救いの日 

(第二コリント人への手紙6章2)


すべてを創造された神は、宇宙のなりゆきについても、国家、民族の興亡についても、わたしたち一人一人の生涯についても計画を持っておられ、そのすべての詳細をご存知です。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っています。
そして、神はわたしたちが救われるべき時、わたしたちを創造された神に人生を明け渡し、聖霊の導きに従うべき時をご計画されています。

ソロモンは、伝道の書で、「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生きるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。」と、すべてに時があり、神がすべての時を定めておられることを詠んでいます。

この箇所でパウロは、神が救いのときを定めておられることについて述べています。

わたしたちは、聖書の預言をとおして、神が選ばれたイスラエルの民の救いの時、救いの日を決めておられるのを見ることができます。

紀元前538年ミード・ペルシア帝国最初の王ダリヨスの治世一年目にダニエルは預言者エレミヤが述べた主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを悟りました。
ダニエルが祈りを捧げているとき、幻のなかに大天使ガブリエルが現れ、エルサレムの都と神殿と城壁、未来のメシアに関わる預言が告げられました。
ガブリエルはダニエルに、「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。
あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
それゆえ、知れ。悟れ。
引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル書9章22-27)と、イスラエルの民とイスラエルの民の聖なる都に関わるメシア預言を告げました。

この預言は、イスラエルの民とエルサレムの聖なる都について、ある決められた時から七十週の期間が定められ、その後、救い主、メシアによってそむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油がそそがれ完全な世が到来する、という預言です。(ダニエルの預言解釈の詳細は、メッセージ“神の訪れの日


神は、ご自身がどのような方であるのかを示し、アブラハムを選び、イスラエルの民をとおして神の栄光と真実を世界の人々に知らせるすために、エジプトで奴隷であったイスラエルの民をイスラエルの子孫の一人、レビ族のモーセによって導き出され、イスラエルの民に祝福の契約を与えられ、律法を示され民を導かれました。
イスラエルの民が約束の地に定住し、イスラエル統一王国の王ソロモンのときに、エルサレムの都に神殿が建設され、この神殿が完成し、ソロモンが神殿を奉献したときには火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くし、神の栄光の臨在が神殿に満ちました。
エルサレムの神殿はイスラエルの民のうちに栄光の神が臨在されることを人々に思い起こさせるものでした。
神はイスラエルの民と共に臨在されました。しかし、彼等は、繁栄をもたらされ、祝福を与えられると王国が堕落し、神が預言者たちをとおして度々王国と民に警告したにも拘わらず、神に背いて偶像の神々に心を向けるようになりました。
神の律法から離れ、神に背き、偶像の神々に心を向けるようになった民は、王や民に対する預言者たちの警告にも拘わらず、神の預言を嘲笑し、警告に心を留めず、イスラエルの民と国家が修復不能な状態となり、国と民を完全な再建に至らせるためには「引き抜き、あるいは引き倒し、あるいは滅ぼし、あるいはこわされ」(エレミア書1章10)るという事態に至りました。

この預言の通り、ネブカデネザルの率いるバビロニア軍のエルサレム侵略によって(紀元前606年)、エホヤキムが王位を奪われ、代わりに王位を継いだエホヤキムの弟エホヤキンをはじめ、ユダの部族のダニエル、ハナニヤ、ミシャエル、アザリヤをふくむ王族、貴族たちがバビロニアへ捕われの身となりました。
さらに、バビロニア帝国のネブカデネザル王はユダ王国に2度目に侵攻したとき(紀元前597年、列王記下24章11-16参照)、他の多くの同胞とともにエゼキエルがバビロニアに捕囚となりました。そして、ユダ帝国ゼデキア王の時に、バビロニア帝国軍の三度目のエルサレム侵攻によって、神殿が焼失し、王国は滅亡(紀元前586年)しました。

しかし、神はこのようなイスラエルの民に、預言者エレミアをとおして「バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」(エレミア書29章10-11 旧約口語訳 参照)と、告げられました。

神が宣言されたとおり、ペルシアのクロス王によってバビロニア帝国によって捕囚となっていたイスラエルの民にエルサレムへの帰還を許可する勅令が紀元前538年に発令され、その二年後紀元前536年約五万人のユダヤ人が故郷に帰還しました。
さらに、ペルシア帝国の王アルタクセルクセス(アルタシャスタ)のとき、ネヘミアが勅令を受けて神殿再建、城壁修復計画のためにアルタシャスタ王の治世二十年のニサンの月、紀元前445年エルサレムに帰還し、エルサレムの城壁修復を完成させました。
ダニエルの預言のとおり、エルサレムを建て直せという命令が出された時、すなわち、ネヘミアがペルシア帝国の王アルタクセルクセス(アルタシャスタ)からエルサレム城壁の修復の勅令を受けた紀元前445年から数えて、六十九週、すなわち483年目に該当する紀元後32年にゼルバべル、ネヘミア達によって再建、修復され、王位を簒奪しユダヤ人たちを懐柔するためにヘロデによって神殿の改修と改築されたエルサレムの城壁を通って、イエス・キリストがろばに乗ってエルサレムに入城されました。

イエスが子ロバに乗ってエルサレムに入城されたこの日は、イスラエルの救いのために定められた特別な日でした。

イエスが進んで行かれ、オリーブ山のふもとに近付かれたとき、弟子たちの群れは「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」と、主の名を賛美し、イエスが天地を創造された神から来られた王であることを認めましたが、残念ながら自分たちが民衆の指導者、支配的な地位を失うことを恐れイエスを殺すことを決めていたイスラエルの指導者たちは彼らのために折角定められ訪れたイスラエルの救いの日、救いのときを拒絶してしまいました。


イエスは、イスラエルの指導者たちが彼らのための救いの日、救いのときを拒絶することによって引き起こされる彼らの悲劇を予知され、エルサレムの都が敵に囲まれ、都が混乱と食糧飢餓に陥り、仲間同士の殺し合い、子供たちを含む幾万の人々が死に、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残らないで滅びることを知って、彼らのために嘆かれ、エルサレムの都を見られ、その都のために泣かれ、「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」と言われました。

約束されたメシアとしてイエスがイスラエルの民のあいだに来られたのに、イスラエルの指導者たちは イエスが神の御子であり、救いをもたらされるメシアであることを拒否しイエスを十字架に掛けてしまいました。                                         
そればかりでなくイエスが復活され昇天され、約束された聖霊が降った後も、多くのイスラエルの伝統に従うユダヤ人たちは、イエスの贖いによって神が彼らの心に律法をしるされ、イスラエルの民が神の民となるという、エレミアをとおして預言された新しい契約を受け取るよりも、割礼や安息日を守るという自分たちの伝統や規則を重んじキリストに従おうとしませんでした。

神のことばを軽視し、神が差し伸べている救いのときを見過ごし「刈入れの時は過ぎ、夏もはや終った、しかしわれわれはまだ救われない」という状況に至るほど悲劇的なことはありません。

イエスの「おまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る」と言われたとおり、イエスがこのことばを発せられてから約30年後、パウロがコリントの信徒たちに宛ててこの手紙を記したおそらく15年のときを経ないで、エルサレムの都はローマの軍団に囲まれ、再建された神殿も焼失し、ユダヤ民族の人々は故郷を喪失し、世界中に散らされ、「油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。」というダニエルの預言も寸分の狂いなく歴史的な事実として成就しました。 


神は、その遠大なご計画のなかで救いのとき、救いの日をイスラエルの民に定めておられておられる様に、わたしたちの個人の生涯においても救いのとき、救いの日を定めておられます。

神は、ご自身の主権と選びによって、歴史をとおして御子によって神の栄光をあらわされ、祝福の契約を完成され、救いの計画を与えられ、律法と預言を成就し、栄光の神を礼拝することを教えられ、わたしたちがイエス・キリストの十字架と復活を信じて神の恵みを受け取るか、拒否するかをわたしたちの心に迫っておられ、その選択のときを定めておられます。

人を神に似せて創られ、キリストの十字架と復活による義の業によってわたしたちを罪から解放し、永遠の栄光に満ちた神の国のものとしてくださったという恵みの福音を聞き、それを受け入れるか、拒否するのかを決めなければならないという機会の訪れは、個人によって異なっているかもしれません。
神はわたしたち一人一人が生涯のうちで福音を選び取る、その日、その時を定められています。

聖書に、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。と、述べられているように、福音を聞いた「きょう」という日、そのときがわたしたち一人一人にとって創造の神が手を差し伸べられておられる救いを受け取る最後の機会かも知れないのです。

人を神に似せて創られ、キリストの十字架と復活による義の業によってわたしたちを罪から解放し、永遠の栄光に満ちた神の国のものとしてくださったという恵みの福音を聞き、わたしたちが、それを受け入れるか、拒否するのかを決めなければならないという機会の訪れは、個人によって異なっているかもしれません。

神はわたしたち一人一人が生涯のうちで福音を選び取る、その日、その時を定められています。

聖書に、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。と、述べられているように、福音を聞いた「きょう」という日、そのときがわたしたち一人一人にとって創造の神が手を差し伸べられておられる救いを受け取る最後の機会かも知れないのです。


使徒パウロがユダヤ人たちの陰謀によってローマのユダヤ総督ペリクスに訴えられ、福音の弁明、キリスト・イエスへの信仰、死人のよみがえり、正義、節制、未来の審判などについて論じたときにも、ペリクスの良心に神の霊がはたらかれたためにペリクスは不安を感じ、「きょうはこれで帰るがよい。また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」。と言って神が手を差し伸べられた救いの最後の機会を受け取ろうとしませんでした。

その後ペリクスはパウロを呼び出し何度か会っていますが、二度とよい機会、救いを受け取ることはなく、間もなく彼は皇帝の不興を買い、結局は非業の最期を遂げたとされています。

イザヤも「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。と述べ、パウロと同じように「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」と述べて、救いのときの機会を逃がすことへの警告をしています。

神の救いのみ手、恵みの福音を受け取らないのは、人がつくりだした神を拝むという偶像礼拝、自分の心のうちにある汚れ、偽善、欺き、高慢、自分を改めたくないと思う頑固が理由であり、そのような思いと行いは結局破滅に至ります。

このように、福音を頑なに拒否することにたいして、ヘブル人の手紙では「モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。
『復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ、また『主はその民をさばかれる』と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。」という厳しい警告が述べられています。

「きょう」という日が救いの日、神の恵みを受け取る時なのです。

それは、わたしたちに差し伸べられている罪の欺き、束縛、破滅から解放され永遠のいのちにいたる救いを受け取る最後の機会です。

このようなとき、サタンは人がサタンの支配から解放されることなく、罪の束縛にわたしたちがとどまり続けるため、わたしたちが神からの救いのみ手を拒否し、救いの日、救いのときが二度と訪れることのないように誘惑と惑わしによってわたしたちの心を麻痺させ支配し続けようと、わたしたちの心に最大の攻撃を仕掛けます。

もし地獄に堕ちた人々をみることができるとすれば、それらの最終的な滅亡にある人々は、神から差し伸べられた救いのみ手を拒否し続け最後の機会を逸し、生ける神との関係を絶ってしまった人々です。

モーセとアロンが、エジプトの王パロに、「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」と告げたとき、パロは、「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」と答えました。 

このパロにモーセとアロンをとおして神は様々な裁きの奇跡を起こされ生ける神を証しされましたが、パロは心をかたくなにしてモーセをとおして語られた神のことばを認めようとしませんでした。      

何度目かの奇跡を目の当たりにしても心をかたくなにするパロに、主がパロの心をかたくなにされたので彼はもはやモーセやアロンのことばを聞くことができなくなりました。

主がパロの心をかたくなにされた、というのは、パロが神のことばを否定し続けた結果、もはやどのような目に見える神の証しを目の当たりにしても神を受け入れようとしないパロの心の頑なさを神が確認されたということです。

神の霊は必ず人の心にはたらかれ、神の救いのみ手を差し伸べようとされています。

主がパロの心をかたくなにされたように、救いを受け入れることを拒否し続け、偶像礼拝、汚れ、偽善、欺き、高慢に頑固に留まるとき、神はそのような罪にたいする裁きの警告をされます。そして、神の警告をかたくなに無視し、生ける神との関係を絶って神を拒否するあなたのかたくなな心を神が確認され、救いの御手を受け取る最後の機会を逸してしまうときがあるのです。

わたしたちには、その日、その時が何時なのか明確に知ることはできません。しかし、明らかに神は一人一人が決断するべき最後の機会、祝福のみ手を差し伸べられる限界線のようなときや領域を決めておられるように思われます。

人の目には見えないこの限界線を超えてイエス・キリストにある創造の神の救いの手を拒否し続けるとき、神の愛と警告にも拘わらずその人は救いの最後の機会を逸し永遠の滅亡に至ります。 


パウロは、1節でも「あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。」と述べて神の差し伸べられている救いの手、イエス・キリストの十字架と復活の恵みの福音をいたずらに聞き流し、拒否することのないよう警告しています。
神の恵み、イエスの十字架によるわたしたちの神への背きの罪の贖い、赦し、過去のすべての汚れの清めが差し伸べられている 今日という日こそがわたしたちにとって救いの日、救いの時なのです。 

福音をどこかで聞いても、多くの人が創造の神や永遠のいのちの問題を真剣に考えるのはもっと歳をとってからにしようと言います。しかし、聖書は「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、」と述べて、神の霊がはたらかれるとき真剣に神のことばを受け取ることの重要さを強調しています。

イエス・キリストの十字架と復活の恵みの福音を聞く「きょう」という日、そのときがわたしたちの救いの日です。若い日にわたしたちを造られた造り主を覚え、救いのときに差し伸べられたみ手を受け取り、わたしたちを造られた神との交わりを深めることのできる人生ほど素晴らしい人生はありません。それは、永遠の天にわたしの宝を積む機会をより多く持つことができるからです。

パウロは、「神の恵みをいたずらに受けてはならない。」「きょう」という日、「きょう」という時がわたしたちの救いの日、救いのとき、だと宣言しています。
救いの日、救いの時は明日でも、次の週でも、来年でもなく、今なのです。わたしたちにとって「きょう」という日、「きょう」という時が神の愛、赦しを受け取る時です。



 

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