい者をしいたげ偶像を仰ぎ見て、忌みきらうべきことをする者は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する。」(エゼキエル書18章5-13参照)と答えられ、すべての人が自分自身の罪の責任を問われると宣言されています。


神は、この世で問題や困難が引き起こされるのは、人の魂が罪を犯すことに原因があり、一人一人にその責任を問うと言われています。

わたしたちは誰一人としてそのままでは、神の前で完全な者とは看做されません。

わたしたちの心は、そのままでは堪え難く病んでおり、悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは人の心から出て来るからです。(マタイ福音書15章19参照)
目にみえるかたちで、貪欲であったり、偽りを隠蔽したり、姦淫や殺人の罪を犯さなくとも、わたしたちのうちには、そのような性質が根深く存在しています。
わたしたちは、罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。
わたしたちは、外側から目に見えるものに頼り、人に信頼するとしばしば裏切られます。人は自分の心の底にある思い、損得勘定を隠す偽善に満ちています。

人の罪の性質は、自分の喜びのために人生を送ろうという心の思いを持っており、人を創造された神の喜びのために人生を送りたいという思いを持っていません。

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。 わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」(エレミア書17章9-10)と、神は言われています。


イスラエルの民は、「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。」と言って、自分たちが捕囚となり、国が滅亡寸前となったことは自分の責任ではないという傲慢で頑固な態度をとっていました。

自分には責任がないという態度をとり続けるかぎり神に対する背きに気付くこともなく、罪を悔い改めることはあり得ません。

神は、イスラエルの民にたいして、「背きの罪を悔い改めなさい。」と言われています。  

わたしたちが問題の責任を親や他に転嫁せずに、まず神にたいして自分自身が犯した背きの罪を悔い改めることによって、神はわたしたちのうちに新しい心と新しい霊を生まれさせ、働かれると言われています。

罪の結果は必ず自分自身だけでなくその周囲の人々をも巻き込み、その結果被害を受ける人々を傷つけます。罪を犯すことは、それだけではなく本質的にはわたしたちの心の状態が修復不能な神に対する背きを犯していることに気付く必要があります。

偶像礼拝、不品行、貪欲や、姦淫や殺人が人に対する罪である以上に、罪を犯す者の心の状態が神にたいして重大な背きを犯していることに気付き、そのような心の状態、神への背きを心を砕いて悔い改めることが求められているのです。

神は、問題や困難な状態に陥ったのは自分たちの責任ではない、親達や他の状況によってすべての悲惨な状況が引き起こされたのだ、と言っているイスラエルの民に「背きの罪から離れ、悪によって命の滅びに引き込まれないように」と警告され、さらに、「あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。」(エゼキエル書18章30-31)と、すべての人が新しい命を得ることを願われています。

わたしたちの人生を滅ぼすものを放り出せと言われていますが、これは炭火を手に掴んだときのように一刻も早く手からそれを放り出せという緊急事態であることを意味します。

神は、わたしたちが、背きの罪を犯していることに気付き、今すぐに罪を振り捨て、新しい心と新しい霊とを得ることを懇願されています。

「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6章2)

神はわたしたち一人一人に選び取ることの出来る意志と能力を与えられています。
わたしたちに与えられた意志、選択する自由を、神は奪われたり 強制されることはありません。
自分自身が犯した神にたいする背きの罪を悔い改め、神にたいするとがを捨て去るのは、わたしたちが一人一人選択し、決めることです。

わたしたちは、人生の歩みで自分の努力や決心だけではとても解決のできない問題や、どんなに決心をしても改革のできない心の状態に気付かされます。
しかし、神は、わたしたちが犯した神にたいする背きの罪を悔い改め、神にたいする背きを捨て去ろうと決断したとき、新しい心と新しい霊を与えられ、わたしたちを内側から変えられ、問題を解決するために必要な力を与えてくださいます。

イエスは、「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20)と、言われています。

神は、わたしたちを強制されません。わたしたちが心の戸を開いて神にたいする背きの罪を悔い改め、神にたいするとがを捨て去ろうと決意するとき、わたしたちの心のうちではたらきはじめてくださいます。  


神は、「なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」という問いかけをされています。(エゼキエル書18章31)
この神の問いかけは、霊の死を意味しています。
神から引き離されることが霊の死であり、霊の死は罪によってもたらされます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ福音書3章16)
イエスは、霊のいのちについて述べられておられ、わたしたちが新しく生まれ滅びることのない霊のいのちを持ち神の国に入ることが出来ると言われています。

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ福音書3章3)
神が生きよ、と言われている呼びかけに答え、わたしたちが永遠のいのちを得るためには、新しい心、新しい霊によって生まれなければなりません。
人がこの世に生まれても、新しく生まれなければ、肉体が滅び死んだ後で、霊の死、永遠に神から引き離される別離を経験することになります。

さらに神は、「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。だから、悔い改めて、生きよ。」(エゼキエル書18章31)と、願われています。  

わたしたち一人一人が自分の人生の選択に責任を負わねばなりません。
「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。」という心の態度を改め、背きの罪を捨て去り、新しい心、新しい霊によって永遠に生きるものとなるのは、あなた自身の選択です。 

「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」
(エゼキエル書18章20) 

わたしたちが神の御前に立つとき、神はわたしたちの人生の歩みにおける心の動機と行い、あなたの選択の責任をひとりひとりに問われます。



 
エゼキエル書のメッセージ


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