御ことばの飢饉

(アモス書8章11-12)


南ユダ王国のテコアでいちじく桑の木を栽培する牧者であったアモスは、主なる神から「行って、わたしの民イスラエルに預言せよ。」という召命を受け、神の裁きと悲惨な滅びの警告、悔い改めによる終わりの日の回復を預言しました。 

領土を回復し、王国は繁栄しているかに見えた北イスラエル王国は、繁栄のなかで神との契約から離れ、神を求めるよりも、彼ら自身の欲求を満たすことに心を傾けたため、神の秩序を忘れ国は退廃していく状態でした。

アモスは、ダマスカス、ガザ、ツロ、エドム、モアブなどのイスラエルの周辺の国々に対する裁きの警告にはじまり、より厳しい裁きがイスラエルにもたらされることを警告しました。

イスラエルの民に裁きの日が来るとき、「その日、飢饉をその地に送る。パンの飢饉ではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。」と、アモスは宣告しています。


人としてこの世に来られた御子イエスは、神の御子として公の生涯をはじめられるとき、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれ、四十日四十夜断食をされました。
四十日四十夜断食をされて空腹を覚えられたとき、試みる者が近づいて来て「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と言ってイエスを誘惑しました。
イエスはこれに答えられ、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と、宣言されました。

エジプトで奴隷の状態であったイスラエルの民は、エジプトを出てから40年間のあいだ荒野の旅をしました。
彼らが約束の地に入る前に、民を率いたモーセは、水もパンもない荒野を民が長い間旅することができたのは、生ける神が民と共におられ、人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることを民に知らせるためであった。と、述べています。

身体を支えてゆく上で水とパンは最も大切です。しかし、人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きるのです。

アモスは、神の裁きの日に神が送られる飢饉は、パンの飢饉ではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉だと述べています。

国の存在、文化、地域社会、個人の生活を根底から支え、存在の基盤となっているものは、水とパンだけではなく主の口からでるすべてのことばです。
主のみことばを聞くことの飢饉に陥るとき、国も 文化も地域社会も個人の生活も、人々は生ける神のことばに従うより、自分たちの勝手な思い、おのおのが自分の目に正しいと見えることだけを行うということになります。
このような社会は無秩序で不安に駆られ、目標を失って彷徨い、混乱のなかで最終的には滅びに至ります。

イスラエルを選ばれた神は、イスラエルの歴史、モーセをとおして与えられた神の律法、神への礼拝をとおしてイスラエルを祭司の国、神の栄光を証しするために、奴隷の状態から解放され、相続地を与えられ、国を建て、そして祝福を与えられる生ける神との深い関わりをもって、国を繁栄に導かれました。 

「幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。」(詩篇33篇12)
 
しかし、イスラエルは王国が確立し繁栄するにしたがって、神から与えられた律法、神のことばに序々に無関心になり、異邦の国々と同じように人の伝統や偶像に頼っていきました。

わたしたちが生きて行く上で最も大切なのは、わたしたちを創造された方がどのようなお方なのか、どのようなご性質を持たれているのか、わたしたちにどのような関わりを持ってご計画をもたれているのか、人生の意味が何なのか、死後何がおこるのか、これらの基本的な存在の意味と疑問に対する答えを見出し、それを人生の歩みに生かしてゆくことです。

神のことばは、わたしたちの存在の基本的な意味、どこから自分が来てどこに行くのかという問いに、答えと希望を与えてくれます。

生きることの意味、人生の疑問に答え、目標と希望を与えている神のことばが語られなくなるとき、わたしたちは人にいのちを与えられる創造者である神ではなく、人が作り出した神、偶像に頼るようになります。

わたしたちが、神のことばより偶像に頼るとき、個人としても、地域社会としても、国も国の文化・伝統もやがて混乱と不安と無秩序のなかで、本当の支えを失い滅びへと向かいます。


神はすべての人に神のことば、聖書によって語り続けておられます。
しかし、わたしたちは、神がどんなに語られてもそれを聞かなければ、神のことばは意味のあるものとなりません。

イエスは、群衆がイエスのもとに集まってきたとき、譬えをもって教えを語られ、神のことばを聞く人々に「聞く耳のある者は聞きなさい。」と呼びかけられておられます。

「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ福音書4章3-9)

「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」 (ルカ福音書8章18)

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」(黙示録2章7)

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」(黙示録2章11)

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」(黙示録2章17)

「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。 また、彼に明けの明星を与えよう。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示録2章26-29)

「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示録3章5-6)

「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示録3章13)

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示録3章22)

神はわたしたちに必要なすべてを備えてくださいます。御言葉のパンと水は、わたしたちが求めさえすれば、与えられています。
しかし、わたしたちが与えられている恵みのいのちのパン、いのちの水である神のことばを、すでに当たり前、当然のことと思うとき、いつの間にかいのちを支える神のことばにたいする無関心に変わっていきます。
そして、わたしたちが与えられている最も必要な神のことばに無関心になるとき、神のことばは軽視され、やがて故意に無視されるようになり、御ことばの飢饉、飢餓の状態になります。

アモスは、「パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんを主が送られること、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。」と述べています。

生ける神が語りかけ、わたしたちの人生に出会ってくださっても、神からの語りかけに無関心になり、軽視し、無視し続けるとき、人生における絶対絶命の状況に追い込まれ、わたしたちが救いを求め、神が語られていることを聞こうとしても、もはやどこで、なにを、神が語られているのか見出すことができなくなってしまいます。

そして、このことが、主の裁きの日に神が送られる裁きなのだと宣言しています。


わたしたちがこのような飢饉の状態にならず、より豊かな祝福を主から受けることができるための秘訣は、御ことばのなかですでに与えられています。

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」(詩篇1篇1-6)

御ことばを喜びとして聞き、昼も夜もそのおしえを深く考え、御ことばを学び、それを
口ずさみ行う者となるとき、時が来ると必ず実を実らせるものとなり栄えることができるのです。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ書1章22)

アモスは、神がイスラエルの民を回復されるとき、その日にはイスラエルが御ことばを学び、それを口ずさみ、行う者となって実を結ぶものとなることを預言しています。

「見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。」(アモス書9章13)

わたしたちも、主のみことばを聞くことの飢饉に陥るか、御ことばを聞き、口ずさみ、行う者となって実を結ぶものとなるかの選択と岐路に立たされています。



 
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