その御名 (イザヤ書9章6-7)


神は、イスラエルの民のなかからダビデを王として立てられ、その王座が永久(とこしえ)に続く王座であることを約束されました。(第二サムエル7章12-13 参照)

イザヤは、この神の契約が変わらず、それは、油そそがれたメシアによって成就することを預言し、人々に告げました。

この箇所は、メシアが来られることをイザヤが預言している箇所ですが、この世に来られたイエスの誕生、十字架の贖い、復活によってすでに成就した預言として、しばしば理解されています。

しかし、この預言の箇所は、「 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」と続いているように、十字架の上でわたしたちの贖いをされるために来られたときのメシア預言だけではなく栄光の主、王としてイエス・キリストが再びこの世に来られる、これから先に実現する預言であることがわかります。

メシアであるイエスは、「ひとりのみどりごとしてわたしたちのために生まれ、ひとりの御子としてわたしたちに与えられる。」というこの預言は、メシアとして来られる方が人としての側面と神としての側面の両方を同時に兼ね備えてこの世に来られることを意味しています。

イエスは、ヨセフがそのいいなずけの妻とともに、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘム、ダビデの町へ住民登録のために上っていったとき、乙女マリヤから私たちと同じ人として産まれました。これが、みどりごとしてわたしたちに生まれた人としての側面です。
一方で、イエスは、神の御子として、聖霊によって乙女に宿り、永遠の神の救いのご計画のなかで人類に与えられた賜物としてこの世に来られました。これが神聖な方としてこの世に来られた神の側面です。


このイザヤの預言には、油そそがれた、すべての主権をその肩に担われるメシアの御名が、どんなに素晴らしく驚くべき御名かということが 描写されています。

メシアの御名は、天地が創造される前、はじめから父なる神とともに在った方の御名です。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネ福音書1章1-4)

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ福音書1章10-15)

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
・・このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。・・ 」(第一ヨハネの手紙1章1-2)

メシアの御名は、現在もわたしたちのために父なる神にとりなしをされ、弁護をされている素晴らしく驚くべき方の御名です。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ロマ書8章31-34) 

「キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル書7章24-25) 

そして、メシアの御名は、王の王、主の主としてやがて来られる素晴らしく驚くべき方の御名です。

「 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。 」(ピリピ書2章8-11)


メシアの御名は、素晴らしい助言、教えをわたしたちに与えられる方の御名であり、この方の助言を喜びとし、昼も夜もそのおしえを思いめぐらし口ずさむ人は、水路のそばに植えられた木のように時が来ると実がなり、その葉は枯れず、何をしても栄えることができる御名です。

この世の助言や忠告は、わたしたちの周りに溢れていますが、わたしたちに本当の喜び、繁栄をもたらす忠告はめったに存在しません。
人々は、耳障りのよい偽りの助言に耳を傾け、神の戒め、警告に耳を傾けません。そのような人々は決して成熟した人生を歩むことがなく、他を平気で傷つけ、自分勝手な歩みをし、その結果、最後には滅びに至ります。

外見は裕福に見え、何の不自由もないように思えるラオデキアの教会に助言されているのは、「豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示録3章18 参照)という忠告でした。 

メシアである驚くべき助言を与えられる方は、必ずしもわたしたちに耳障りのよい助言だけを与えられません。しかし、この方の助言は、わたしたちに本当の勝利と繁栄をもたらす、素晴らしい助言です。


わたしたちのあいだに人として生まれた神の御子メシアは、力ある神であり、永遠の父と一つの方です。

神が、父と御子と聖霊の三つにして一つの方であることについては、旧約聖書の創世記1章1節の書き出しが「はじめに神は、―――」と表現され、ヘブル語の言語では、神という単語は単数一人称ではなく複数三人称であらわされていることからも示唆されています。このことは、神が人を創造されたときも「神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。』」と、神が「わたしは(一人称単数形)―――。」と、は言われずに「われわれは(三人称複数形)―――。」というように表示されていることからもわかります。

メシアが力ある神、永遠の父の御名であることが宣言されていることは、この箇所で御子の名が栄光ある父と子と聖霊が一つであることを証ししています。


メシアの御名は、この世に文字通りの平和をもたらす平和の君の御名です。

人類の歴史を振り返って見るまでもなく、人々は争い、殺し合うことの絶えない社会で人生を過ごし、実際に戦争を経験した多くの人々は住む家を失い、着のみ着のままで食糧を探さねばならなかったり、家族を失ったりという悲惨な状態に置かれてきました。

わたしたちの間に争いや戦いが存在するのは、わたしたちのうちに、わたしたちのからだにある欲望が原因であり、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。そして、欲しいものを願うときも常に自分の快楽のために願い、肉の欲、目の欲、人にたいして自分を誇りたいために欲を出すからです。(ヤコブ書4章1-3)

イエスは、この世に来られたとき、「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」(マタイ福音書10章34)と、言われました。

イエスは、わたしたちのすべての罪(わたしたちのからだにある欲望を含めて)を贖われるために、十字架の上でわたしたちの罪の責めを負って下さり、わたしたちの罪を帳消しにし、死なれた後に復活をされ天にのぼられました。
このような、神の恵みを受け取る人々は、地上のものを思わず、天にあるものを思い、肉の欲望に捉われる古い自分を死んだものと看做す信仰によって人生を歩みます。

メシアの来臨によって、この世は剣をもって切り裂かれるように二つの異なった人生を歩む人々に分けられています。
イエスの贖いを受け入れ、信仰によって歩む人々と、福音を受け入れず、自分の肉の欲によって
人生を歩む人々は、家族であっても明らかに分けられた人生を歩みます。 

しかし、メシアがこの世の所有権を宣言され、裁きをされる時は近づいています。
この世を創造された方は、この世の所有権を宣言され、神に背くすべての者を裁かれ、背く者すべてが滅びに至ります。
このときに、この世はこの世を創造され、贖われ、本当の所有者である方のものとなり、文字通りの平和がもたらされます。
メシアの御名である平和の君が来られるときに、「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(イザヤ書2章4 参照)という預言が実現し、この世は争いのない神の国が実現し、平和の君が、ダビデの座に座られ全世界を治められます。



 
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