キリストの地上再臨

第二テサロニケ人への手紙2章5-7


「主の日」は、栄光のキリストが 福音とキリストの再臨を信じ神の希望の約束を信じて生きた人々のために、すなわちキリストの花嫁である教会のために 来臨し、教会を引き上げられる(このことを携挙と呼んでいます。)時から、神の怒りの時期、すなわち患難の七年間の時の後に 栄光の主、キリストが御国を継ぐものとされた人々と共に地上に再臨され、その後に、回復され、新しくされたこの世を千年の期間 主が治められる期間、この全体の期間のことを指しています。

神の怒りの時、患難の時代が人類に訪れることは確かです。

しかし、イエス・キリストの贖いを受け入れる人々が携挙され、地上からいなくなり、背教のことが起こり、不法の者、滅びの子が出現するときまで患難の時代にはなりません。

なぜなら、不法の者があらわれることを阻止しているものが取り去られるまでは、本格的な神の怒りの時が訪れることはないからです。(2テサロニケ 2:6ー7)

すなわち、キリストの福音を信じ、聖霊の灯火を心に燃やし続け、神の希望の約束である花婿としてのキリストの来臨を信じるすべての人々がこの世からいなくなり、その結果、この世の人々が完全に創造者である神の救い、キリストを否定しこの世にキリストの代わりに人々を救うと称する、不法の者、滅びの子が出現しないかぎり、「主の日」にはなりません。


終わりの日の預言を見ると、イエス・キリストに信頼する者が携挙される時と 本格的に世界を巻き込む戦争と人類の患難がはじまる時は、ほぼ時を同じくしていることがわかります。

携挙が突然、一瞬におこり、携挙された人々が天上の神の御座の前で、栄光と賛美に満ちた時を迎え、神の子羊キリストが封印を解かれると同時に、神の御怒りが地上に注がれます。

携挙が起こり、キリストが再臨されるまでに人類の迎える患難の時がどのようなものであるかについては、黙示録6章から18章にも詳しく描かれています。

その時になると、人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去り、人々の心は自分の欲に捉われ、むさぼり合いますが、欲望を満たすことができず、うらやんでも手に入らないために暴力がはびこり、人殺しが横行し、国と国は相争い合い、世界的規模の戦争状態が続き、この世が世界を巻き込んでゆく戦争と人類にとって最も悲惨なヤコブの苦難の時を迎えます。 

そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難がある。もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

ここで述べられている選ばれた者というのは、ヤコブの民、イスラエルの選ばれた者であることに注意してください。この悩みの時、患難についての預言は、よく注意するとイスラエルの国家と民に対しておもに向けられていることがわかります。

この時代は、すべてが滅びに向かい、この世に生き残る希望のない時となります。

神は、そのような中にあって残る者をイスラエルのなかから選ばれます。 
聖霊の導きに信頼して歩む人々がこの世から取り去られた後で、聖霊は主にイスラエルに臨まれます。


キリストの贖いを拒絶する世に向けられる神の裁き、怒りの時について、選ばれた者、聖徒のために患難の日が少なくされており、選らばれた者、聖徒とこの箇所で言及されているのが、神の契約の民、イスラエルの民であることについて触れましたが、このことを理解するとき、神の怒りの時を以って、「主の日」がはじまることを理解することができます。

神が祝福の約束であるメシアをアブラハムの子孫としてこの世に送られた時、イスラエルの民、民族はその指導層、王も大祭司も議会もメシアであるイエスを拒否し、妬みのゆえに人々を癒し、慰めを与え、餓える人々にパンを与え、希望の奇跡を行われ、完全な義を行い、まったく無実のイエスをローマの手によって十字架に架けてしまいました。

さらに、使徒パウロがイエスが約束されたメシアであることを伝える福音の伝道の旅を続けたときにも
多くのユダヤ人たちは反抗し、パウロの伝道を邪魔し、イエスがメシア、キリストであることを受け入
れようとしませんでした。

現在でも多くのユダヤ人たちは、旧約聖書を熟知しているにも拘わらず、イエスをメシア、キリスト、
自分たちの救いであることに関心を持たず、認めていません。

それにも拘わらず、神はアブラハムに約束された土地、子孫、祝福の契約が、変わらないものであること、それらの約束が文字どうり成就することを確認されています。

異邦人に福音を伝えるよう召された使徒パウロは、ローマ人に宛てた手紙のなかで、イスラエルの民が神の選びと召しの恵みを受けることは変わることがないことを確認しています。

「 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。
兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。
彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ローマ人への手紙11章5,6、25,26、28,29、参照)

神学者のなかにもイスラエルの民が神の救いであるイエスを拒否したために、神の祝福の約束はイスラエルから教会にとって変わったのだと主張する人々がいます。このような神学は、置換神学とよばれています。

しかし、救いが人の行いによるのではなく恵みによるものであるように、イスラエルの民にたいする神の祝福、一方的な選びと恵みは変わらないものであり、神の恵みが抽象的なものではなく、具体的、現実的なものであることを聖書は約束しています。


旧約聖書の預言には神の祝福から離れ 荒廃してゆくイスラエルが、神の御計画によって回復されてゆくことが一貫して述べられています。

栄光の繁栄を享受したイスラエル、ユダ王国がバビロニア帝国による侵攻によって捕囚となったエゼキエルの預言には、栄光の神の幻がエルサレムの神殿から去り、エルサレムが崩壊滅亡し、イスラエルの民ユダヤ人たちが散らされ、後の日になってイスラエルの民が再び集められ、イスラエルが再び回復し、エルサレムの神殿に栄光の神が戻られるまでの壮大なイスラエルの民と神の御計画、神の栄光についての預言が一貫して述べられています。

それは、神の栄光が神殿から去り、エルサレムの神殿や城壁が滅び、ユダヤの民が国家を失い、捕囚となり、イスラエルの民、ユダ王国の偶像礼拝、神への背きに対する裁きが行われるいう預言でした。

エゼキエルは、バビロニア帝国のネブカデネザル王がユダ王国に2度目に侵攻したとき(紀元前597年、列王記下24章11-16参照)、他の多くの同胞とともにバビロニアに捕囚となりました。

おそらくエゼキエルが30歳の頃に、捕囚となったユダヤの民が集められたケバル河の辺で、栄光の主の幻を見(紀元前593年)神からのことばをエルサレムの同胞の民と捕囚となった同胞の民に伝えました。

神がエゼキエルをとおして予告されたことばは、大部分が違いなく歴史的な事実としてすでに成就しています。

エゼキエルは、バビロニア帝国軍の三度目のエルサレム侵攻によって、神殿が焼失し、ユダ王国が滅亡(紀元前586年)することを預言し、国家が滅亡し民が捕囚となり、世界中に散らされるという預言 が現実のものとして成就してゆく紀元前586年頃を境として、このような状態にあっても神のイスラエルの民にたいする慈しみは変わらず、神がアブラハムに約束され、イスラエルの民に与えられた祝福が変わることがないという励ましを述べています。

ユダヤ人がカナンの地に紀元前516年帰還を許され、町と城壁を建て直せという勅令がペルシャの王によって出され、帰還を許されたユダヤ人たち、ネヘミア、ゼルバベルによって神殿が再建され、ヘロデによって拡張されたエルサレムの神殿に人々を救うメシアとして来られたイエスが入城されたのは歴史的事実でした。

しかし、ユダヤ人はイエスをメシアと認めず、イエスは十字架に架かられ、この神殿も紀元70年ローマ軍団によって崩壊され、エルサレムの城壁は再び崩されました。

このために、イスラエルの民、ユダヤ人たちは、バビロニア捕囚から帰還し、神殿が再び建てられ、国家が回復した後も、再度先祖からの土地を失い、国家としてのアイデンティティーを失いました。

エルサレムは荒れ果てた廃墟となり、シオンの山々の地は木々の緑が無くなり、文字通り見捨てられた町々となり、何世紀もの間、地は荒れ、草木が枯れ、石だけが転がった土地となりました。

世界中に離散し流浪の民となったユダヤ人たちは、約二千年の時を経て、神が約束された地に戻りました。

エゼキエルは、ずっと終わりのときにイスラエル王国とユダ王国の民がユダヤの民として再びひとつに集められ、イスラエルが一つの国として回復し、神の霊がイスラエルの家に注がれ、神の栄光がエルサレムの神殿に再び注がれることが約束される。ことを詳しく預言しています。

エゼキエル書には、終わりの時代に、神がどのようにイスラエルの家を回復し、ご自身の霊を再び注がれるのか、その時が何時なのかについての預言が述べられています。

長い期間イスラエルの地は荒れ、草木の生えていない石の多い荒地でしたが、シオンへの回帰を目指す中東欧地域に散在していたユダヤ人たちが19世紀当時オスマントルコ領であったシヤロン渓谷、ヤロン河流域のマラリア蚊の生息する湿地帯の土地を購入し、この地域から今まで不毛の地であった地域への開墾が行われ、緑が植えられ、ガリラヤ地方一帯から地中海沿岸のメギド平野に散在するマラリヤになる蚊の生息する澤地の開墾がされ、緑豊かな土地が回復してゆきました。
そして、農作物、特に果樹栽培が盛んになり、エゼキエルをとおして36、37章で預言されているように、イスラエルの地の回復が歴史的現実のものとなりました。

38章からは、イスラエルの土地が回復し、国家が回復をした後に起こることが預言されています。

この38書の預言にはイスラエルが国家として独立再建された後に、メシュクとトバルの大君、マゴグの地のゴグがペルシヤとクシュとプテとともに、ゴメルと、そのすべての軍隊、北の果てのベテ・トガルマとそのすべての軍隊、それに多くの国々の民によって久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる民を攻めることが述べられています。 

この聞きなれないマゴグ、メシャクとトバルの大君、とは一体現代のわたしたちとどのような関係のある民族、国家、人々なのでしょうか。

歴史家のヘロドトスは、コーカサスの山々、黒海、カスピ海の北方地域を含む広大な領域をマゴグの地と呼んでいます。
メシュクは現在のモスコー、トバルは歴史家のヨセフスによってモスコー地域の人々の子孫であるとされ、古代アッシリアの記録もこれを裏付けています。

マゴグ、メシュクとトバルの大君は、これらの研究から現代のロシアに居住する人々、国家に該当するということができます。

さらに、ペルシャは現代のイラン、エチオピア、リビア、プトは現代におけるエチオピア、ソマリアの地域、及び北アフリカのリビア、アルジェリアを含む地域、ゴメル、トガルマは、東ドイツ、ポーランドの地域、アルメニアの地域、或は、古代イスラエルの史家ヨセフスの記述にゴメル、トガルマが当時のカッパドキアの人々、すなわち現代のアーリア人を指すとされていることから、トルコ、又はトルコ系の民族の国家と考えられます。

エゼキエルをとおして預言されたイスラエルの国土の回復、国家の再建が歴史的現実となった現代の世界において、38章、39章に述べられている預言、イスラエルに対するロシア、イラン等の国々による突如の侵略戦争が起こり、神の霊がイスラエルの家に注がれる時が近づいていることは間違いありません。

39章からは、終わりの日に、イスラエルの国土を回復し、国家を再建され、イスラエルの国の民をロシア、イランなどの侵略軍が壊滅状態となった後に、エルサレムの都は再び回復し、神殿が再建されイスラエルの家に再び神の霊を注がれることが約束されています。

先にも触れたように、聖書の預言は、イスラエルの民が散らされ、多くの日が過ぎて、イスラエルの民が多くの国々の民の中から連れ出され神の約束された地に住むようになる終わりの時に、ロシアを主体とする一時期前のソビエト連邦に含まれる国々、イラン、北アフリカのイスラム国家群、トルコなどの国々が、同盟を結んで突如イスラエルに大軍を侵攻し、侵略戦争を起こすことが、述べられています。

この大軍はイスラエルの北方から侵攻し、多分核兵器によるイスラエル軍との交戦状態になるのだと思われます。この戦争で、ロシア、イランをふくむ北方からのイスラエル侵略同盟軍は、兵器、兵力に圧倒的に優る大軍にも拘わらず、神ご自身が介入され緒戦で致命的な敗北を喫します。(エゼキエル38章8-23)

このときには、多分イスラエル、エジプトを縦断する地溝帯を中心とする世界的規模の大地震が起こり、イスラエル侵略同盟軍が混乱を起こし同士討ちをすることによって致命的敗北を喫することが38章19節から21節に預言されています。

この結果、侵略軍の6分の1を残して壊滅状態に陥り、彼らに火が放たれ、イスラエルの家は、その国をきよめるために、七か月かかって彼らを埋める、ことが述べられています。

この様子は同時に世界中の国々が目撃し、創造者である神が主であることを、多くの人々が知るようになることが23節に預言されています。

このイスラエルに対する大規模な侵略戦争と侵略同盟軍の壊滅によって、世界中が混乱状態に陥り、すべての国々が世界大戦争へまきこまれてゆくことは避けられない状態になります。  

この回復されたイスラエルへのロシア、イラン、トルコなどの同盟軍による侵略戦争と同時期か、それ以前にイエス・キリストの十字架の贖い、神の愛の御手を受け、聖霊の導きのなかに、キリストを主とし、信頼して生きる人々が、突如この世から携挙され、この世界を巻き込む混乱状態は、より加速的なものとなるでしょう。


イスラエルの民とエルサレムの神殿に関して、「イスラエルの民のなかから、咎を終わらせ、罪に終わりを告げ、不義を贖い、永遠の義をもたらすメシアが出現し、メシアは断たれ、きたるべき君の民は、町と聖所を滅ぼし、その終わりが洪水のように臨み、そしてその終わりまで戦争が続き、荒廃が定められている」ことが預言されています。

この預言はイスラエル統一王国が、ダビデ王の子ソロモンのときに絶頂期を迎え、その後北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、イスラエルがアッシリア帝国によって紀元前722年に滅ぼされ、その後ユダ王国が最後の王、ゼデキアのとき、バビロニア帝国のネブカデネザルによって紀元前586年にソロモンの神殿は崩壊させられ、エレミアが預言したようにその70年後、紀元前516年、バビロニア帝国を滅ぼしたメード・ペルシア帝国のクロス王によってユダヤ人帰還許可の勅令が発せられた頃、ユダ王国から捕囚となった若い貴族の一人ダニエルによってイスラエルの都エルサレムと神殿に関して述べた預言のなかに述べられています。

ダニエルは、イスラエル以外の民、異邦人の時代についての預言と、イスラエルの民を中心とした神の国の到来についての預言を述べています。

ダニエルは、イスラエルの民の捕囚の期間が終わった後で、その後に同胞である民の行く末について、神に度々祈り、栄光のイエス・キリストの幻を見るという体験をしています。(ダニエル書7章13-15節)

イスラエルの民と、エルサレムの神殿に関する預言は、ダニエル書9章24節から27節に述べられており、ダニエルの70週の預言とよばれます。
この驚くべき預言の内容について、多くの学者たちが研究し、取り組んできました。

ダニエルが述べた数々の預言のあるものは、既に現実の人類の歴史として数多く実現をしています。

既に実現したことばかりでなく、エルサレムの神殿と城壁に関する預言は、人類の救い、救い主の再臨、これからの人類の歴史に起こることについて理解する上で注目すべき預言です。

ダニエルは、あなたの民とあなたの聖なる都について、ある決められた時から定められている七十週の期間が過ぎたあとで、救い主、メシアによってそむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、再建された神殿の至聖所に油をそそがれた救い主、メシアによって神の国がこの世に到来する、という預言を聖書に記録しています。

ここで、「あなたの民とあなたの聖なる都」とは、イスラエルの民とエルサレムの都のことをさしており、この七十週の期間は、七週と六十二週、合計六十九週と残りの一週に分けられています。
イスラエルの民とエルサレムの都について、七十週の期間が定められ、それは、「とがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐ」ためだ、と述べられています。

この預言は、イスラエルの民とエルサレムの神殿に関して、ある決められた時から七十週、合計で490年の期間が定められ、その期間を経て、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、再建された神殿の至聖所に油をそそがれた救い主、メシアによって神の国がこの世に到来する、ことが預言されています。

この、ダニエルの預言でまず週と訳されているヘブル語の שׁבעה シャブアという言葉は、七の周期をあらわす言葉で、この場合7年を意味し、「あなたの民とあなたの聖なる都」とは、イスラエルの民とエルサレムの都のことをさしています。

イスラエルの民とエルサレムの都について、70x7年=490年の期間が定められ、それは、「とがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐ」ためと述べられています。

この490年の期間は、7週と62週の合計69週と残りの1週に分けられます。

この69週目(7週+62週)については、「エルサレムを建て直せ、という命令が出てから、メシアなる君が来るまでに、69週、すなわち、69x7年=483年の期間があることを悟れ」というのです。

「エルサレムを再建せよ。」という勅令が出た日は、アルタシャスタ王の20年ニサンの月が、それに該当します。
この日は、アルタシャスタ王の献酌官であったネヘミアが、神殿の城壁の修復を願い出て許され王の勅令によってエルサレム城壁の修復をはじめた日でした。
イスラエルの民の帰還を許可するアルタシャスタ王からネヘミアに勅令が出された日が起点となって、救い主がこの世に来られ、神の国がこの世にもたらされるということが預言されています。

この、アルタシャスタ王の20年ニサンの月が、太陽暦で正確にいつなのかについて、イギリスのグリニッチ天文台の調べによって、BC445年3月14日に該当することが解明されています。(“The coming prince” Sir Robert Anderson,1841-1918の著作 参照)
このBC445年3月14日を起点として、それから69週、太陰暦で483年目、(旧約聖書では太陰暦、一年は360日が使われ)483x360日=173,880日は、太陽暦で、西暦32年4月6日に該当します。この西暦32年4月6日こそ、イエス・キリストがろばに乗ってエルサレムに入城し、ご自身をはじめてメシア、救いの君であることを公にされ、群衆からホサナ、ホサナという歓呼で迎えられた日に該当します。

預言のとおりエルサレムを再建せよという勅令が出された日から1日の狂いなく69週目にイエス・キリストは群衆の歓呼に迎えられ、王としてエルサレムの神殿に入場されました。(ルカ福音書19章28-44 参照)そして、その数日後メシアなる君キリストは、預言されたとおり十字架の上で断たれました。

バビロニア帝国に滅ぼされたユダ王国、イスラエルの民がエルサレムへの帰還をペルシャの王によって許され、町と城壁を建て直せという勅令がでた日から数えて、69週目に 修復されたエルサレムの神殿にイエスがご自身を群衆にメシアであることを示されて入城されたのは歴史的事実でした。

そして、この69週目の直後に、油そそがれた者は断たれ、そのメシアには、何も残らず、やがて来るべき君主の民によって、エルサレムの町と神殿が破壊され、その終わりには洪水が起こる、と述べられています。

町と城壁を建て直せという勅令がでた日から数えて、69週目に 修復されたエルサレムの神殿にイエスが、ご自身を群衆にメシアであることを示されて入城され、その直後にメシアは十字架の上で「断たれ」、ネヘミア、ゼルバベルによって再建されヘロデ王が拡張した神殿はローマ軍団によって崩壊され、エルサレムの城壁は再び崩されました。

こうして、「エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。
その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。」というダニエルの預言は、69週目までの部分については歴史的に成就しました。

この箇所の預言は、古代世界を制覇したローマ帝国によって、イスラエルの民は洪水のあふれるように散らされ、神殿とエルサレムの城壁は荒廃すると言う意味に解釈され、それは、文字通り、イエス・キリストの十字架と復活、紀元70年にローマの将軍タイタスの軍団によって、エルサレムの城壁が崩され、神殿が崩壊し世界中に離散して流浪の民となった歴史的事実によって実現し、イスラエルの民、ユダヤ人たちは、先祖からの土地を失い、国家としてのアイデンティティーを失いましたました。

このために、エルサレム神殿と城壁についての預言の最後の一週、70週目、すなわち最後の7年間の預言は中断されてしまいました。

二十世紀に世界が大戦に巻き込まれ、特にそれまでヨーロッパに散在していたユダヤ人に対してヒトラーのナチスドイツによる大量虐殺の歴史を経、、多くのユダヤ人が神の約束された地に戻り、いままで死語となっていたヘブル語を国の公用語として復活させました。
そして、国連の決議によってはじめてイスラエルが国家として認められ、1948年5月14日、現地時間で午後4時、デイビッド・ベン・グリオンは、「ユダヤ人が一国の国家となる事は、他の国家同様に、ユダヤ人の当然の権利である。それゆえ、今日、我々は厳粛な集会を開いている。ユダヤ人の当然で歴史的な権利により、また国連決議により、我々はここに、パレスチナにおけるユダヤ人領土、イスラエル国家の設立を宣言する。」と国家としての独立宣言をしました。
通常、その国の民が土地を失い、国家としてのアイデンティティーを失った後で、再び同じ土地に戻り、民族としてのアイデンティティーを回復することは考えられません。この事自体、すでに奇跡としか言いようがありません。

1967年にエルサレムの町がイスラエルに奪回されたことによって、ダニエルの70週の預言の「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル書9章27参照)という最後の部分の預言が、実際に成就して行くお膳立てが整いました。

そして、ダニエルのこの70週の預言の最後の部分は、「彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。(ダニエル書9章27参照)ということばで結ばれています。

この預言のなかで、最後に述べられている、やがて来るべき君の民、彼こそはキリストに似て非なる君、反キリスト、不法の者、獣と様々な名で呼ばれるサタンの化身ともいうべき人物です。 

さらに、最後の一週の7年間に出現する、「君」は、多くの者と契約を結び、神殿を再建し城壁を修復し、7年の半ばまで神殿に犠牲のささげ物を捧げ、3年半の時点でこれらの儀式を止めさせ、自分が神殿において神であることを宣言し、神殿を荒らす忌むべきものとなるというのです。

その後、この「君」と、彼に支配され従うすべてのものに絶滅がふりかかり、定められた70週の後、「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義がもたらされ、至聖所に油が注がれる」メシアが来られ、永遠の義がもたらされる、というのです。


聖霊の導きに信頼して歩む人々が携挙され、この世から取り去られ、この世の人々が創造者である神を完全に否定し、イスラエルの北方からロシア、イラン、トルコ、エチオピア、リビア、などの大軍が突如イスラエルに侵攻し、この大軍が神の奇跡的な介入によって壊滅状態に陥り、世界中が混乱状態になった後、この混乱を治めるような指導者としてダニエルが預言した、やがて来るべき君の民、が登場します。

世界中が混乱状態に陥った時、旧ローマ帝国の領土、ヨーロッパ同盟国のなかから、この世界の不安と混乱を解決する人物が登場します。(ダニエル書2章41-43、7章7,20-21、黙示録13章1-7)

彼は、天才的な政治力によって、世界中に和平条約を結ばせ、特にイスラエルとイスラム圏諸国の和平の象徴として、エルサレムの神殿の丘にユダヤ人たちが待望していたソロモンの時代の神殿の建設を認め、多分わたしたちが現在見ることのできる岩の神殿の隣に神殿が築かれるでしょう。

彼こそはキリストに似て非なる君、反キリスト、不法の者、獣と様々な名で呼ばれるサタンの化身ともいうべき人物です。

この人物は、世界平和を期待する人々から「平和の君」ともてはやされるでしょう。しかしこの人物こそ、先のダニエルの70週の預言で触れた「来るべき君」であり、「彼」こそが、「一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」という預言の箇所の中心的人物なのです。

彼は、天才的な政治力で、世界中が混乱に陥った状態の時に彗星のようにあらわれ、イスラエルとイスラム圏諸国との和平条約の締結を成功させるこの人物は、唯一の生ける神、イエス・キリストを拒否しつづける人々にとって、希望の星のような存在となるでしょう。

そして、彼は、先に見たダニエルの70週の預言の最後の一週、一年を360日とする7年の周期の期間、中東和平条約を成立させ、ソロモンの時代のようなユダヤ人待望の神殿の建設を認め、ユダヤ人の祭り(過ぎ越しの祭り、種なしパンの祭り、常素祭、常はん祭、安息日、仮庵祭、新月の祭り、など)を復活させるのです。

さらに、中東和平条約が結ばれた週の半ば、7年の半分、3年半、1260日目にこの条約を破棄し、ユダヤ人の祭りを止めさせ、自分が神であることを宣言し、世界中の人々に彼を神として拝むことを強要します。

彼は、世界的経済危機(すでにこの兆候は顕著に現れています。)のなかで、経済指導力を発揮し、人々から「平和の君」ともてはやされ、崇拝の的となります。

「彼」は、世界の経済、金融不安に対しても解決策を提供し、すべての物流、売買を数字による信用取引に変え、現金取引を廃止し、完全に金融とコンピューターを一体化したキャッシュレスの制度を整備するでしょう。

現金取引が廃止され金融機関に持っている口座を証明するために、人々は、カードや磁気テープの代わりに、情報が盗まれたり、他人と間違うことのないように、それらの個人情報をチップに入れ、このチップを自分の皮膚の下に埋め込むようになります。

そして、この「彼」によって、すべての金融経済制度がコントロールされ、獣の刻印を右手あるいは額に持たない者は殺され、物を売ることも買うこともできないという聖書の預言が現実のものとなります。

さらに、この「平和の君」は、携挙の起こった後で、信仰から離れ去り、宗教的偽善と背きのことがおこるなかで、世界中の宗教にかかわる指導者的人物をたて、この人物と互いに利用しあいながら、人々の魂や思いを宗教的コントロール下におき、人々の思いまでも管理し、世界中の人々を自分のマインドコントロール下におくことになるのだと思います。

神の御子イエス・キリストが、神のかたち、イメージであるように、人と全世界をその隷属下に置こうとするサタンのイメージといえるこの人物「反キリスト」は、世界の政治、経済、そして宗教指導者をも巻き込んで、特にイスラエルとの和平条約を破棄する終わりの3年半の期間、すべてを彼の支配下におこうとするでしょう。

「彼」の登場とともに、先にダニエル書の預言でみた7年の期間、彼に捉われ、支配されてゆくこの世に対するの神の怒り、人類の患難の時が本格的に訪れるのです。彼が中東和平を結びそれを自ら破棄するまでの3年半の期間の前半と後半を分けて、後半の3年半の期間を特に大患難の時代とよんでいます。

「彼」は、一時、暗殺の危機にさらされますが、奇跡的な回復を遂げ、自分のたてた一人の宗教指導者によって、彼自身が再建したエルサレムの神殿の至聖所に立ち、「彼」を神として拝むことがすべての人々に強要されます。「彼」を拝まない者は、すべて殺され、神殿の至聖所に自分の像を立て、ついには、世界中に自分が神であることを宣言します。(黙示録13章12-14)
この人物こそ、聖書の他の箇所で、「獣」、「反キリスト」とよばれる人物です。

聖書の預言が述べる「反キリスト」、ギリシヤ語のἀντίχριστος、 ἀντί と言う意味は、反対と言う意味と同時に似て非なるという意味がふくまれています。

神の御子イエス・キリストが、神のかたち、イメージであるように、人と全世界をその隷属下に置こうとするサタンのイメージといえるこの人物「反キリスト」は、世界の政治、経済、そして宗教指導者をも巻き込んで、特にイスラエルとの和平条約を破棄する終わりの3年半の期間、すべてを彼の支配下におこうとするでしょう。

「彼」の登場とともに、先にダニエル書の預言でみた7年の期間、彼に捉われ、支配されてゆくこの世に対するの神の怒り、人類の患難の時が本格的に訪れるのです。彼が中東和平を結びそれを自ら破棄するまでの3年半の期間の前半と後半を分けて、後半の3年半の期間を特に大患難の時代とよんでいます。
この時期に「反キリスト」は、イスラエルを地上から抹殺するためにあらゆる手段を用います。

しかし、この「反キリスト」の迫害によって、大勢のユダヤ人がイエスがメシアであったことに気付き彼らにリバイバルが起こります。

このときには、世界的な混乱状態と、この「反キリスト」「獣」によって独裁政治が行われるだけでなく、何十億もの人々が死に、世界を揺るがす地震が起こり、草木が破壊され、天から火が降り、地軸が変わり、地層がうねり、グランドキャニオンのような渓谷が突然出現したり、海と島とが陥没したりするということが起こります。(黙示録 8:7- 12)

さらに、人々は苦しみのあまり、死のうと思っても、死ぬことが出来ないというような、悲惨な状況が訪れます。(黙示録 9:6)

この「彼」、「獣」、「滅びの子」の独裁政権に対して世界中が今までにない混乱と破滅の時を迎え、7年目の終わりの時、人類は絶滅戦争に突入し、世界の十字路メギドの平野に中国、朝鮮などの東洋の軍団もふくむ、世界中の軍隊が集結し、メギドの平野一帯は血ぬられた戦いの場となります。この戦いはハルマゲドンの戦いとよばれています。(黙示録16章)

この人類の最終戦ともいえる絶滅戦のまさにそのとき、この地上にイエス・キリストが再臨され「そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐ」ということが現実のものとなります。 

毎日のニュースを見ても、人々がますます自分中心、利己的になり、金を愛し、大言壮語し、不遜になり、神によって創造されていることを忘れ、神を汚し、両親には従わず、感謝することを知らず、ポルノや汚れた思いに満たされ、情け知らずになり、和解することをせず、人をそしり、節制がなく刹那的になり、粗暴で善を求めることをせず、裏切り、間違いを認めず曲がった者になり、慢心する者となり、神の警告を無視し自分の快楽だけを求め、見えるところは誠実に見えても実のない者となっており、多くの場合、イエス・キリストの救いを真剣に受け止めることをしません。(2テモテ 3:1-5)

イスラエルに向けられている聖書の預言、世界の情勢、この世の状態、多くの人々の心の状態を見るとき、まさに世界はイスラエルが国としての安全保障を整えているときにロシア、イラン、トルコをはじめとする同盟国家がイスラエルへの侵略戦争を起こさざるを得ない世界情勢を迎え、キリストの福音を信じ、聖霊の灯火を心に燃やし続け、神の希望の約束である花婿としてのキリストの来臨を信じるすべての人々がこの世から携挙されて突如いなくなり、この世界を巻き込む混乱状態の結果、この世の人々が完全に創造者である神の救い、キリストを否定し、この世にキリストの代わりに人々を救うと称する、不法の者、滅びの子が出現し「反キリスト」が表舞台に登場する時を迎えているということができます。 

このように、聖書の預言が現実に歴史のなかで成就してゆくのを見ることで、わたしたちは、神の慈しみ、約束、神のことばが人の思いを超えて必ず現実に文字通り成就し、キリストが地上に再臨され栄光の神の国がこの世にもたらされることを一層、確信することができます。

そして、わたしたちひとりびとりが、神の恵みであるイエス・キリストの十字架の贖いを受けとり、人生の様々な試練のなかでも人知を超えた平安と喜びに歩み、永遠の栄光に満ちたいのちの希望に生きる道を選択することが、より切迫したものであることがわかります。

キリストが地上に再臨され栄光の神の国がこの世にもたらされるのを目の当たりにするとき、イザヤが預言した、イエス・キリストの名がすべての人から文字通り「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられ、まつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれるということが現実のものとなります。

 


第二テサロニケ人への手紙

 

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