焼き尽くす火に耐える者 

(イザヤ書33章14-17)


南ユダ王国ヒゼキア王のとき、北イスラエル王国を滅亡に至らせ、国々を征服し、城壁を包囲していたアッシリア帝国の脅威のなかで、イザヤは、主を待ち望み、主に信頼するとき、万軍の主なる神が戦われ必ず勝利がもたらされることを預言し、ヒゼキア王を励ましました。
これに、イザヤの預言によって励まされ、力づけられたヒゼキア王は、大軍の包囲のなかで民を励まし、主なる神に信頼し、神が必ずユダ王国を守られ、敵を打ち破られ、アッシリアの脅威を恐れてはならないことを民に訴えました。
しかし、アッシリアの王センナケブリは、軍の総司令官ラブシャケによって、神を冒涜する脅迫状をヒゼキア王のもとに送りつけ、それを大勢の民の前で読み上げ、「ヒゼキヤが、『主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、』と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。私と和を結び、私に降参せよ」と、降服を迫りました。
ヒゼキヤは、使者の手からアッシリアからの脅迫状を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、生ける神の前に脅迫状を広げ、直面する国家の危機を、主が救われるように祈りました。

ある朝、人々が城壁を取り囲むアッシリアの大軍の様子を早く起きて見ようとしたところ、軍の主力である十八万五千人の精鋭部隊が死体となって全滅し、残党が逃げ帰ってしまった、という驚くべき事態を目撃しました。
一夜のうちに、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、軍の主力精鋭部隊十八万五千人が打ち殺されてしまったのでした。 

イザヤは、このような歴史的出来事が現実のものとなる以前に、罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれ、「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」と、この箇所で、神が焼き尽くす火である方、神に敵対する者が滅ぼされることを預言しています。


聖書全体をとおして神は愛であり、神は光であると述べられています。

「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(第一ヨハネ4章8)

「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」(第一ヨハネ1章5)

聖書全体に神が愛の方、神が光として現わされておられますが、それだけではなく、神が、燃える炎のような火としても象徴されています。


イザヤ書のなかには神が焼き尽くす火である方、神に敵対する者が滅ぼされることが幾つかの箇所で示されています。

イザヤがウジヤ王の死んだ年に、高くあげられた天の御座に圧倒的な栄光の主が座っておられるのを見、この栄光の主、神を仰ぎ見「ああ、私はもう駄目だ。」という思いに駆られたときにもセラフィムのひとりが、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭をイザヤの口に触れて「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」と宣言したことを思い起こすことができます。(イザヤ書6章 参照)

イザヤ書の預言の最後の箇所には、神がこの世に神の国を建てられるとき、神である主が「火の中を進んで来られ、その戦車がつむじ風のようであり、その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたて、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばかれる 」(イザヤ書65章5、66章15,16参照)ことが描かれています。

この他にも聖書には様々な箇所で火が現れるように神が存在されることが示されています。

人が神に背き、罪によって神との交わりを断ったとき、神は楽園の中央にある命の木を燃える炎の剣によって守られました。(創世記3章24参照)

神がモーセにイスラエルの民を奴隷の状態から引き出すように、最初にモーセに語られたのも燃える柴の火の炎の中からでした。(出エジプト記3章参照)

モーセがエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を率い、荒野で旅を始める前に、シナイ山のふもとで 神を迎えるために、民が宿営を出て山を見上げたときも、、全山が煙り、その煙はかまどの煙のように立ち上がり、全山が激しく震えました。それは、主が火のなかにあって山の上に降りて来られたからでした。(出エジプト記19章17、18 参照)

洗礼者ヨハネは、民衆が救い主を待ち望みヨハネのことを、もしかするとキリストではあるまいかと思っていたのに答え、「わたしは水でバプテスマを授けているが、その方が来られると、聖霊と火のバプテスマを授けられる」と、宣言しています。(ルカ福音書3章16参照)

イエスが十字架に架かられ、復活し、天に昇られた後で五旬節の日にエルサレムの神殿でイエスを信じる人々に聖霊が降ったときも、聖霊は神の象徴として火の炎のような分かたれた舌のようにあらわれ、ひとりひとりの上にとどまりました。(使徒書2章1-4)
ヘブル書には、私たちの神が焼き尽くす火であると述べられています。(ヘブル書12章29参照)

マラキ書の預言にはキリストが再臨されるとき、「だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精練する者の火」のようだと、述べています。

復活され御座におられるキリストの頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。と、イエス・キリストの黙示を受けたヨハネは述べています。(黙示録1章14参照) 


すべての人が燃える炎のような方である神から逃れることはできません。
どのような人も燃える炎のような方の御手のなかに住んでいることに変わりはありません。

わたしたちは、自然界においてすべての物質が緩い速度で酸化してゆくのを時の経過とともに、認めることができます。
これは、すべての物質が緩い速度で燃え、酸化するために、例えば新車のときは輝いていた車が時の経過とともに錆びが生じるのを観察すことができることからもわかります。

わたしたちは、生ける神が存在されていることを忘れ、神の存在さえも否定することがあります。しかし、神はわたしたちを忘れることはなく神の存在から逃れることはできません。

燃える火のような方の御手のなかに住んでいるわたしたちが、火によって焼き滅ぼされてしまうのか、火によって精錬され不純物が取り除かれてより純度の高い金のように永遠に輝くものとして神の前に出ることができるのかは、神を否定し神に背くのか、イエス・キリストの贖いを受け入れ神に信頼するのかによって異なります。

イエス・キリストの贖いを受けて人生を歩み、救われた人々も、信仰の評価をキリストの裁きの座の御前で受けるとき、人生において起こる様々な精錬される火のような試練のなかで、どれだけ主に信頼し歩んだのかによって、それぞれの信仰の度合いに対する評価を受けることになります。
このことについて、使途パウロは、コリント人へ宛てた手紙のなかで次のように、述べています。

「(あなたがたが)どのように(神の建物を)建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(第一コリント3章11-15)

イザヤは、この箇所でアッシリアの軍勢のように神を冒涜し、神に敵対する者は、燃える火のなかで焼き滅ぼされてしまうと、述べています。

一方で、神に信頼し、神の力に依り頼み、正義を行ない、まっすぐに語り、強奪による利得を退け、手を振ってわいろを取らず、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かず、目を閉じて悪いことを見ない者は燃える火のような試練の中からもその火に耐えて、この世で人生の旅路を寄留し、麗しい王、神をみることができると宣言しています。



 
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