「主の日」の始まるとき

第二テサロニケ人への手紙2章1-2


イエスは、十字架に架かられる数日前、オリブ山の上から黄金に輝きすばらしい石や奉納物で飾ってあるエルサレムの神殿を眺めながら、神殿の崩壊と、ご自分が十字架に架かられ、三日目に復活されることを弟子達に告げられ、そして復活後に起こることを預言されました。
この預言は、オリブ山の上の弟子たちとの問答としてマタイの福音書に詳しい記録が残されています。

このイエスの預言には、神殿の崩壊についての預言だけでなく、わたしたちが現在見る世界の終末についての預言が語られています。(マタイ福音書24章 参照)
イエスは、弟子たちに告げられた問答のなかで、キリストの花嫁である教会が、聖霊の灯火を心に燃やし続け、花婿であるキリストが 父なる神の家、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家の備え、場所を用意されて迎えに来られる日まで、絶えず祈り、気をつけて待ち続け、花婿であるキリストのもとに集められることを期待することの大切さについて、警告をされました。(マタイ福音書25章1-13 参照)

また この預言のなかで、キリストが栄光を帯びて来られ 神の国がこの世に建てられるときに、その前兆として様々な兆候を見ることが出来、花婿であるキリストが花嫁を迎え、地上に「主の日」が近づくこと、しかし、その日その時が何時になるのかは、誰もわからないことが告げられています。

復活の栄光のキリストに出会った使徒パウロは、イエスの十字架と復活が 人の罪の贖い、赦しであり、一方的な神の恵みであることを体験し、この 神からのキリストによる素晴らしい知らせを受け入れ、イエスを主として人生を歩むとき、イスラエルの民だけではなく、異邦人を含むすべての人々が 神の選び、救い、神の栄光、神の祝福を受け取ることができるという福音を、当時の全世界の果てにまで伝えました。

しかし、多くのイスラエルの民にとって神の選び、救い、祝福は、アブラハムやヨシュアのときから、イスラエルの民の証しとして割礼を受けることや、モーセによって与えられた神の律法を守り、神が定められたアロンのときからの、大祭司と祭司たちによる儀式や祭をとおしてイスラエルの伝統儀式、祭礼を守ってきた自分たちに特別に与えられたものだという特権意識がありました。

このために、福音を信じる信仰によって、すべての人が救われるという主張は、頑なにイスラエルの伝統と慣習に固執する ユダヤ人たちから反感を買い、彼らによってパウロは告訴され、囚われの身となりました。

パウロは、無罪を主張するために ローマ皇帝に上訴し、ローマで囚われの身となっている間に、イエスの十字架の死と復活が神の限りない人々への愛の証しであり、一方的なキリストによる神の恵みと愛による救いなのだということについて、多くの書簡を残しました。

これらの書簡のなかで イスラエルの民ばかりでなく、異邦人を含むすべての人々に救いの手が差し伸べられ、イエスがキリストであり主であるという信仰の土台に建てられる時代、恵みの時、救いの時ということについて すなわち、キリストの肢体、教会の時代について詳しく述べられています。

生まれながらに生粋のユダヤ人として生まれ 八日目に割礼を受け、若いときには当時のイスラエル随一の律法の教師、ラビ ガマリエルの門下生として、パリサイ派のイスラエル議会、サンヘドリンの一員であったパウロ自身、栄光の復活のキリストに出会うまでは福音の伝道に反対するユダヤ人たちと同様 イスラエルの伝統を厳しく守り、神からの救いはユダヤ人たちに特別に与えられるものだという心情を抱いていました。

そのために、イエスの十字架の死と復活を信じ、イエスがメシア、キリストであることを信じるだけで創造主である神の前に義とされるという人々を激しく迫害し、イエスがキリストであり主であるという信仰によってイスラエルの民ばかりでなく、異邦人を含むすべての人々に救いの手が差し伸べられるということは、パウロ(若いときのサウロ)にとっても信じ難いことでした。

そして、キリストの花嫁である教会の時代は、旧約の時代には知られていなかった奥義の時代であると宣言しています。

わたしたちは、現代まさに、福音を信じる信仰によって、すべての人が救われるという恵みの時、救いの時、すなわち、奥義の時代、キリストの花嫁の時代に生かされているのです。


使徒パウロは、キリストの十字架と復活、再臨を信じることですべての人が、復活の栄光のキリストの御前に立ち、神の恵みを受けることが出来ることをテサロニケの人々に、伝えました。
そして、第一テサロニケの手紙のなかで、福音を信じて生きた人々、再臨を体験することなくすでに眠 ってしまった人々を含めて そのときまで生きているすべての人々のために、栄光のキリストが来臨され、キリストの花嫁である教会を引き上げ、集められる瞬間(このことを携挙と呼んでいます。)の来ること、それが変わらない神の希望の約束であることを述べました。  

この第二テサロニケの手紙で パウロは、栄光のキリストのもとに集められる希望の約束を信じるテサロニケの人々に、「主の日」とキリストの再臨が起こってしまったという偽のうわさと誤解を正すために2章3節で、「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。」と述べて、背教のことが起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れないと、「主の日」は到来しないと述べています。

ここで、日本語で「背教のこと」と訳されているギリシア語の原語にはἀποστασία ap-os-tas-ee'-ah アポスタシア という言葉が使われ、英語訳でも、falling away, forsake.と訳されています。

しかし、この言葉は、元々はdeparture(離れ去る)という訳が正しい訳とされています。

さらに、原語のギリシア語のアポスタシアという単語は名詞として使われておらず動詞、しかも特定の動作を示す冠詞、theが使われた動詞、the departureと訳されるべきだと多くの聖書言語学者たちが解釈しています。

それ故に、この言葉は、精神的に一定の信条や信仰から離れ去るという意味に解釈するよりも むしろ単に「ある場所から別の場所へと離れ去る」という意味に解釈される言葉です。

従って、「背教のこと」と訳されている日本語は、「(キリストの花嫁が)決定的に(この世から)離れ去る、こと」と、訳すことが正しい理解であり、栄光のキリストの福音を信じ、聖霊の灯火を心に燃やし続け、花婿としてのキリストの来臨を信じるすべての人々がこの世から離れ去る、という意味に理解をすることができます。

すなわち、この箇所(第二テサロニケの手紙2章3節)で、使徒パウロは、テサロニケの人々に、キリストの来臨を信じるすべての人々が決定的にこの世から離れ去ること、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ個人的に受け入れ、困難な時代の中でイエス・キリストの再臨と、この世が贖われることを待ち望む人々が、天から下ってこられる栄光のイエスのもとへ一瞬のうちに、(人が瞬きをする千分の一以下の速度で)引き上げられ、キリストにあって、希望を抱いてすでに眠った人々と共に朽ちない栄光の姿に変貌する携挙-ギリシャ語(ハーパーゾ、ἁρπάζω の三人称未来形 ρπαγησομεθα ) 、ラテン語で ラプチュス、英語でRaptureーということが起こり、その後で、この世の人々が完全に創造者である神から離れ、キリストの代わりに人々を救うと称する、不法の者、滅びの子が出現しないかぎり、「主の日」にはならないと述べているのです。

この不法の者は、エルサレムに神殿を再建し、その後 イスラエルの民、ユダヤ人の完全な滅亡を試み、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して自分は神だと宣言します。

そして、創造者である神を否定し、差し伸べられた神の救いを拒否するこの世と、神の選びの民 イスラエルを滅ぼそうとする背きの者へ 神の怒りがあらわれます。

このときになると、日と月と星に前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、天の万象が揺り動かされ、この世が一掃され、浄化され、新しくされ、神の選びの民イスラエルが回復されるために惹き起こされる一定の患難の期間がはじまります。

神の怒りの時、患難の時代が人類に訪れることは確かです。
しかし、患難の時代は、イエス・キリストの贖いを受け入れる人々が携挙され、地上からいなくなるまでは訪れません。


使徒パウロは、この箇所で、「不法の者があらわれることを阻止しているものが取り去られるまでは、本格的な神の怒りの時が訪れることはありません。(2テサロニケ 2:6ー7)」とも述べています。

それでは、不法の秘密の力、不法の者の現れることを阻止し、引き止めている者というのは一体誰なのでしょうか。
それは、聖霊です。

聖霊の導きに信頼し、人生を歩む人々がこの世から取り去られるとき、不法の者を阻む者は、いなくなります。

すべての場所に偏在される聖霊は、この世から取り去られませんが、聖霊をうちに住まわせて歩む人々は、携挙の時にこの世から一瞬のうちにキリストのもとへ引き上げられます。
そして、イエス・キリストを主とし、聖霊の導きに信頼して歩む人々がこの世から取り去られた後、聖霊は主にイスラエルに臨まれます。

すでに説明したように、背教のことが起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れないかぎり、イスラエルを完全に回復するためのヤコブの苦難の時とも言われる一定の期間「主の日」は到来しません。

パウロは、それだから、困難に直面し、霊により、あるいは言葉により、あるいは偽の手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、「主の日」がすでに始まってしまったと思って心を動かされたり、あわてふためいたりしないように、と述べているのです。

そして、定められたヤコブの苦難の時とも言われるこの一定の期間を経て、イスラエルが完全な回復をし、栄光のキリストの地上再臨と共に、わたしたちにも神の国を治める約束が与えられています。

このイエス・キリストによる神の約束は確実で変わることがありません。

このことからも、わたしたちは、イエスの十字架の贖いと復活を信じるキリストの花嫁として、聖霊の灯火を心に燃やし続け、神の希望の約束である栄光の花婿であるキリストが迎えに来られ、わたしたちを集められる「主の日」のはじまりを期待し、神の国の栄光を目標に怠惰に陥ることなく、希望に満ちて人生を歩むように励まされています。

わたしたちは、キリストがイエスの十字架の贖いと復活を信じる人々をキリストの花嫁として、そのみもとに集められる救いのとき、恵みのときの最後の時、「主の日」の始まろうとするときに生かされています。

わたしたちは、主キリスト・イエスにおける永遠のいのちの確実な希望を自分のものとして歩み、聖霊の灯火をともし続け、人生を生きることのできる特権を与えられています。

キリストの十字架の贖いと復活が自分のための神の救いだった、ということを信じる人々には朽ちない栄光を受ける生きた希望が与えられています。

神は、すべての人が漏れなく神の救い、神の恵みを受け取るという選びをすることを願われています。

この 救いのとき、恵みのときを無駄にし、「主の日」の始まろうとするときに神の祝福から洩れることのないよう、わたしたちは、与えられている警告に耳を傾けるべきです。


第二テサロニケ人への手紙

 

a:286 t:1 y:0

powered by HAIK 7.0.5
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK