力の源  

(イザヤ書40章28-31)


イスラエル統一王国が分裂した後、国はヤーゥエの神から離れ、民は 唯一の創造者である神から偶像へと向かい、北のイスラエル王国は、イザヤが預言をはじめてまもなく紀元前722年アッシリア帝国によって滅亡しました。
イザヤが活動した南ユダ王国も常に周辺の敵国からの脅威にさらされ、国が神に立ち返り、神にたいする不義を悔い改めないとき滅亡にいたり、国も民も困難な状況を迎えることが預言されています。

しかし、メシアが到来するとき国は回復し、民には平和がもたらされ地上に栄光に満ちた神の国が出現することをイザヤは預言しました。

イザヤは、後半の40章から最後までに、生ける神の慰めと癒し、救いの預言を述べています。 
このなかで特に40章から48章にかけて、油そそがれたメシア生ける神がどのようなお方なのか、創造者である神と被造物の圧倒的な差、イスラエルを選ばれた生きた神と偶像の神々との決定的な違いを描いています。


創造者である神の栄光と,被造物である人々の栄華が比較にならないものであることについて、イザヤは、神の栄光があらわれると民がどのような栄華にあって栄えているように見えても、それは一時的に萌え出でる草や野の花のようなものであり、主のいぶきが吹くと、草は枯れ、花はしぼむようなものである、と述べています。

主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」
「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ書40章5-8) 

イザヤは、生ける神と偶像の神について述べています。
生ける神こそが主でありすべてを創造された方です。
創造の神は、天を薄絹のように延べこれを天幕のように広げて住まわれ、力をもって来られ、その御腕で統べ治られ、君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされ、羊飼いのようにその群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せふところに抱き乳を飲ませる羊を優しく導く方です。(下記 イザヤ書40章10-20 参照)
これに対して偶像の神々は、異邦の人々が人生の目的とするこの世の富、知識、権力、快楽を象徴するものになぞらえてマモン、バアル、アシュタレトなどの似姿に似せ 、これを鋳物師は鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作り、貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かないように据えているのにすぎないものなのだと述べています。(イザヤ書44章1-20、参照)
神に心を向けることについて、イザヤ書の40章から48章にかけて、より詳細にこのことが述べられています。

見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。
だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。
主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。
見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。
レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。
すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。
あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。
鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。
貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。
あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。
君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。
彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。
「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。
目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(イザヤ書40章10-26) 


わたしたちは通常、よりこの世の富を増やし、知識を増し、快楽を得、自分の影響力を増し加えたりすることで、自分の周りの状況をより良いものにしようと努力し、人生を送ろうとします。

しかし、わたしたちの人生も、自分で計画するすべてのことが思ったようにいかず、問題が山積し、人の助言を求めてもそれは結局愚かな助言に終わり、自分の未来に対してまったく希望の持てない状況に陥り、悲惨で絶望的に思える様々な事柄を見聞したり体験し、恐れと不安のなかで立ち往生するようなことがあります。 

若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。(30節)と述べられているように、わたしたちは、偶像の神々に頼り、人生の目的をこの世の富や知識、快楽を求め、それらを得ようと努力し、エネルギーをつぎ込むときに、どんなに努力しエネルギーをつぎ込んでも限界と疲れを覚えるときがやってきます。

神は、わたしたちの人生に絶望と思えるような状況の起こることを許されます。


イザヤは、約束の民も生きた神から離れ、異邦の神々を慕うとき国家が滅亡するような事態が訪れ、悲惨で絶望的に思える状況となることを預言しています。

わたしたちの人生においても、国家の栄枯盛衰ということについても、どのように自分たちの努力や計画によっては抜け出すことのできないような悲惨で絶望的に思える状況、まさに生死の分岐点に立たされることがあります。

イザヤは、わたしたちが抜け出すことのできないような悲惨で絶望的に思える状況に立たされるときでも、生きた神はそれらの状況を遥かに超えておられ、神のまえで国々は手おけの一しずく、はかりの上のごみのようなほど偉大な方であり、(15節、参照)偶像の神々のように人の作った形に擬えられる方ではなく、その測り知れない英知をもってすべてを知っておられる方であることを宣言しています。

神は、その測り知れない豊かな富をわたしたちが得ることを望んででおられます。
わたしたちが、疲れ活力を失うときに支え、誘惑に陥り失敗するときにそこから立たせ、将来に不安を抱き先行きの見えないときに方向を与え、問題をかかえて途方にくれるとき解決の道を与え、すべての希望を断たれ絶望と悲惨の淵に立たされるとき手を差し伸べることの出来る方は、生きた神以外にはあり得ません。

わたしたちが救いの御手を体験するのは、わたしたちの計画、知恵、知識、努力によってはどうすることもできない状況のなかで、自分の無力さを認め、生ける神だけが助けであることを心から待ち望むときです。

生ける神のみがそれらの状況を超えてわたしたちを暗黒の中から引き出すことの出来る主であることを信じ、生きた神を待ち望むとき、神は、神の測り知れない力によって、わたしたちを支え、立たせ、方向を与え、解決の道に導かれ、手を差し伸べてくださいます。

神が悲惨に思われるような暗黒の状態に陥ることを許されるのは、わたしたちを滅びに至らせるためなのではありません。
暗闇の状態から本当の光を見出し、わたしたちが生ける神に心から救いを呼び求め本当の癒しを得るためであり、悲惨な状態が終りではなく救いをもたらし未来に対する希望を与えられることのできる方は、生ける神のみであることをわたしたちが知るためです。 


現在わたしたちの周りに起こる状況のなかにも、様々な事柄を体験したり、見聞し、この世で起こる事柄は、ますます悪い事態となってゆくように思えます。
たとえ、神が暗黒に思える状況をも許され、わたしたちが抜け出すことの出来ないような試練や困難に思える状況に陥っても、本当の生ける神はわたしたちの絶望のなかで慰めを与えられる方です。

主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れないのです。

生ける神のみが、わたしたちに力を与えられる源です。



 
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