ああ。私は、もうだめだ。 (イザヤ書6章1-5)

この箇所は、祭司であるイザヤが、ウジヤ王の死んだ年に、高くあげられた天の御座に圧倒的な栄光の主が座っておられるのを見、この栄光の主、神の御前で畏怖の念に打たれ、いかに自分が汚れ、汚れた民とともに住んでいる存在であることに気付かされ発した言葉です。

ウジヤ王の在位中に国家の安全と繁栄を享受してきた人々は、王の死と、ウジヤの後を継いで王位に座る脆弱なヨタムにたいする不安とで あたかも王位が空位となったかのように、国家の行く末と将来の生活に不安と恐れで国民全体が我を忘れ、とまどった状態にありました。

ウジヤ王は、統一イスラエル王国が南北に分裂し弱体化の道をたどり、謀反によって殺された南ユダ王国の王、父アマザヤ王の後を16歳で継ぎました。
彼はその在位の期間に周辺の敵、特にイスラエルの宿敵ペリシテを破り、城壁を強固にし、新兵器を考案し、軍隊を増強し、農業を盛んにし、国民は国家の安全と繁栄を享受しました。 
ウジヤ王は、イスラエルのユダ王国の王として52年の間王位にあり、その間に国が栄え、国民からは信頼され、人気の高い王でした。

多くの場合、人々は自分の生活が安定し、国家の安全が保障され、繁栄がもたらされ、経済的に欲しい物で満ち溢れた社会になると、それらが神からの祝福によっているということを忘れ、目に見える安全、指導者によってもたらされる国民の物質的繁栄を享受することだけに関心が向けられるようになります。

イスラエルの民がウジヤ王の時代にそうであったように、同じようなことが現代の歴史に於いても、たとえば米国の社会に見ることができます。  

米国は、国家の成立を生ける神、イエス・キリストの救いを基盤にして独立、発展し、神から与えられる社会の自由、個人の自由を標榜(立場を公に主張すること)してきました。
日本では、米国の国家的立場を民主主義と位置づけていますが、米国憲法は、明らかにイエス・キリストによって創造者である神から人は平等な権利を付与され、神から与えられる自由の概念を基盤とすることを謳(うた)っています。
米国は建国のときから、幾度かの戦争、国家的危機に直面するとき、建国の父たちも、大統領をはじめ指導者たちも、多くの国民も、国家と人々の自由、権利とを守るために、イエス・キリストにある信仰の自由と創造者である神、神の霊感によって記された聖書の言葉によって支えられ、独裁や全体主義の社会と戦い、国家の安全と国民の自由を獲得し、世界国家として繁栄を享受してきました。
しかしながら、繁栄がもたらされると、国家の繁栄が、神を認め、生きた神によってもたらされたということから離れ、人々は創造者である神に依り頼むことを忘れ、生ける神以外の、国家の指導者、軍事力、経済的繁栄、富、お金といった目に見えるものに目を向けてゆくようになりました。

国家の場合も個人の場合も、本当の祝福が神からのものであることを忘れ、目に見える欲望、繁栄によってもたらされる生活の快適さ、他に比較して自分たちだけの水準を誇る驕りに捉われるとき、神は、わたしたちが突然の病や、経済的破綻、頼りにしている指導者の死などによって、行く末の不安と恐れに襲われるという状況の起こることを許されます。  


永遠の神は、過去、現在、未来をとおして永遠の栄光に満ちたご計画を、わたしたちに持っておられます。

目に見えるわたしたちの肉の欲望、物質的なこの世の快楽、繁栄によってもたらされる心の驕りといったものは、あくまでも一時的なものであり、やがて過ぎ去ってしまいます。

神はわたしたちを愛され、贖われ、一時的ではない永遠の栄光を与えようとしておられます。
神の愛を受け取り、神の選びの約束にある人々が、一時的な繁栄やこの世の祝福だけに目を奪われるとき、それらのものが一挙に取り去られることを許されます。

ウジヤ王が死んだ時も、ユダ王国の人々は強力な指導者を失ったという不安だけでなく、北王国やシリア、或いは当時の世界帝国として勃興してきたアッシリア帝国などの外敵からの脅威にさらされ、人々は現実的な先行きの不安にさらされました。

イザヤは、このような中にあって、国家の先行きと国の指導者である王座に座る者に対する行く末を案じ、神殿で祈りを捧げているときに、天の御座に栄光の神が座しておられ、その衣のすそが神殿に満ちているのを見ました。

この世の状況が激変し、強力な国家の指導者が不在のように思えるときでも、天の御座が空位になることなく、そこに栄光の神が座しておられ、神の揺るぎない支配は変わらないことをイザヤは目の当たりにしました。

圧倒的な神の御座の情景は、この箇所の2節、3節にも述べられていますが、聖書全体を読むときエゼキエルも、長老のヨハネも同じような光景を目にしています。(エゼキエル書1章、10章、黙示録4章 参照)

個人的に栄光の神の姿に触れ、出会った人々は、神の栄光の御前で自分の矮小さ、汚れ、罪深さに気付かされるという体験をしています。(ヨブ記42章5-6、ダニエル書10章8、ヨハネ黙示録1章17-18 参照)
イエスの弟子のシモン・ペテロは、イエス・キリストの本当の御姿に触れたとき、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ福音書5章8)と告白しています。

使徒パウロも、サウロという名でダマスコへクリスチャンとなった人々を迫害するため向かう途中、栄光のイエスに出会いその場で倒れた体験をしています。(使徒書9章1-5)

イエスこそが、死と黄泉との鍵を持たれる栄光の方であり、王として御座におられる方です。

栄光の主なる神は、わたしたちの突然の病や、経済的破綻、頼りにしている指導者の死などによって、行く末の不安と恐れに襲われるという状況にあっても、変わることなく御座に座しておられ、すべての状況を知られ、支配されています。  


どのようにこの世の状況が変化しても、変わることのない栄光の神が天の御座におられることを体験するとき、わたしたちは栄光の神の前で自分たちの矮小さ、罪深さ、醜さ、汚れ、に気付かされます。

神の栄光の御前で自分の汚れ、罪深さに気付かされ自分の本当の姿を見るとき、イエスの弟子のシモン・ペテロが、イエス・キリストの本当の御姿に触れ、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と叫び、イザヤが叫んだように「ああ、私はもう駄目だ。」という思いに駆られる筈です。

神の栄光、光はわたしたちのうちにある闇、罪深さ、汚れを余すところなく照らしだされます。

わたしたちは、栄光の神の御前で自分を誇ることのできるものなど何一つありません。
もし、だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。(ガラテヤ書6章3 参照)

わたしたちひとりひとりに言えることは、神の栄光の光に照らされて「ああ、私はもう駄目だ。」という砕かれた思いを告白し、だれでも、思うべき限度を超えて思い上がらず、神がおのおのに分け与えてくださる信仰の量りに応じ、与えられた賜物を主の御心に従って使うことです。(ロマ書12章3 参照)

神は、わたしたちの不義を取り去ってくださり、わたしたちが罪から開放され、神との交わりを回復することを望んでおられます。

神は、わたしたちが王座に座わっておられる方の栄光に触れられ、わたしたちのうちにある罪と汚れに気付き、魂が砕かれ、「ああ、私は駄目だ。」という罪の告白をすると同時に、必ずわたしたちと神の間に隔たりとなっているわたしたちの汚れを取り除いてくださいます。

わたしたちは、自分では自分の汚れを取り除くことは決してできません。しかし、神の栄光の光に照らされて自分のうちにある闇を認め、汚れに気付き「ああ。私はもう駄目だ。」という告白をするとき、神がわたしたちの汚れを取り去ってくださいます。

神に出会い、神を見る人は、幸いです。
「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ福音書5章8)

わたしたちが、この神の栄光、愛、恵みに応えるとき、わたしたちの汚れを取り除くだけではなく、わたしたちを新しいものに変え、神の栄光を他の人々に伝え、証しする器へと変えられます。
そして、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方は、私たちのうちに働く力を与えられ、みこころのままに、わたしたちのうちに働いて志を立てさせ、主の御心に適った事を行なわせてくださいます。(エペソ書3章20、ピリピ書2章13 参照)




 
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