偽りの希望

(エゼキエル書13章10-14)


ユダ王国の末期、エルサレムはネブカデネザルの率いるバビロニア軍に攻められ、紀元前606年にはユダ王国の王エコンヤをはじめ王族や貴族が捕囚となり、紀元前597年にはバビロニア軍の2度目のエルサレム侵攻によってエゼキエルや他の多くのユダヤの人々が、バビロニアに捕囚となり、捕囚となった民がケバル河の辺(ほとり)に集められました。

この間にネブカデネザルによってユダ王国の王位を継いだゼデキアは、バビロニアから独立しようと反抗をしたため、エルサレムは再びバビロニアの軍隊に包囲され、街は食糧が欠乏し、人々は飢餓や疫病によって悩まされるという状態でした。

そのような状態の中でも預言者、占い師、夢見る者、卜者、呪術者が多く出現し、「バビロンの王に仕えることはない、イスラエルの神、万軍の主は、バビロンの王のくびきを打ち砕く。バビロンの王ネブカデネザルが略奪した神殿のすべての器がエルサレムに戻り、バビロンに行った、ユダの王エコヌヤと、ユダのすべての捕囚の民も、ユダ王国の都に帰って来る。」と言って、エルサレムに残る民とすでに捕囚となった人々に安易な期待と希望を抱かせました。

神は、バビロニア帝国を ユダ王国の背きを裁かれる器として使われ、国が滅び、神殿も焼失し、エルサレムが廃墟となり、人々は七十年の期間捕囚となることをエゼキエルだけでなく、エルサレムに残っているエレミアをとおしても預言されました。

そして、平安などないのに口先で直ぐにでもバビロニアの軍が去って平和が来る、と言っている人々に対して、「あなたがたは、安易に傷を癒そうとして『平安、平安』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。役にも立たない偽りのことばにたよってはならない。」と述べ、人々に警告を与えられました。

それにも拘わらず多くの人々は、神のことば、警告よりも、偽預言者、占い師、卜者、呪術者の「平安、平和」という耳障りの良い偽りのことばに耳を傾けました。

神からの預言と偽の預言が錯綜するなかで、エルサレムで自分の利得だけを考え、他人を平気で傷つけながら、安易にバビロニアの軍が退却し 王国の安全が再び回復されると言っている偽預言者たちにたいして、エゼキエルは、このような偽預言者たちが言っている言葉が何も役に立たない安全を人々に約束し、それは水増しした漆くいで上塗りしているように、嵐や敵が来るとき耐えることができずに崩れる壁で塀をめぐらすようなものであると述べ、これらの偽預言者のことばに耳を傾けることの危険を警告しています。 


人々は、歴史をとおして神の警告や滅びの危険、罪の悲惨な結果についての警告よりも安易な励ましと偽りの希望に耳を傾けるという誤りを繰り返し犯してきました。

イエスは、十字架に架かられる直前、オリ-ブ山の上から神殿の丘を眺め、ゼルバベルやネヘミアが再建し後代のヘロデが46年の歳月をかけて改築した黄金に輝く神殿が「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してない。」と預言され、弟子たちの質問に答えて、「終わりの日のしるしとしてにせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わす。」ということを述べられました。

偽預言者たちは、偽りの希望を人々に約束し、滅びの危険や悲惨な結果を招く警告よりも、偽りの希望を安易に述べ、強度のない水の漆くいで上塗りされた心の壁を築いてきました。
人々は本当の警告を聞いて生ける神に立ち返ることよりも将来の不安に対して安易な慰めや励ましの偽りのことばに頼ろうとしてきました。

偽りの希望を与える安易な慰めや励ましのメッセージには、
「神のことばにそれほど忠実に耳を傾けなくとも道徳的で良い態度をもって人々に接し、人生を送ればすべての人が天国にゆくことが出来る。」
「神は所詮人の理解を超えて人からは遠く離れており、宗教的であればどんな宗教でも神は人を省みられる。」
「自分を信じ、心を強くもって人生を送れば人生の成功者となれる。」
「すべての物事を人の知識のみによって理解し、科学的に理解できることがすべてと言いながら、進化論を前提にすべてが進化の過程であることを主張し、ついに人は神のようにさえなれる。」という類のメッセージです。

これらの人の思いに妥協するメッセージは、人々の心に一見励ましと希望を与え、人生に安全な心の防御を与え、頼れる壁を築くかのように思えます。

人を中心にした道徳的偽善や、霊的な偽善、自己満足や進化論などと妥協するメッセージは、一見肯定的に思え、夢を持てばすべてが可能のように見え、目標を立ててそれに努力して向かえば成功を手に入れることができ、人生の根本的な問題である罪や死の問題に目をそむけ、将来にたいする希望を与えてくれるもののように思えます。 

しかし、わたしたちに希望を与えてくれるように思えるこれらの安易なメッセージは、永遠の命の真の希望を与えるメッセージとはなりません。

「 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」(マタイ福音書16章26-27)

偽りの希望を与えるメッセージは、人生の嵐や試練が来るときにわたしたちの人生の将来と安全を保証し、防御となる壁とはなりません。  

偽りの希望によって未来の安全と保証となる心の壁を築き、その壁に頼る者は、人生の嵐に直面するとき充分な強度を持っておらず、水増しされた漆くいで上塗りされた壁のように、敵や災害が到来するとき耐えることができず、崩れ去ります。


エルサレムがバビロニアの大軍に包囲され人々の糧食が尽きたなかで、安易な励ましと偽りの希望を述べる偽の女預言者、女呪術者が、ひとつかみの大麦のため、少しばかりのパンのために、人々をまやかし、まやかしに聞き従う民たちを死なせ、民のうちで生ける神を汚したと、この箇所で、述べられています。(エゼキエル書13章17-21参照)

偽りの希望を述べ、安易な励ましをする偽預言者たちは、偽りの希望によって偽りの未来の安全と保証を人々に与え、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、神を否定するようなことをするだけでなく作り事のことばをもって人々を食い物にします。(第二ペテロの手紙2章1-2参照)

偽りの希望を述べる偽預言者たちの本当の目的は自分たちの懐を肥やすことにあります。

エルサレムが大軍に取り囲まれ、食糧に欠き、人々が飢えをしのぎながら残された僅かなパンと大麦によって生き延びようとしているとき、偽預言者、女呪術者は、それらのひとつかみの大麦、少しばかりのパンを人々から巻き上げ、民たちを死なせました。

これと同じように、現代でも安易な励ましと偽りの希望を与える偽預言者たちは、どんなに事態が逼迫し、人々の経済状態が悪化しているときも高い料金をとって金を巻き上げ人々を余計苦境に追い込みます。
 
彼らは、神の尽きない慈しみを否定し続ける者が神の国を継ぐことができず、罪の影響と結果が滅びをもたらすという警告をすることはありません。
彼らは、わたしたちが自己満足を得られるための方法や、自分自身の価値をどのように高めればよいのかといった自己中心の成功物語にわたしたちの目をそらさせます。

わたしたちが滅びから免れ、神の前で義とされ永遠のいのちを得ることができるのは、イエスキリストが十字架の上でわたしたちの罪の贖いを完成され復活によって永遠の命を与えられたことに信頼し、神に自分が罪びとであることを告白し、悔い改め、神の差し伸べられた恵みと救いを受け入れ、イエスキリストを主として人生を歩む唯一の道しかありません。

罪の影響と結果が滅びをもたらすことにはならないという安易な励ましと希望は、偽りの希望であり人生の嵐を乗り越えるものとはなりません。


神は、安易な励ましと希望を与える偽預言者にたいして厳しい警告をされています。

偽りの希望を述べ安易な励ましをする者たちは、昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考え、彼らは、しみや傷のようなもので、自分たちのだましごとを楽しみ、その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。(第二ペテロの手紙2章13-14参照)

彼らはのろいの子であり、用意されているものは、まっ暗なやみと永遠の火の池であることが宣告されています。(黙示録20章15参照)

「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」(マタイ福音書7章15)

神は罪や不義を裁かれない、罪や不義のうちに人生を歩んでも慰めや力づけが与えられるというようなメッセージ、神がわたしたちからの金銭的な寄付を必要としているというようなメッセージ、聖書のことばだけでは人を救うことが出来ないといって聖書に付け足したり、差し引いて勝手に御ことばを思いのままに引用したり、イエスキリスト以外によって天国に行ける、永遠の命を得ることができると思わせるようなメッセージは、すべて偽りの希望を与えるものです。

このような偽りのことばに信頼することは、強度のない水の漆くいで上塗りされた心の壁を築いているのと同様で、敵の攻撃と嵐に対抗することはできません。 

イエスが述べられた「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ福音書24-27)という警告に、わたしたちはもう一度耳を傾ける必要があります。



 
エゼキエル書のメッセージ


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