主に会う備え

(アモス書4章12)


イスラエルは、主なる神によってエジプトで奴隷の状態から解放され、神から律法を与えられ、導かれ、相続地を与えられ、国を建て、そして祝福を与えられ生ける神との深い関わりをもって国が繁栄する歴史を辿りました。
しかし、イスラエルの民は、豊かになるにしたがって、生ける神との関わりを持ち神を求めるより彼ら自身の欲求を満たすことに心を傾け、自分たち自身の関心が優先するようになりました。

神が、民を奇跡によって、エジプトの地で奴隷の状態から解放されたことを記念するための過ぎ越しの祭りに集うことは、もはやイスラエルの民にとって煩わしいものとなっていました。

民は、生ける神の御座を模した契約の箱と、ケルビムの上に栄光をあらわされる神を祀った神殿よりも、金の子牛を造り、ベテルとダンという自分たちが勝手に決めた場所に祭壇を設け、そこで自分たちが勝手に決めた日を祭りとして集い、偶像神モレクを祀った祭りや、星の神ロンパを担いで祀りました。(アモス書5章26、使徒書7章43参照)

彼らは、モーセによって神から与えられた律法を聞き神の律法が善いものであることを認めても、それを行いませんでした。彼らは、律法を知っているだけで充分と考え、自分たち自身を欺き、生ける神との意味ある関わりを失っていきました。

このようなイスラエルに対し、神は預言者たちを送り、神の律法が、彼らを守るためのものであり、神の秩序のなかで社会も国もより祝福を受けることができるということを思い起こすよう警告し、生ける神との契約を破り神に背き続ける結果起こる悲惨な状況についての警告をし続けました。

イスラエルは、物質的な繁栄と反比例して、神の秩序を忘れ去り、国は退廃の一途を辿り、犯罪が横行し、民が商業的な取引を行うときも正しい取引が行われず信頼関係が崩れ、不正と不義によって社会の道徳的な秩序も失われました。

神が送られた預言者たちは、民が神から与えられた律法を思い起こし、神との意味ある関係に立ち返るよう再三にわたって警告をしました。   

王も民もこれらの警告を聞いても受け入れず、神のことばに従うことを拒否し、それぞれの欲求を求め続けました。この罪の結果、国は様々な災害に悩まされるという状況を招きました。

アモスは、イスラエルに災害がもたらされるようになったのは、イスラエルが神に背き、神から離れ、生ける神を捨てたために、神も民を見捨て社会全体に災害が及ぶに至ったのだ、と述べています。

日々の歩みのなかに生ける神が共におられることを忘れ、神に無関心となり、神から離れ、神を不必要とするようになった社会には災害がもたらされます。

アモスはこの箇所で「わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」と神が述べられると宣言しています。
これは、神の裁きの前に立つ用意を促す、最後の警告の言葉です。


恵みと忍耐に満ちた神は、悪人が滅びることを喜ばれず、裁きの前に予告と警告をし、悔い改めの機会を常に与えられます。
神は、人々が背きと罪を悔い改めることを望まれています。 

イスラエルの民が、神を見捨てることによって引き起こされる災害の悲惨さに気づき、災害の度に、立ち返る機会を与えられたにも拘わらず、4章6節から10節まで、それでも神のもとに帰らなかった、とアモスは述べています。

6節、イスラエルの民は国が食料危機になっても神のもとに帰らなかった。
7節、8節、雨が降らず干ばつとなって凶作が続いても民は神のもとに帰らなかった。
9節、立ち枯れと黒穂病で、民が打たれ、果樹園とぶどう畑、いちじくの木とオリーブの木がふえても、いなごの害で木々が食い荒らされ、それでも、民は神のもとに帰って来なかった。
10節、「疫病をあなたがたに送り、剣であなたがたの若者たちを殺し、あなたがたの馬を奪い去り、あなたがたの陣営に悪臭を上らせ、あなたがたの鼻をつかせた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。」と、再三の神の警告が無視され、災害をとおして神に叫び求め、悔い改めて神に帰ることがなかった。

神はモーセをとおして祝福とのろいの契約を与えられ、選びの民イスラエルが、生ける神、主の御声に聞き従わず、モーセをとおして与えられた神の律法を守り行なわないならば、様々なのろいが臨む警告をしました。

自然現象に見える様々な災害は段階的に起こり、災害の度ごとに悔い改めて神に立ち返る機会を与えられ、警告を思い起こすためであったことを述べ、それにも拘わらず、イスラエルは警告を無視し続け、最後に、アモスは民に「神に会う備えをせよ。」と呼びかけたのです。

ヘブル書には、天と地とそのうちにあるすべての創造者である神の真理、神の愛を受け、神が差し伸べられる救い、御子イエスキリストが十字架の上でわたしたちの罪の洗い清めのために流された血を汚れたものと見做し、御子を踏みつけにし、恵みの御霊を侮る者が、どんなにか重い刑罰に値するかを考え、もし、このように神を拒否し続け、生ける神の手の中に陥ることが恐ろしいものであると述べられています。(ヘブル書10章26-31参照)


使徒パウロは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されることを述べています。

すべての人が生ける創造者である神について知り得ることを知らされていると宣言しています。神の目に見えない本性、神の永遠の力と神性は世界の創造された時から被造物によって知られ、はっきりと認められ、人々には弁解の余地がありません。それにも拘わらず、人々は神の真理に逆らい、神によって造られた被造物を神とし、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなった、と述べています。そして、人々は自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまった、と宣言しています。(ロマ書1章18-23参照)

わたしたちは被造物を見て、そのデザインの素晴らしさ、精巧さ、緻密さ、広大さを観察することができます。それらの精巧で美しい被造物のデザインを観て、はじめにそれらをデザインされた創造者、神の存在を容易に認めることができます。
はじめに偶然から偶然の積み重ねによって、無から有が生み出され進化したというより、はじめに、神が天と地とそのうちにあるすべてを創造されたということのほうが、より論理的な存在の説明であることは明らかです。

しかし、創造者である神の存在とその創造の業を否定し、偶然の積み重ねによる進化の過程がすべての事象の前提であるという欺きに、多くの人々が惑わされています。
神に似せて神が人を創造されたことを否定し、神の真理より人が作り上げた想像上の物語や理論や概念によって生命や生命体についての説明をしようとしています。そして、人はそれらを科学と呼んだり、哲学と呼んだりしています。

彼らは自分を知者であると称し、完全で真理の方である創造者のことばよりも愚かな人の作り上げた論理を信じています。

使徒パウロは、このことについて次ぎのように続けて述べています。

「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」(ロマ書1章25-32参照)


わたしたちは死を免れることができません。
そして、すべての人が神の裁きの前に立ち、申し開きをしなければなりません。

人は必ず一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定められています。(ヘブル書9章27)

神の裁きの前で、完全で欠点のない、正しいとされる人は誰一人存在しません。
すべての人が、人を創造された神の意志よりも、わたしたち自身の意志を優先させ、神の意志に背こうとする罪の性質を持っています。
わたしたちは、神の裁きの前に、神からの栄誉を受けることができず、罪から来る永遠の死、滅びを報酬として受け取ることになります。(ロマ書3章23、ロマ書6章23)

しかし、神は御子を信じる者がひとりも滅びることなく永遠のいのちを得ることのできるために、御子を世に賜り、十字架の上で血を流された御子の罪の贖いによって、わたしたちの罪を帳消しにしてくださいました。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためでした。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれているのです。(ヨハネ福音書3章16-18)

神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ロマ書6章23)

アモスは「主に会う備えをせよ」という警告の呼びかけをしています。この警告は誰も聞き流すことのできない最も逼迫(ひっぱく)した警告として真剣に受け止めるべきです。

もし、主にお会いする備えなしで神である主の前に立つならば、それは、永遠の死、滅びを意味します。

賢い人々は、神ご自身が差し伸べられた救い、イエスキリストを自分の救い主と信じ人生を主イエスと共に歩み、永遠のいのちの実を結ぶための備えをします。

永遠の死、永遠の滅びを刈り取るのか、永遠のいのちを得るものとなるのかは、わたしたちひとりひとりの人生の選択です。

わたしたちは、キリストの裁きの御座(第二コリント書5章10参照)にせよ神の白い裁きの御座(黙示録20章11参照)にせよ必ず裁きの御座の前で神にお会いし、申し開きをすることになります。

すべての人が、必ずいつの日にかすべてを創造された神の御前に立つ時がきます。

「主にお会いする備えをせよ。」というアモスの呼びかけに答え、永遠のいのちを得るものとなる唯一の道は、イエスキリストが流された血が、自分自身の罪を贖うためのものであったことを、わたしたちが信仰によって受け入れることです。 



 
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