良い知らせ  

(イザヤ書61章1-3)


クリスマスの時期を迎えるとき、わたしたちの心はベツレヘムに降誕された神の御子キリストがこの世に来られたときのことを思います。
天地を創造された神が唯一の御子をこの世に送られることほど素晴らしい奇跡があり得るでしょうか。

神は何故唯一の御子をこの世に送られたのでしょうか。
神が御子をこの世に送られる意味について、イザヤ書のこの箇所が余すところなく述べています。

御子の誕生の時の様子について、ルカは、福音書に「羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』
すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』」(ルカ福音書2章9-14)と、記しています。

主の御使いが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちに、「恐れるな。この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と宣言しています。

イザヤの預言は、メシアである主なる神の救いが現れるとき貧しい者に良い知らせがもたらされるというものでした。

イエスはこの世に来られ、荒野で試みに会われた後にご自分が育たれたナザレの会堂で安息日にイザヤ書のこの箇所を朗読され公生涯をはじめられました。

「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。』」(ルカ福音書4章16-19)

何がイエスによって告げられた良い知らせなのでしょうか。

御子をとおしてわたしたちは、父なる神との愛の関係のなかで御子の継ぐべき永遠の命を相続することができることを知ることができます。(ヨハネ福音書3章16参照)

御子をとおして、神が、わたしたちにあるすべての罪を除かれ、わたしたちが喜びに満ちた完全な神との交わりを持って生きることができるようにご計画されていることを知ることができます。

神と被造物との完全な愛の交わりにある世界が成就するというご計画のために、神は御子をとおしてわたしたちに神の愛を示してくださいました。
わたしたちの罪を除き死を滅ぼし、わたしたちが神と共に永遠の命を得るために払い切れないほどの多額の代価として神ご自身の御子を罪のなだめの供え物としてこの世に送ってくださいました。
聖霊によって処女マリヤにみごもり、ベツレヘムの町で誕生されたイエスこそ、この神の御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つために、この世の罪をご自身の身に負われ十字架に架かられて死なれ、 黄泉に降られ復活をされた救い主キリストです。

イザヤ書の他の箇所で、この御子について、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53章6)と、預言されています 。

イエスによって告げられた良い知らせとは、神が、わたしたちを裁くためではなく救うために御子をこの世につかわされたことです。(ヨハネ福音書3章17参照)


この神からの良い知らせは、貧しい者たちに伝えられることが宣言されています。 
貧しい者たちとは、どのような人々のことを意味しているのでしょうか。 

イエスのもとに集まってきた群衆に向かって、イエスは「あなたがた貧しい人たちは幸いだ。神の国はあなたがたのものである」と語りかけられました。
これらの群衆は、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返る」という、まことに驚くべき奇跡を体験し、それを見て集まった人々でした。

わたしたちは、このような目を見張るような出来事の背後で、目に見えないところでさらに大きな奇跡、恵みの奇跡が起こっていることを見落としてはなりません。

イエスは、病気に苦しみ助けを求める人々に、何も要求されませんでした。報酬はもちろん、神の救いの力を受けるのに何か資格を求められることはありませんでした。
癒しの働きを身に受けた人々は、自分は何もしていないし、何も差し出していない、それを受ける何の資格も功績もないのに、神の力が働いて癒されるという神の一方的な恵みを体験し、それを見て集まってきた人々も、そのような恵みによらなければ、自分ではどうしようもない状況にあり、それを知っていた人々でした。

そのような群衆に向かってイエスは、「あなたがた貧しい人たちは幸いだ。」と言われました。
彼らは神の前に誇ることができる自分の持ち物は何もなく、神の恵みにすがる以外に拠り所がない人たちです。
たしかにイエスのもとに集まった「群衆」は、イスラエル社会では貧しい階層の人たちが多かったのは事実でしょう。
救い主の誕生は、はじめに野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼い達に知らされました。
羊飼いは、当時の社会で最下層の職業と看做されていました。イエスの弟子となったのも、その多くが漁師であったり、イエスによって救われた人々が社会的には嫌われ、見捨てられた人々、収税人であったり、娼婦であったり、ユダヤ人の軽蔑の的であったサマリヤ人でした。
パリサイ派の律法学者としてクリスチャンに迫害を加え、後に異邦人への福音の証として召された使徒パウロも、「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(第一コリント書1章27-28)と、述べています。

しかし、イエスが「貧しい人たち」と言われるのは、収入や資産が少なくて貧しい生活をしている階層の人たちのことではなくて、神との関わりにおいて「貧しい人たち」のことを言っておられます。
イエスがこの世に来られたのは、社会問題を解決するためではなく神と人との関わりを本来の正しい姿に引き戻して完成させるために来られました。

このイザヤ書のなかでも、「打ち砕かれた心」(六一・一)「霊の砕かれた人」(六六・二) 
さらに、詩篇でも「わたしの民」と「貧しい者」が同格に置かれています。(詩編四〇・一八)(詩編九・一三)
イスラエルの中で真に神に属する民が「貧しい者」と呼ばれています。

神の前に価値を主張する自己が徹底的に打ち砕かれて、自己がゼロであることを知った人々、神との関わりにおいて、誇るに足る価値ある物を何も持っていないことに気付いている人たちのことを聖書は「貧しい者」と言っています。

イエスがこの世に来られたのは、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ福音書2章17) と、言われているように罪人を神との関係のなかに招くためでした。

イエスが来られたのは、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。 (ルカ福音書5章41-32、マルコ福音書2章17、マタイ福音書9章13 参照)


はじめに神が人を神に似せて創造されたにもかかわらず罪によって今日に至るまで大勢の人々が心を傷つけられ、この世で生きることに希望を失ってきました。
罪の誘惑は、人に様々な素晴らしく思える約束をもちかけますが、それらの約束は結局、失望しかもたらしません。
罪は満足をもたらす約束をしますが空虚さを残します。罪は喜びを約束しますが悲しみに終わります。罪は愛を約束しますが純粋な愛ではなく単なる肉の欲情だということに気付かされます。
多くの人々の人生が罪によって破滅し、時には人生の歩みを始める機会さえ奪ってしまいます。
罪によって人々の心は傷つけられ、夢は破られ、約束は反古となります。

イエスがこの世に来られたのは、心の傷ついた者をいやすために神の御子として遣わされました。

イエスは本当の愛をわたしたちに注ぎ、破滅的な罪によって人生を破壊する力からわたしたちを解放してくださり、心の傷ついた者をいやされます。

このイザヤ書の箇所でもメシアが来られるのは、悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためであることが宣言されています。

数え切れない多くの人々の人生が罪によって灰となってしまいます。多くの若者たちが人生の目的を見失い、人生が無意味なものとあきらめ自分自身の生命さえ断っています。

生ける神、イエスの愛に目を開かれ、わたしたち人を創造された神との関係を持ち、神の言葉である聖書に耳を開かれ、目的のなかった人生に目的を見出して人生を歩む人々を見るとき、神が御子をこの世に送られ、悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えられていることを知ることができます。


今日も多くの人々が罪に捕われ、罪に束縛された人生を送っています。
皮肉なことに、罪は欺きによって一見わたしたちに自由をもたらすかのように人々を誘い、罪の束縛へと陥れます。罪の束縛に捕らえられた多くの人々の人生は破滅へと向かいます。

イエスは、わたしたちが罪の束縛から解放され本当の自由を得ることができるようになるために来られました。

わたしたちは、往々にして自分の欲望の赴くままに行動できることが自由だと錯覚します。
しかし、本当の自由は、罪の誘惑を自分の自由な意志によって欲望に捉われず解放された自由な選び取りが出来ることです。
束縛のなかに陥れられたとき、人は罪の誘惑を拒否しようとしても、すでにそのような誘惑を拒否する自由を失い、自由意志による選択をすることができなくなっています。

イエスはイエスを信じたユダヤ人たちに、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と言われています。

イエスは、自分たちは罪の奴隷になったことはないと言うユダヤ人たちにも、
「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」と宣言されています。(ヨハネ福音書8章31-38参照)


はじめに人が神に背き、罪によって死がはいり、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に広がりました。
神が約束されたメシアが来られるまで、人類の魂は肉体の滅びが訪れた後、黄泉に降りました。 
神が救いのメシアをこの世に送られることを信じて死んだ旧約の時代の人々の魂も神の栄光の御座には昇ることが出来ず黄泉に降りました。 

旧約の時代の犠牲の捧げ物、人々の罪の神に対するなだめの供え物として流された犠牲の動物の流す血は、罪を覆う役目はしても罪を帳消しにし、取り去ることはできませんでした。
神は選びのイスラエルの民にモーセをとおして律法を与えられ、天の御座を模して礼拝の規定と地上の聖所とを与えられました。しかし、それらはあくまでも後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物ではありませんでした。
神の約束を信じ、メシアの到来を期待して死んだ旧約の時代の信仰者たちは、神が設計され建てられる堅い基礎の上に建てられた都を待ち望み、信仰の人々として死にました。
彼らは、約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル書11章10-13参照) 

ルカの福音書16章を見ると、彼らが降った黄泉がどのようなところであったのかについて、イエスご自身が説明されている箇所を見ることが出来ます。

神の約束を信じ、約束のものを手に入れることはありませんでしたが、メシアの到来を期待して死んだ旧約の時代の信仰者たちは、黄泉に降り、アブラハムのふところと呼ばれるところに連れて行かれました。
この黄泉(ハデス)は、大きな淵によって隔てられ、一方は、生ける神との関わりに背を向け、不信仰な者たちが炎の中で苦しみもだえ続けるところ、他方は、アブラハムのふところにあって慰められるところに分けられ、この越えることのできない大きな淵によって一方から他方へ渡ることは不可能でした。(ルカ福音書16章22-26参照)

黄泉におけるアブラハムのふところと呼ばれる場所に降った旧約の時代の信仰者たちは、十字架の上で贖いの業を完成され、死んで黄泉に降られたイエスが(エペソ人への手紙4章8-10 参照)、死とハデスとの鍵(黙示録1章18参照)を持って、捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられ解放を告げられたとき、(第一ペテロの手紙3章19-20参照)イエスによって共に栄光の天の御座に昇りました。   

このように、メシアが来られたのは、人の罪のために死なれ、黄泉に降り、すでに信仰をもって死に、黄泉に降った旧約の時代の人々に捕われからの解放を告げ、共に栄光の御座に昇られるためでした。 


イエスは、ナザレの会堂で公生涯をはじめられ、イザヤ書の箇所を朗読されたとき、ルカの福音書の記録では「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ」という箇所は読まれませんでした。それは、最初に御子がこの世に来られたのは、神の復讐の日を告げられるためではなかったからでした。

メシアである主なる神の救いが現れ、御子がわたしたち一人一人の罪の責めを負われ、犠牲の代価を支払い、一方的な恵みと救いをもたらされた今日という日、今こそわたしたちが救いを受け取り神の家族として永遠のいのちを共に受け継ぐことのできる時です。

御子が来られたのは、主の恵みの年をわたしたちに告げ知らせるためです。

もし、この御子をあなたが拒み続けるとき、いつかあなたが御子によって「わたしはあなたのことを知らない」と言われ、神の復讐の日を告げられることを知るべきです。

地が神の前に堕落し、暴虐に満ち、神が人類を裁かれたとき、信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされ神に移されて、見えなくなりました。
そして、ノアとその家族が神に命じられて造った箱舟に入った後で、主は彼のうしろの戸を閉ざされ、それから、大洪水が地を覆い、地上のすべてのものは死に絶えました。
ノアの時代のように、主の恵みのときに主の救いを拒み続けるとき、救いの戸が閉ざされ、神の救いを拒否する者への神の復習の日が到来します。そして、神の復讐の日が到来した後には、わたしたちはもはや自分たちの手で救いの戸を開くことはできません。

神の復讐の日には唯一の救いの道である救い主を告白する者に確実な殉教の死が待っています。

もし、あなたが今、神の恵みと救いを受け入れて生きることが出来なければ、聖霊の助けと神の呼びかけに答える人々がこの地上から取られた後で、救い主を告白し殉教の死を選択することがより困難なことであるのは明白です。

神は言われています。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント人の手紙6章2)



 
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