「主の日」と滅びの子

第二テサロニケ人への手紙2章3-4


神は、神のかたちに創られた人を限りなく愛されておられます。

それは、神の本質が愛だからです。そして、完全な愛の方は義を全うされます。

神は完全な義のかたであり、不義、背き、罪、神にたいするそしりに対して、それらを決して見過ごしにされる方ではありません。

神は聖であり、愛の方であるが故に 不義、背き、罪にたいして怒り、憤られ、公平な裁きをされます。不義、背き、罪は 滅びをもたらすからです。

神が、御子キリストをこの世に賜り、わたしたちが当然負うべき不義、背き、罪にたいする裁きを、キリストのうえに身代わりとして十字架の上で負ってくださったのは、まさにわたしたちが、神の御前で義とされるためでした。

キリストが、人々の不義に対する神の怒りのなだめの供え物として血を流してくださり三日目によみがえられたことを、単に歴史的事実として知るだけではなく、自分自身の救いのための神の愛、神の恵みであることを心から受け入れ、キリストを人生の主であると口で告白する人々には 栄光の神の前に義とされて立つことができ、キリストと共にすべての被造物を治めることのできる立場がすでに与えられています。

神は、神に信頼し、心を明け渡す者を、必ず試練のなかから救われ、裁き、怒りに定められることはありません。

神は、人を御怒りのために創られたのではなく、わたしたちが神に信頼し、神との意味のある愛の関係、交わりを持つためにわたしたちを創られました。

すべてを創造された神に背き、神から離れ、裁きに定められた人が神の裁きから救われ、神との意味ある愛の関係を持ち、この世が救われるために、神は御子をこの世に賜り、御子キリストの十字架によってわたしたちの神への背きにたいする裁きを完了してくださいました。

すべてを創造された神の御計画には狂いがなく、すべての人が神との愛の交わりにある完全な義に満ちた、わたしたちの想像を超えた栄光の神の国が現実のものとなる日が必ず到来します。

神は、あらゆる方法で人の心にはたらかれ、神の救い、わたしたちのためのキリストの十字架の贖いと復活の素晴らしさを知らされようとされていますが、それにもかかわらず、神の救い、神の愛の素晴らしさをすべての人が受け入れるとは限りません。

人が、生ける神を否定し続けると、どんなに神が手を伸ばし続けても、ついには神の愛、恵み、赦しの限界点を超えて自滅してしまうことがあります。

それは、神の愛が人に及ばないからではなく、人が神の愛と恵みを拒絶し続ける当然の結果なのです。
滅びは神によってもたらされるのではなく、人の選び取りによるのです。

人類は、いままでにも後戻りのできない不義、背き、罪を選び、そのような不義にたいする神の怒り、裁きを歴史的に体験しています。

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になり、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。」と言われ、地球全体を覆う大洪水によって、それまでに存在していた世界を裁かれました。

又、よく潤っていた肥沃なソドムとゴモラの地の人々が、よこしまであり非常な罪びとであったために、主なる神はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天から降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされました。

神からの患難、怒り、ということを見るときそこに原則を見ることができます。

それは、神の怒りは、神の警告、恵みの御手を拒否し続け、後戻りのない不義、罪に対して向けられるという原則です。   

神は、神に信頼し、心を明け渡す者を、必ず試練のなかから救われ、裁き、怒りに定められることはありません。

すべてを創造された神に背き、神から離れ、裁きに定められた人が 神の裁きから救われ、神との意味ある愛の関係を持ち、この世が救われるために、神は御子をこの世に賜り、御子キリストの十字架によってわたしたちの創造主である神への背き、罪にたいする裁きを完了してくださいました。

神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためでした。


聖書全体のメッセージを一言で言い表すことは容易ではありませんが、強いて、そのエッセンスを言い表すとすれば、それは、創造の神の愛による“再生”の御計画について書かれている書物であるということができるのではないでしょうか。

神ご自身の愛による人々のためのキリストによる救い、神の愛にも拘わらず、それを拒否する世にたいする裁きの時、天の万象が揺り動かされ、この世が一掃され、浄化される期間を経て、この世が神の御計画されたとおり、わたしたちが現在見ている世界から想像を超えた遥かに素晴らしい栄光の神の国が実現し、はじめに神が天と地とそのなかにあるすべてを創造され、人をご自身のかたちに似せて造られ、それらすべてが、「はなはだ良かった、」と記されているような状態に再生されててゆくことについて、すべてを創造された神の再生の現実の物語が聖書の歴史的メッセージであると言えます。

イエスはご自分が十字架に架かられる直前に弟子たちにオリブ山の上から黄金に輝きすばらしい石や奉納物で飾ってあるエルサレムの神殿を眺めながら、神殿の崩壊と、ご自分が十字架に架かられ、三日目に復活されることを弟子達に告げられ、そして復活後に起こることを預言されました。
このとき、終わりの日になると日と月と星には、前兆が現われ、キリストが花婿として花嫁を迎いに来られる、という譬えを話され、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、天の万象が揺り動かされ、神の救い、神の愛を拒否するすべての人々にたいする神の怒りの時、患難の時代が人類に訪れ神の国を地上に建てられるために、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのをすべての人々が見る日、「主の日」が到来することについても預言されました。

イエスが来られ、わたしたちの罪の贖いとして血を流され、十字架に架かられ、死んで葬られ、三日目に聖書の預言どおり復活され、天に昇り、また来られるという福音には、主がわたしたちと共に歩まれ、キリストはまた来て、私たちの肉体を栄光のからだに変えて、天国に連れて行ってくださるという確実な約束が含まれています。

救いの福音を聞いて、イエスを主として歩む人々には 神の国を継ぐ保証として約束された聖霊が押され、来臨されるキリストによって天に引き上げられるということが起こります。

使徒パウロは、テサロニケの人々に宛てて書かれた手紙で、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ個人的に受け入れ、困難な時代の中でイエス・キリストの再臨と、この世が贖われることを待ち望む人々が、天から下ってこられる栄光のイエスのもとへ一瞬のうちに、(人が瞬きをする千分の一以下の速度で)引き上げられ、キリストにあって、希望を抱いてすでに眠った人々と共に朽ちない栄光の姿に変貌するということを明言しています。

この一挙に引き上げられるという単語の原語、ギリシャ語(ハーパーゾ、ἁρπάζω の三人称未来形 ρπαγησομεθα ) は、ラテン語で ラプチュス、英語でRapture、と訳されています。英語のRaptureという言葉を日本語では携挙と訳しています。

人を中心とするこの世の終わりの時には、イエス・キリストの再臨と、この世が贖われることを待ち望む人々が、天から下ってこられる栄光のイエスのもとへ一瞬のうちに、(人が瞬きをする千分の一以下の速度で)引き上げられ、キリストにあって、希望を抱いてすでに眠った人々と共に携挙されると同時に本格的に世界中の宗教にかかわる宗教的偽善と背きのことがおこり、人々が信仰から離れ去り、自分たちの魂や思いを 偽の宗教的惑わしに委ねてゆくなかで、人々の魂や思いまでも管理する「滅びの子」があらわれます。

聖書は、神の救いを拒否し、魂と思いを「滅びの子」に委ね、「滅びの子」の不義にたいする神の怒りの時、「主の日」が到来し、7年間の患難の時代が到来することについて警告をしています。

聖霊の導きに信頼して歩む人々がこの世から取り去られ、この世の人々が創造者である神を完全に否定し、イスラエルの北方からロシア、イラン、トルコ、エチオピア、リビア、などの大軍が突如イスラエルに侵攻し、この大軍が神の奇跡的な介入によって壊滅状態に陥り、世界中が混乱状態になった後、この混乱を治めるような指導者としてダニエルが預言した、やがて来るべき君の民、が登場します。

世界中が混乱状態に陥った時、旧ローマ帝国の領土、ヨーロッパ同盟国のなかから、この世界の不安と混乱を解決する人物が登場します。(ダニエル書2章41-43、7章7,20-21、黙示録13章1-7)

彼は、天才的な政治力によって、世界中に和平条約を結ばせ、特にイスラエルとイスラム圏諸国の間に7年間の和平条約を結ばせ、和平の象徴として、エルサレムの神殿の丘にユダヤ人たちが待望していたソロモンの時代の神殿の建設を認め、多分わたしたちが現在見ることのできる岩の神殿の隣にその神殿が築かれるでしょう。
さらに、彼は、世界的経済危機(すでにこの兆候は顕著に現れています。)のなかで、経済指導力を発揮し、人々から「平和の君」ともてはやされ、崇拝の的となります。

この「平和の君」は、携挙の起こった後で、信仰から離れ去り、宗教的偽善と背きのことがおこるなかで、世界中の宗教にかかわる指導者的人物をたて、この人物と互いに利用しあいながら、人々の魂や思いを宗教的コントロール下におき、人々の思いまでも管理し、世界中の人々を自分のマインドコントロール下におくことになるのだと思います。

「彼」は、一時、暗殺の危機にさらされますが、奇跡的な回復を遂げ、自分のたてた一人の宗教指導者によって、彼自身が再建したエルサレムの神殿の至聖所に立ち、「彼」を神として拝むことがすべての人々に強要されます。「彼」を拝まない者は、すべて殺され、神殿の至聖所に自分の像を立て、ついには、世界中に自分が神であることを宣言します。(黙示録13章12-14)

この人物こそ、聖書の他の箇所で、「獣」、「反キリスト」とよばれる人物です。

聖書の預言が述べる「反キリスト」、ギリシヤ語のἀντίχριστος、 ἀντί と言う意味は、反対と言う意味と同時に似て非なるという意味がふくまれています。

神の御子イエス・キリストが、神のかたち、イメージであるように、人と全世界をその隷属下に置こうとするサタンのイメージといえるこの人物「反キリスト」は、世界の政治、経済、そして宗教指導者をも巻き込んで、特にイスラエルとの和平条約を破棄する終わりの3年半の期間、すべてを彼の支配下におこうとするでしょう。

この時代を聖書は大患難の時代と呼んでいます。

大患難の時代が人を中心とし、神の救い、恵みを拒否するこの世の終わりの時に訪れるのは、この世が一掃され、浄化され、新しくされ、神の選びの民イスラエルが回復され、わたしたちが現在見ている世界から想像を超えた遥かに素晴らしい栄光の神の国が実現するためです。

正確には「主の日」は、福音とキリストの再臨を信じ神の希望の約束を信じて生きた人々のために、すなわちキリストの花嫁である教会のために、教会を引き上げられる(このことを携挙と呼んでいます。)時から、神の怒りの時期、患難の七年間の時の後に 栄光の主、キリストが御国を継ぐものとされた人々と共に地上に再臨され、その後に、回復され、新しくされたこの世を千年の期間 主が治められる期間、この全体の期間のことを指しています。

イエスが預言され、旧約聖書にも様々に述べられているこの神の御計画、「主の日」は必ず実現します。

このことからも、イエスの預言、福音が、すべての人々にとって、それを聞いてキリストを人生の主として歩み、栄光の主、キリストと共に御国を継ぎ、治めるにふさわしい者とされる約束を信じ、聖霊の灯火を心に燃やし続け、神の希望の約束である花婿としてのキリストの来臨を待ち望むことのできる励ましであることがわかります。

わたしたちは、滅びの子の出現に恐れと不安を抱いて人生を歩むのではなく、聖霊の灯火を心に燃やし続け、神の希望の約束である花婿としてのキリストの来臨を期待し、与えられた人生をキリストにある確実な希望によって歩むのです。


第二テサロニケ人への手紙

 

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