全き平安 

(イザヤ書26章3-4)


この箇所はイザヤが、この世にメシアが神の国を建てられるときのことを預言して、その日には、エルサレムが城壁に囲まれた強い町となり、メシアに信頼する誠実を守る正しい民が町を出入りし、人々が全き平安のうちに守られることについて述べている箇所です。  

イザヤは、義とされた民、心を一つにしてメシアへの信頼を堅く守る者が、とこしえの岩であるヤーウェの神、主に信頼し続け全き平安に守られ主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれることを述べています。 

現代に生きるわたしたちは、日常をあらゆる不安と心配に取り巻かれて生活しています。
わたしたちは、なんらかのかたちで不安や恐怖に怯えるフォビア(恐怖症)の時代に生きているといっても過言ではありません。

すべての人が状況に捉われるとき、恐怖や不安に陥ります。
人生において、この箇所で言われているような、全き平安ということが可能なのでしょうか。  


聖書にはいろいろな状況において不安や恐怖を覚えた人々に与えられている励ましが述べられています。

このイザヤ書のなかでも、神が選びの民を励まされ「 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ書41章10)と言われています。

奴隷として苦役にあえいでいたイスラエルの民がエジプトから引き出され、荒野を長年さまよい、これから先住民族のカナン人を攻め滅ぼして、約束の地へ入ろうとするときに、民の指導者としての役割を継ごうとするヨシュアに対し、モーセによって次のような励ましが与えられています。

モーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。
主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」 (申命記31章7-8)

そして、主なる神もヨシュアに、
「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア記1章9)と励まされています。

統一イスラエル王国の王となったダビデは、有名な詩篇23編のなかで、
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。 」(詩篇23編4)
と、どのような状況にあっても主が共におられるとき、恐れることがないことを告白しています。

王位をソロモンに譲り、臨終に際してダビデは、
「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。
あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。
そうすれば、主は私について語られた約束を果たしてくださろう。」(列王記上2章2-4)とソロモンに励ましのことばを与えています。

統一イスラエル王国が北と南に分裂し、南ユダ王国初期に父の後を継いで王となったヨシャパテ(紀元前874年-850年頃)は、モアブ、アンモン、エドム人の侵略にあいその大軍に直面し、王国の危機を迎え、不安と恐れに駆られたとき、神に助けを呼び求めました。この時も、主の霊がレビ人ヤハジエルの上に臨み、次のような励ましが与えられています。

「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
あす、彼らのところに攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前の谷のはずれで、彼らに会う。
この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」(歴代下20章15-17)

これらの、人々は実際に立ち向かう敵に直面し、不安や恐れに駆られるような状況のなかにあって、主なる神が共におられ、神に信頼するときそれらの不安や恐れから解放され、敵との戦いに勝利し、あらゆる状況のなかで困難を克服してゆく力を与えられました。
わたしたちの不安や恐れは、外からの敵や問題だけでなく自分の失敗や、魂に囁く罪の意識によって内側から起こる深い心の葛藤によって起こるということもあります。

このような、すべての恐れ、不安に対して使徒パウロは、
「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ロマ書8章31-32)と言って、わたしたちがイエス・キリストを通して神に信頼するとき、不安や恐れ は取るに足らないものとなることをのべています。

マルチン・ルターは、中世のカソリック教会が多くの宗教的な伝統に捉われ生きた信仰から離れてゆくことに対し疑問を投げかけました。このために、彼はカソリックの修道僧としての地位を破門され、迫害と伝統的な圧力のなかで不安と恐れに陥りました。しかし、彼は神こそが堅固な信仰のとりでであることを思い起こして次ぎのような有名な賛美歌を作詞、作曲しました。
この讃美歌は、神が共におられるとき、どんなにわたしたちが無力であっても、状況を超えて不安や恐れから解放され勝利することを歌っています。

1.
私たちの神はかたいとりで
よい守りの武器です。
神は私たちを苦しみ、悲惨から
助け出してくださいます。
古い悪い敵はいま必死にあがいており、
その大きな勢力と策略を用いて
攻撃してくるので
地上の存在でこれに勝てる者はおりません。

2.
私たちの力は無にひとしいのです。
私たちは立ちえません。
けれども私たちに代わって戦ってくださる方がおります。
それは神ご自身が立ててくださった戦士であられます。
そのお名前を尋ねますか?
その御名はイエス・キリストです。
万軍の主なるお方であり、
神ご自身であられるお方です。
主は敵に譲ることはありません。

3.
悪魔が世に満ちて
私たちを飲み込もうとするときも
私たちは恐れなくてもいいのです。
私たちは敵に勝利します。
この世を支配するサタン、悪魔が
たけり狂っておそってくるときも
彼の手は私たちにとどきません。
彼は神のみことばの一撃で、打ち倒されてしまいます。

4.
世人たちがみな神のみことばをあざけり、
みことばをふみにじっておそれをしらないときであっても
主は私たちと共に戦ってくださり、
聖霊と賜物を与えてくださいます。
世人たちが地上のいのち、
財産、名誉、妻子を奪いとろうとしても
世人たちは何も得ることは出来ません。
神の国は永遠にクリスチャンのものであります。

(日本語ウィキペディア「神はわがやぐら A mighty fortress is our God 」歌詞翻訳からの引用)


わたしたちの恐れや不安は根本的には霊的なものであり、霊の目が開かれることがなくしては、状況を超えた勝利ということは、あり得ません。

旧約聖書には、神の霊に満たされたイスラエルの預言者エリシャが、敵の王の動向をすべてイスラエルの王に告げ、そのことに怒った敵のアラムの王(アッシリアの王)が、エリシャがドタンという町にいたとき、夜のうちに馬と戦車と大軍を差し向けたときのことが記録されています。

そこで王は馬と戦車と大軍とをそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。
神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。
すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。
そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。(列王記下6章14-17)

このことからもわかるように、神との交わりを持ち、霊の目をもって見るとき、神がわたしたちを守られ、主の送られる軍隊が、わたしたちの肉の目によって見る敵の大軍よりはるかに優っていることがわかります。 

神は、わたしたちの不義と罪を赦すために御子を十字架に架けてまでわたしたちを愛しておられます。
わたしたちが、神に信頼するとき、すべての状況やわたしたちの心の葛藤にまさって勝利を得ていることを、わたしたちは知る必要があります。

「 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」(第一ヨハネの手紙3章20節)

わたしたちが心から全面的に神に信頼し、自分で立てた計画や知識に頼むことよりも何が神の御心なのかを主の霊によって祈り求め続け、主が共におられることを常に覚え、自分の感情に捉われることよりどの道が神の本当に喜ばれる道なのかを見極めて選び人生を歩むとき、わたしたちの人生は状況を超えた喜びと平安に満たされるものとなることを聖書は約束しています。


神がわたしたちに差し伸べられる神との和解を受け入れないで神から離れようとするかぎり、わたしたちに平安はありません。

「しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。 『悪者どもには平安がない。』と私の神は仰せられる。」(イザヤ書57章20-21)

「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ書4章4)

「 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」(ロマ書8章7)

「キリストはわたしたちのために、神との平安となって下さいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ロマ書5章6-9)  

「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(エペソ人への手紙2章12-13)

「 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」(コロサイ人への手紙1章20) 


キリストの十字架の贖いを受け入れた人々は、神との平安ばかりではなく、神の平安、全き平安を得ることができます。

イエスは、十字架に架かられる前の晩に、これから先の不安と恐れに圧倒されそうになっていた弟子たちに、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ福音書14章27)と、全き平安を与えられる約束をしておられます。

詩篇のなかでも、神が全き平安をもって祝福されることが約束されています。

「主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。」(詩篇29編11)

神が与えられる全き平安は、生ける愛の神のご計画にすべてを委ね、信頼するとき与えられます。
人としてこの世に来られたイエスは、この世のわたしたちの罪の責めをご自身に負って十字架に架かられるとき、ご自身のすべてを神の御心に委ねられ、わたしたちに信仰の模範をも示してくださいました。

「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」(マタイ福音書26章39)

神は、わたしたちが主に信頼するとき、わたしたちを状況を超えた全き平安によって守ってくださいます。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ人への手紙4章6-7)



 
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