キリストが神の国の王として再臨される日

第二テサロニケ人への手紙1章10


天地万物を創造され、神ご自身に似せて人を造られた神にたいするわたしたちのそしり、背き、罪にたいする神の怒り、憤りは、すでにイエス・キリストの十字架上に注がれ、十字架の上で御子キリストは贖いを完成され、復活をされて多くの人々に現われた後で、天に昇られ御座におられ、人々の罪のとりなしをされています。

イエス・キリストの十字架の贖いは、それを信じ個人的に受け入れるすべての人に提供されています。

しかし、すべての人が、福音のことばを聞いてもイエス・キリストの十字架の贖いと復活を個人的に受け入れ、信じ、状況の変化にかかわらず、わたしたちの内に住まわれ、わたしたちの人生と共に歩み、導き、力を注いでくださる神の恵みと愛に対し信仰の歩みを続けるわけではありません。

イエスは十字架の贖いによって、この世を買い戻されましたが、わたしたちは、いまだに万物がイエスに服従するのを見ていません。

イエスは十字架によってこの世の闇の力を裁かれ、闇の力を支配するサタンの滅びを宣告されました。

サタンはすでに闇の力が破られているにも拘わらず、再びイエスがこの世に来られ、正当な神の国の王、平和の君として鉄の杖をもってこの世に君臨されるまでの期間、この世を奪おうとして人々の目を欺き、人々の心を肉の思いに引き込み、この世の支配に執着しようとしています。

このために、未だにわたしたちの見るこの世は、サタンの欺きに気付かず肉の思いに引き込まれる人々の背きによる様々な悲劇や困難が存在します。

わたしたちが現在見ているこの世は、すでに裁かれたサタンが、キリストが再び来られる「主の日」といわれる日までのあいだ、この世の支配に執着し、多くの人々の目と心を惑わし、福音の素晴らしさを虚しいものとし、欺こうとするあらゆる手立てを講じている期間でもあります。

この世の現実に目を移すとき、神がキリストの十字架と復活によって闇の力を打ち破り、わたしたちを栄光の光に満ちた神の国に移し替えてくださったにもかかわらず、いまだにサタンはこの世を支配しているように思え、この世の汚れ、暴力、災害や病苦などを見ます。

神は、復活のキリストに栄光とほまれとを冠として彼に与え、万物をその足の下に服従させて下さった。という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずです。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていません。

イエスは十字架によってこの世の闇の力を裁かれ、闇の力を支配するサタンの滅びを宣告されました。
しかし、サタンは再びイエスがこの世に来られ、正当な王として平和の君として君臨されるまでの期間、この世を奪おうとして人々の目を欺き、この世の支配に執着しようとしています。

わたしたちが現在見ているこの世は、すでに裁かれたサタンがキリストが再び来られる「主の日」といわれる日までのあいだ、この世の支配に執着している期間に当たるのだということを、わたしたちは理解しなければなりません。


本来、すべてを創造された神はご自身に似せて造られた人に、神が所有されているこの世を治める権利を委ねられました。
しかし人はサタンの誘惑に負けて、神によって委ねられたこの地上を治める権利をサタンに明け渡してしまいました。

人としてこの世に来られたイエス・キリストは神の子羊として、ご自身の流された血によって、この世を所有する権利を買い戻すための条件を完全に満たされました。

この世を買い戻す代価の支払いを完了されたイエスは、万物の所有権を証明する権利書を開くことの出来る唯一の方です。

復活され天に昇られ、御座におられる神の子羊イエス・キリストによって、この世の所有権、支配権を示す権利書の封印が解かれ、所有宣言がされる時が近づいています。 

イエスは、この世の支配権に固執するサタンに対し、すでに十字架の贖いと復活によって買い戻されたこの世の支配権を示す権利書の封印を解いて、所有宣言をされます。

ここで、旧約聖書に述べられている、大変興味深いイスラエルの財産の放棄と所有権の買戻しに関する律法に目を留めてみましょう。
イスラエルの民には、人がなんらかの事情で財産を放棄せざるを得ない状況になった時、本来の財産所有者が一定期間内に、条件を満たすことによって財産を買い戻すことが出来るという律法がありました。
それは、買戻しの条件を内側に、財産とその所有者を示す条項が外側に書かれた巻物を二通作成し、本来の所有者と財産を抵当としてとった者がそれぞれ一通づつを証書とし、封印をしたうえで保管しました。
本来の所有者が一定期間内に買い戻しのための条件を満たすことができれば、街の門で長老たちの立会いのもとで巻物を開き、買戻しの条件が満たされたことを確認したうえで、手放してしまった財産の所有宣言をすることができるというものでした。

この場合、たとえその財産を手放してしまった本人が、一定期間内に買い戻しの支払条件をみたすこと
が不可能な場合でも、本人の血縁者が本人の肩代わりをすることができ、このようにして、財産が家族のうちにとどまることを可能にするというものでした。
そして、通常決められている期間は六年間の終わり、七年目、七年の七倍、五十年目のヨベルの年が解放の年と定められていました。そして、財産を本人の肩代わりをして買い戻す人のことをゴエル、血縁の贖い主とよびました。
この一方で、もし血縁の贖い主がおらず、本人も一定期間内に買い戻しの条件を満たすことができなければ、財産は買い手のものとなり、もし財産だけでなく身売りをしなければならない場合、本人は奴隷の身分にいつまでも甘んじなければならないということが決められていました。
このイスラエルの財産買戻しの律法は、聖書全体の中で重要な意味をもっています。

何故なら、六年間の隷属と七年目の開放ということが、六千年の隷属と七千年目の解放といことにも当てはまり、人がサタンの誘惑と欺きによって委ねられたこの世の権利を放棄し、サタンに隷属するものとなってしまってから、この世の買戻しの支払いを済ませ、買戻しの権利を持つ、キリストによって所有権の宣言がされ完全な被造物の解放が実現することを示しているからです。

わたしたちが、聖書のことばに文字どうり信頼するとき、イエスがこの世を買い戻したことを証明し、所有権を宣言される、人がサタンの誘惑に負けて、神によって委ねられたこの地上を治める権利をサタンに明け渡してしまってから七千年目の被造物の完全な解放の時が目前であることが見えてくるのです。

この世の支配権を証明する権利書の封印は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、神の力に助けられ人生を歩む人々とキリストにある希望を抱いてすでに眠った人々が、共に朽ちない復活の栄光の姿に変貌し、天から下ってこられる栄光のイエスのもとへ一瞬のうちに(人が瞬きをする千分の一以下の速度で)引き上げられた後で(携挙された後で)、天上の神の御座の前で、栄光と賛美の時を迎えるとき、「ほふられた子羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、賛美とをうけるにふさわしい」という賛美の新しい歌が合唱されるなかで御座のキリストによって解かれます。(黙示録5章9,10参照)

このことは、神の激しい怒り、「主の日」患難の時がこの地上に望む前に、キリストにあって、希望を抱いてすでに眠った人々も、この地上でそれまで生きながらえている人々も、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、神の力に助けられ人生を歩んだすべての人々が共に朽ちない復活の栄光の姿に変えられ、天から下ってこられる栄光のイエスのもとへ一瞬のうちに引き上げられ、イエスと共に栄光の永遠のいのちを享受するときがごく近いことを意味しています。


天においてこの世の支配権を証明する権利書の巻物の封印が解かれると同時に、人の不信心と不義に対する神の怒りが、この地上に注がれ、これまで人類が体験したことのない神の(不義にたいする)怒りのとき、患難の時が到来します。 

イエスは、十字架に架かられる前に弟子たちに、イエスがこの地上に王として再臨される前にどのようなしるしがあるのかについて説明され、この世は人類が今までに経験をしたことのない破滅へと向かう期間、イスラエルを完全に回復するためのヤコブの苦難の時、「主の日」を迎えることを預言されました。(マタイ福音書24書14-28参照)

多くの人々が神の激しい怒り、「主の日」患難の時というとき、患難について、不義と神への背きに対する神の怒りのゆえにこの世に臨む患難と、福音を信じイエスを主として歩む人々が、イエスの名のゆえに受ける迫害、困難、患難とを混同することがあります。

「主の日」は本質的に神の救い、恵みを拒否し続けるゆえにこの世が一掃され、浄化され、新しくされ、神の選びの民イスラエルが回復されるために惹き起こされるものであり、この世の矛盾や困難とは区別する必要があります。

患難、神の怒りは、むしろ神に背く者がイエスを主とする人々にたいして向けた迫害にたいする厳しい神の裁き、怒りの日であり、イエスがメシアであることを拒んだ神の選びの民、イスラエルの民族が患難によって全て揺り起こされ、イエスがメシアであることに目覚め、回復されるために、神が定められたヤコブの苦難の時(エレミア書30章3-7、ロマ書9章11章 参照)だということを知る必要があります。

この期間はイスラエルの民と神の神殿が建てられたエルサレムの都について告げられたダニエルの預言どおり、七年の期間が定められ、(メッセージ「神の訪れの日」ダニエル書9章24-27、参照)
第二次世界大戦の時期にユダヤ人に向けられたヒトラーのナチス・ドイツの迫害以上の迫害がサタンの化身とも言うべき反キリストと呼ばれる世界の独裁者によって主にユダヤ人に加えられます。

正確には、「主の日」は、栄光のキリストが福音とキリストの再臨を信じ神の希望の約束を信じて生きた人々、そのときまで生きている人々、すなわちキリストの花嫁である教会のために来臨し、教会を引き上げられる(このことを携挙と呼んでいます。)時から、神の怒りの時期、患難の七年間、その後に栄光の主キリストが御国を継ぐものとされた人々と共に地上に再臨され、新しく回復されたこの世を千年の期間 主が治められる期間、全体の期間のことを指しています。


この地上における支配に執着するサタンとその惑わしを選び、神の恵みに背く者に対する神の激しい怒りの時期、ヤコブの苦難の時、すなわち患難の七年間の期間を経て主イエスは地上に再臨されます。 

わたしたちは、時にサタンが神に対抗する者のように思いますが、サタンは神の神聖さ、栄光、絶対的な力を侵すことはできないということを覚えておく必要があります。

サタンは、天において大天使ガブリエルやミカエルに対抗する力を与えられていたかもしれません。しかし、サタンはゲヘナと呼ばれる最終的な裁きの場所、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれる前に、キリストが地上に再臨されると同時に天から下って来た御使いによって一瞬の間に捕らえられ、千年の期間鎖につながれて底知れぬ所、地獄に封をされて閉じ込められます。

このとき、キリストは、炎の中に、天から現われ、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、神の力に助けられ人生を歩み、キリストにあって復活し人々が死んだ人もそれまで生き残っている人々もいっしょに雲の中に一挙に一度天の御座近く引き上げられた人々は、栄光にみちた子羊の婚宴に招かれた花嫁としてキリストと共に地上へ戻り、栄光の朽ちない身体をもって、地上に到来する神の国をキリストと共に治める者となります。

こうして、この箇所でも使徒パウロが述べているように「その日に、イエスは下ってこられ、聖徒たちの中であがめられ、すべて信じる者たちの間で驚嘆されるであろう――わたしたちのこのあかしは、あなたがたによって信じられているのである。」というみ言葉が文字通り成就します。

そして、その時には、地上に残っているすべての人々のすべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見、地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆くことが明記されています。(ゼカリヤ書12章10節)

わたしたちは、キリストが来られこの世の所有宣言をされ、この地上に神の国を建てられることを切に祈っています。

そのことを切望するからこそ、「あなたの御国がきたりますように。御心が天でおこなわれるように、この地上でも御心がおこなわれますように。」と常に祈ります。

キリストが再臨され、天から下ってきた御使いがサタンと悪霊となった天使たちを鎖に縛り、底知れぬ所の地獄で鎖につなぎ 封をして千年の期間閉じ込めてしまうときに、御国がきたり、御心が天でおこなわれるように、この地上でも御心がおこなわれるということが現実のものとなり救いが完成されます。

使徒パウロは、テサロニケの人々に「このためにまた、わたしたちは、わたしたちの神があなたがたを召しにかなう者となし、善に対するあらゆる願いと信仰の働きとを力強く満たして下さるようにと、あなたがたのために絶えず祈っている。」と述べています。

この祈り、「わたしたちの神があなたがたを召しにかなう者となし、善に対するあらゆる願いと信仰の働きを力強く満たしてくださるように」というパウロの祈りは、テサロニケの人々への祈りだけでなく、神がわたしたちを御子イエスによって恵みの栄光に召してくださり、文字通りイエスのことばに信頼して人生を送る人々への祈りであり、励ましでもあります。


第二テサロニケ人への手紙

 

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