変わることのない神のご計画

(イザヤ書14章24、27)


イザヤが預言を告げた紀元前726年ごろは、アッシリア帝国によって北イスラエル王国が滅亡の危機に瀕していた時代でした。

この箇所で、イザヤは、ユダヤの王国のことだけでなく世界を征服しようと企てる周辺の国々に対する万軍の主なる神のご計画と、これから世界に起こることについて述べています。
このなかで、その頃に小国であったバビロンが世界帝国として勃興し、アッシリア帝国は滅び、イスラエルの民は世界の果てにまで散らされ、バビロン帝国が世界帝国として古代世界を征服することが預言されています。
さらに、イザヤは、バビロンの誇り、栄華は滅びてゆくこと、当時はまだ国として知られてもいなかったミード・ペルシアが興り、再びイスラエルの民が集められることを預言しています。

この預言のなかで、横暴と国々を容赦なくしいたげて支配するバビロンへの警告が詳しく述べられています。

イザヤは、神が変わらない方であり、メシアがこの世に平和の君として来られ、この世の神への反逆が裁かれ、平和がもたらされるという神のご計画が必ず成就すると宣言しています。


聖書は、神の変わらない性質について、神が全知全能の方、神の尊厳が聖なるもの、神が愛の方、交わりを持たれる方であることを一貫して述べています。

神が天と地を創造されたとき、創られたすべてが良かったと宣言されています。
しかし、わたしたちの見る世界はすべてが良いとは必ずしも思えません。それどころか、わたしたちの周りには、病、災害、争い、殺戮、死に満ち溢れています。
何故そのように矛盾に思えることが起こっているのでしょうか。

神の創造された完全ですべて良い世界に病、災害、争い、殺戮、がもたらされたのは、サタンの闇の力によるものです。さらに、神が与えられた特権を人々が自分の野心のために用い、罪によって人が神との愛の交わりから断たれ、被造物が滅びの縄目に束縛された結果です。

聖書には、わたしたちの目に見えない世界や、時間や空間を越えた存在がどのように創造されたのかについての詳しい記述はありません。
さらに、人とは次元の異なる被造物である天使が何時創造されたのかについての明確な記述もありません。
しかし、すべてを創造された神は、明らかにわたしたちの目でみることのできない世界、時間や空間を越えた次元で神の御座近くにあって神に仕える天使をも創造されました。

イザヤ書の14章には、天の神の御座近くにあり、特別に聖別された天使の記述があります。
この天使は、天使たちの頂点に立って美しさと権威を与えられ、神を賛美する明けの明星とよばれました。
ところが、この天使は、自分の美しさを誇り、神を賛美するかわりに、「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」(イザヤ書14章13-14)と言って神の栄光を自分に帰して自分自身が神となることを望みました。

ここで、この明けの明星とよばれる天使は、私は天に昇り、私は神の星々のはるか上に、私の王座を上げ、私は北の果てにある会合の山にすわろう、私は密雲の頂に上り、私はいと高き方のようになろう、と私のこと、自分を中心にした野心ばかりを繰り返し述べています。

そして、このイザヤ書の文脈からもわかるように、神となる野望を抱いたこの天使は、自分の野望によって、地を震わせ、王国を震え上がらせ、世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった(イザヤ書14章6-7)ことがわかります。

この大天使こそが永遠の滅びに定められ、天から堕ちたサタンであり、多くのこの世における人々の野望と、野望によって国々を征服しようというバビロン帝国の背後にはたらいている闇の力の正体です。
このサタンは、神の御怒りのときが来ると、天から落とされる赤い竜として天使の三分の一をその尾で引き寄せることが述べられています。(黙示録12章4-9 参照)
そして、よみに落とされ、その下には、うじが敷かれ、虫けらが、そのおおいとなり、(イザヤ書14章11参照)最後には永遠の暗闇の彼方で火と硫黄との池に投げ込まれ、昼も夜も苦しみの火で焼かれます。(黙示録20章10)

神は、誰一人としてわたしたちが永遠の滅びに至ることを望まれていません。
しかし、神との交わりを持ち栄光の神に似たものと変えられることよりも、神の栄光を自分に帰して神に反逆し、神の意志、意図に背き続け、自分の意志、意図によって、自分を誇り、自分を神とする者には永遠の裁きと滅びが定められています。


神は人を創られたとき、人を神に似せて創られました。
神ご自身がご計画され、選びによって事を成就されてゆくのとおなじように、人も計画をし、選びとり、決めるという能力を与えられました。
さらに、神が愛の関係のなかで交わりを持たれる方であるように、人も愛し愛されるという交わりを持つものとしてわたしたちを創造されました。

完全なものとして神との交わりを持っていたにも拘わらず、最初につくられた人は、神のことばより、神に反逆をする者、サタンのことばを選びました。
サタンが最初に女を欺いたときのことばは、「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」というものでした。
これは、神が言われた、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」ということばに真っ向から反逆し、神との交わりのなかで神に似た者とされるより、自分が神になるという野心をそそのかすものでした。

神のことばに信頼するよりも、神に反逆する者のことばを選び取った人は、神に反逆しただけでなく、神に反逆するサタンに隷属する者となりました。
これこそが罪の本質であり、すべての人がこの性質を持っています。

わたしたちは、生まれながらに 神の意志より自分の意志を優先させ、神に信頼しようとしない罪の性質を持っています。

罪の結果、神の創造された完全ですべて良い世界に病、災害、争い、殺戮、がもたらされました。そればかりか、すべての被造物は、虚無に服し、滅びの束縛に入れられました。  

わたしたちは、罪から解放され、すべての被造物が滅びの束縛から解放され神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられることを待ち望んでいます。


神は、罪に対する裁きを必ず行われ、創造されたすべての被造物が良いという、永遠の栄光に満ちたご計画を持っておられます。

神は、人々が罪から解放され、すべての被造物が滅びの束縛から解放され、わたしたちが神の愛に満たされ共に互いが愛の交わりにある栄光に満ちた完全なる世界に入れられることを望んでおられ、そのような完全な世界を必ず創りだされます。
このご計画こそが、はじめに天と地を創造される永遠の時から変わらない神のご計画であり、それは、必ず成就することが、このイザヤの預言で強調されています。

神は、わたしたちがどのような状況のなかにあっても、神によって慰め、励みを得、御心のうちに歩む者が神の栄光に似たものと変えられることを望んでおられます。
さらに、神は、キリストの救いを信じない人々にも、すでにキリストがわたしたちのための裁きを十字架の上で受けられたことを知るものとなることを望んでおられます。

神の裁きは、人々に神の公平さを知らせてくださいます。
神は、御子キリストをこの世に賜り、わたしたちが、神の御前で義とされるために わたしたちが当然負うべき裁きを、キリストのうえに身代わりとして十字架の上で負わされました。
キリストは、不義に対する神の怒りのなだめの供え物として血を流してくださり三日目によみがえられ、多くの人にあらわれました。

「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。」(ロマ書5章17-18)

神は、ひとりでも多くの人々が神の恵みを受け取り、御子キリストにあって神との交わりに集められ、神の栄光に似た者とされることを望んでおられます。

神の愛は、人をロボットのように命令を一方的に聞くものとして創造されたのではなく、人が自分の選択によって愛しあう交わりを持つことのできる、神に似たもの、自分の選択によって自分の歩みを決めることのできるもの、として人を創造されました。
だれでもキリストにある永遠の命を受け取ることができます。
キリストにある永遠の命を受け、神の栄光に似た者とされるのか、或いは
堕ちた大天使、サタンの欺きのなかに留まり続け、自分が神になることを望み、その野望によって神との交わりを断ち、神の裁きのなかで永遠の滅びに至るのか、その選びは常にわたしたちの自由意志によって決めるべき選択です。

罪の裁きを帳消しにし、復活をされたキリストは、栄光の王として再びこの世に来られます。

そのときには、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ福音書6章10)という祈りが文字通り成就します。
神の永遠のご計画は変わることがなく、神が伸ばされた御手は、引き戻されることはありません。

神の栄光にみちたご計画が成就するとき、神のご計画、神の贖い、神の栄光を信頼し続ける者は、もはや、のろわれるものは何もないという状態で神の栄光の御顔を直接仰ぎ見ることになります。
このような祝福に優る祝福はあり得ません。



 
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