神の業を行う

(エズラ書6章14)


聖書の御言葉をとおして、一つの書物だけでなく、記された時代も置かれた境遇も異なる人々によって記されているにも拘わらず、神のご計画、目的が一貫していることに驚かされます。

神は、人々が偶像を拝むことについて、厳しい警告を与えておられます。

エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民が解放され、約束の地に向かうときにも、神は「あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。」と言われ、神の戒め、掟を守り行う者への祝福と、神から離れる者への警告をされています。

神は、イスラエルの民に、彼らが神との関係から離れ、偶像を拝み、神に反抗して歩むときに敵の剣を臨ませ、町々は敵の手におち、その地は荒れ果てるという警告を最初から与えられ、神の警告に耳を傾けないときに起こるあらゆる災害をはっきりと預言されています。(レビ記26章参照)


歴代誌の記述からも、それぞれの世代が、神に従順であるときに祝福を受け、神から離れ、邪悪であるときにその罰と裁きを受けることをみました。

イスラエルの王の歴史をとおして、最も優れた王の場合でも、人としての欠点、罪の故に神の祝福を余すところなく受けることができず、神との契約から離れたイスラエル、ユダ王国が滅亡し、エルサレムと神殿が崩壊してゆくことが、王国の歴史の記述として描かれています。

神は罪を嫌われ、罪と妥協されません。しかし、へりくだって悔い改め、心を主に向かって祈る者を赦し、回復したいと願われています。
神は、王や民が主に向かって叫ぶと、その叫び、祈りに答えられました。

神はイスラエルの民との契約を覚え、神の安息のなかにある交わりと信頼を望まれ、イスラエルの民が国としての体裁を整える以前からモーセをとおして律法を与えられました。

そして、律法には六年間の土地の耕作の後には、一年の土地の安息が命じられていました。
しかし、イスラエルの民は、約束の地に住み貪欲に土地からの作物を収穫するためにサウロが王となった紀元前千七十六年から、紀元前五百八十六年のバビロン捕囚に至るまで四百九十年間一度も土地を休ませることをしませんでした。
ユダ王国の末期に、神から離れるときに、滅亡が訪れることを警告し続けた預言者エレミアは、ユダ王国の滅亡を宣告し、王国の民の捕囚の期間が七十年にわたり、その後解放され民がエルサレムへの帰還をすることを預言しました。

この七十年という期間は、イスラエルの民が、モーセの律法に従って王国となってから土地を休ませなかった七年に一度の安息期間の合計(490年÷7=70年)に丁度該当しています。

エレミアの預言は、バビロンに捕囚となりペルシアの王にも仕えたダニエルによっても確認されています。

イザヤは、バビロニア帝国を征服する国がミード・ペルシャ帝国であり、その王がクロスという名であり、クロス王によってイスラエルの民が捕囚から解放されることを、それが現実となる百五十年以上も前に、預言しています。

「ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。
淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす。』と言う。
わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる。』と言う。」(イザヤ書44章27-28) 

「主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。『わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。
わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。 わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。』」(イザヤ書45章1-3)


イスラエルの民にたいする、これら様々な警告、預言は歴史上、現実に狂いなく実現し、イザヤによって預言されたように、ペルシアのクロス王の故郷への帰還を許す勅令が出され、ゼルバベルに率いられ約五万人のイスラエルの民が最初にエルサレムへ戻り、神殿を再建することに取り掛かりました。 

七十年の捕囚の期間に生まれ、神殿のことを聞かされていても故郷エルサレムを実際に見たことのなかった人々は、帰還後、荒廃しているエルサレムの地を目の当たりにし、驚きと神殿再建の計画の困難さを改めて実感したことでしょう。

神殿再建という目標は、彼らにとってエルサレムに帰還することの最も重要な優先課題でした。しかし、この目標は、思ったより時間も労力もかかるものでした。
さらに、ユダヤ人を待ち受けていたのは、彼らが七十年間捕囚となっていた間にその地に住み着いていた他国からの異邦の民でした。
この異邦の民は、その地に住み着いているあいだに、イスラエルのヤーウェの神の礼拝方法を聞きかじり、他国の偶像の神々とともに、ヤーウェの神をも礼拝するという、まさにイスラエル王国、ユダ王国が生ける神から離れ滅亡を招いたと同様の方法でヤーウェの神と偶像を礼拝している人々でした。彼らは、帰還したユダヤ人の神殿再建計画を知り、自分たちもその計画に参加することを申し出ました。


民の指導者ゼルバベルと祭司ヨシュアは、この異邦の民の申し出を断りました。そのために、彼らは、その地の有力な役人を買収して、ユダヤ人の神殿建設を激しく妨害しました。

そして、彼らは、ペルシアのアハシュエロスの治世の初めに、ユダとエルサレムの住民を非難し、「こちらに来たユダヤ人たちはエルサレムに行き、あの反抗的で危険な町を再建しています。その城壁を修復し、その礎もすでに据えられています。
今、王にお知らせいたします。もしこの町が再建され、城壁が修復されたら、彼らはみつぎ、関税、税金を納めなくなるでしょう。そうすれば、王の収入に損害を与えることになりましょう。」(エズラ書4章 参照)という告訴状を王に書き送りました。

この中傷は、彼ら異邦人たちにとって功を奏し、ペルシアの王によって工事を中止する命令がだされ、ペルシアの王がダリヨスに代わるまでの約十六年間の間、神殿再建は途絶えてしまいました。


優先課題である神殿再建の目標を妨害、中断させられたユダヤ人たちは、ひどく失望し、自分たちの家を建てたり、修復することに関心を移し、そのことが、神殿の再建よりも優先課題となってしまいました。

このような状況のなかで、預言者ハガイ、ゼカリアは、民を励ますため神の言葉を伝えました。
ハガイは、神を最優先とすることの大切さについて、自分たちの家の修復よりも、神が目を留められる神殿の再興、再建の必要を説きました。
ゼカリアは、ヤーウェの神を最優先とし、神が与えられた目標であれば、この世の権勢、自分たちの力に優って神の霊が働かれ、どのような困難な課題も克服することが出来るという幻を民に与えました。

「 ダリヨス王の第二年の第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアとに、次のような主のことばがあった。『万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。』ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。
『この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。
今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。
あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。・・万軍の主の御告げ。・・それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。』」(ハガイ書1章1-10)

「 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。
彼は私に言った。『あなたは何を見ているのか。』そこで私は答えた。『私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。
また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。』
さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。『主よ。これらは何ですか。』
私と話していた御使いが答えて言った。『あなたは、これらが何か知らないのか。』私は言った。『主よ。知りません。』
すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。
大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」(ゼカリア書4章1-7)

このような預言者たちの励ましによって、帰還した民はゼルバベルの指導のもとに再び神殿再建の目標に取り組み、神から与えられた目標を最優先として、神殿の再建を完成することができました。

わたしたちの日常の歩みにも、神を信じると言いながら、神の与えられている課題を優先しないで、自分のことが常に優先順位の第一となっていることがあります。
神は、わたしたちが神を最優先とするとき、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を与えると言われています。 

「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。
あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ書3章8-10)


神は、わたしたちが神の国と神の義を第一に求めるときにすべてのものをそれにそえて与える、と約束されています。

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ福音書6章31-34) 

わたしたちが神の業を行おうとするとき、必ず妨害と障害に出会います。
しかし、神を最優先に、共におられる神に信頼するとき、はじめた業を主が助けて下さり完成してくださいます。
 



 
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