神からいただく建物 

(第二コリント人への手紙5章1)


聖書は、人のいのちの本質は肉体ではなくその人の霊であると宣言しています。
神が人を創造されたとき、土のちりで人をかたちづくられました。この時点では人は彫刻や精巧なロボットのように活力のないかたちでした。しかし、神が活力のないこのかたちにいのちの息を鼻に吹き入れられたときから、はじめて人は生きたものとなりました。
人の本質は霊であって、霊が宿る肉体を聖書は幕屋と呼んでいます。

使徒パウロは、この手紙で「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」と述べています。
                      
わたしという存在、わたしの感情、思いは、わたしの肉体を媒体として表現されています。
わたしたちは、肉体を仲介として自分自身を表現しているために、わたしたちの存在は目に見える肉体に関連付けられて思い起こされています。     
わたしたちの肉体は精巧な機械以上に精密にデザインされ、それぞれの目的に従って適切に機能し、肉体をとおして互いの関係を持ち、魂の交流を深めることができます。
わたしたちが互いを理解し、認め合い、尊敬し、愛し合うことができるのは肉体、あるいは肉体の機能をとおして互いの魂の思いを表すことができるからです。    
神は、わたしたちが意味のある互いに愛し合う関係を持つものとしてわたしたちを創造されました。

神が最初に定めた最も大切な人が持つ関係は、夫と妻の関係です。神は、「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。」と言われ、人が持つことのできる最も親密な関係は、創造者である神との関係を除いて男性と女性が一体となる夫婦関係を定められました。           
人は夫婦の関係をとおして深い霊と魂と肉体の一致を経験し、人生の喜びと悲しみを共有し、子孫を残し、家庭を築き、社会の核となる人間関係を持つことができまます。   
このような人間関係のなかでも本質的な霊の思い、意志、感情、心の思いは肉体をとおして表わされます。もしわたしたちが肉体の機能をもって思いや感情をあらわすことができなければ互いの関係を発展させることは困難です。

わたしたちは、肉体をとおしてわたしたちの感情、魂の思いを表現していますが、キャンプ地でテント生活を永く続けることが出来ないように時の経過やいろいろな事故、疾病、疾患によって肉体が衰え、人の魂、霊の思いを肉体をとおして表現することができなくなり、肉体は、はじめに意図され、デザインされた機能を果たすことが出来なくなります。
肉体が、はじめに意図され、デザインされた機能を果たすことが出来なくなると、人の本質である霊または魂はその人の肉体を離れます。

わたしたちは、幕屋、一時的なテントに住んでいるのです。わたしたちの本質的な霊の思い、魂の思いは、一時的なテント、肉体をとおして表現されます。しかし、わたしたちの肉体が本当のわたしなのではありません。

現代でも砂漠のベドウィン人やモンゴルの一部の遊牧民は居住のためのテントを一時的に張り、その場所からより豊かな放牧地を求めて家畜たちとともにテントを移動しながら生活をするという生活をしています。彼らにとってテントは重要な居住空間ですが、その場所で一定の目的を達し、時が来れば、次の目的地に移動します。
わたしたちは、この世での歩み、人生が一時的であって、やがて遅かれ早かれ次の目的地に移動しなければならないことを知っています。

わたしたちの一時的なテント、肉体がやがて擦り切れるとき、それは溶けてついに土に帰ります。  最初に人が欺かれ、誘惑する者のことばに従った妻のことばを聞いて、創造された神のことばに背く者となったときから人の肉体は滅び、土に帰る者へと定められたのです。                 

しかし、福音を自分のものとして受け入れ罪の贖いを完成されてよみがえられたイエスを信じ人生を歩む人にとって、肉体が滅び土に帰るときが来ると、その人の本質である霊、魂は次の目的地、神の下さる建物に住むことになります。そのとき、人の霊は宇宙のどこかを彷徨っているのではなく、贖われた人々の霊、魂は神の下さる建物に住むことになります。それは、土から取られた肉体とは異なる人の手によらない、天にある永遠の家なのです。 


イエスが弟子たちと共に最後の晩餐をされ、弟子たちの足を洗われてからこれから起こる十字架の予告をされたとき、弟子たちは心を騒がせ、イエスがどこへ行ってしまわれるのか不安に駆られました。 
このときイエスは、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」と言われて、イエスに従う人々のために場所を用意をする約束をされました。

イエスが約束されている父の家、新しくわたしたちに用意される場所は土からとられた肉体ではなく、神が用意してくださる栄光の新しいからだです。
 
この神からいただく新しいからだがどんなに素晴らしいものなのか、どのように栄光に満ちたものなのかはわたしたちの想像の域を超えています。

使徒パウロは、霊がからだから離れ、栄光の体験をした人のことについて、「 わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。
この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである―― パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。」(第二コリント人への手紙12章1-5)と,
第三の天にまで引き上げられ、栄光の体験をして再び地上の肉体に霊が戻った人も、その栄光の体験を口で言い表すことができない、人間が語ってはならない体験のなのだ。と、おそらくパウロ自身の体験を語っています。
これは、パウロが最初の伝道旅行でバルナバと共にガラテヤ地方のルステラからデルベに向か伝道の旅の途中で、ユダヤ人たちに扇動された群衆に石を投げられ、人々がパウロが死んだと思って、彼を町の外に引きずり出し、弟子たちがパウロを取り囲んでいる間に起き上がって町に入って行ったときの体験だろうと思われます。(使徒書14章19,20参照)

神が最初に土のちりから人を創造されたとき、このからだは完全であり、罪によってこの世が支配されるまでは、神はわたしたちの肉体も欠陥のない、素晴らしい機能を持つ完全な再生と代謝の機能を備え遺伝子にも汚れや欠陥のないより永続するものとして創られたに違いありません。
わたしたちのからだは遺伝子貯蔵の仕組み自体が汚染され、欠陥を持っており、わたしたち自身では制御不可能な先祖から劣性変異によって受け継がれた遺伝子と不完全な代謝と再生によって、歳を経るにつれ加齢によって衰え、滅びます。
聖書には最初の人アダムやその子孫の系図と何歳で死んだのかということが記されていますが、彼らが9百歳前後の生涯を過ごしたことを考えあわせても、それらの人々が現代に生きる人々に比べて遺伝子汚染は進んでおらず格段に優れた身体能力を備えていたことがわかります。

神から新しいからだをいただくとき、わたしたちの栄光のからだは、もはや汚染される遺伝子のない、疲れを知らない、素晴らしい機能をもった次元を超えて空間を自由に動くことのできる新しいものである筈です。

パウロは、一時的な肉体、テント、神からいただく栄光の新しいからだ、天にある永遠の家について、コリントの信徒たちに次のように詳しく説明しています。 

「天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。
死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
聖書に『最初の人アダムは生きたものとなった』と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。
第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。
すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。
兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(第一コリント人への手紙15章40-57)


イエス・キリストを信じるわたしたちは、イエスが十字架の上で流された血、イエスがわたしたちの罪のための贖いとなられたことで贖われたもの、新しいいのちに生きるものとされます。       
しかし、問題は、わたしたちが信仰を持って贖われ、わたしの霊は日々新たにされても、わたしたちが肉体をもって生きるかぎり、肉体は贖われておらず、肉の思いから完全には解放されていないという事実です。

わたしたちの肉体の欲求、息を吸い酸素の補給をし、水分の補給をし、食糧を摂取して栄養の補給をするという欲求、あるいは性欲も含めてわたしたちが肉体を持って生きるかぎりそれらの肉体の要求はからだから消えることはありません。           
これらの肉体の欲求はそれ自体罪ではありません。神は人を創造され、人のからだを土のちりから形づくられ肉体を与えられたときから、肉体を維持し、子孫を残すために、それらの肉体の要求を与えられました。
神は、それらの肉体の要求を人が玩具にして自分自身の快楽のために無分別に使うことを意図されたのではありませんでしたが罪によって人はそれらの肉体の欲求を誤って悪用し、神から与えられた自然の美しい肉体の要求そのものを醜い汚れたものに変えてしまいました。
神は人が神の真理を変えて虚偽とし、人を創造された神ではなく、被造物や人が造ったものを神とし、創造の神が与えられた自然の肉体の要求を誤って悪用し、恥ずべき情欲に任せるとき、その不自然な乱行の報いを人は受けることになります。

わたしたちは、イエスが完成された罪の贖いを信じ、自分の罪を告白し、悔い改めて神に立ち返るとき、自分の罪過と罪とによって死んでいたわたしたちの霊は、イエスの復活のいのちとともに永遠に生きるものとされています。

福音を信じイエスを主として歩む人々にとって、もはや肉体の滅び、死は罪の呪いではなく肉の要求から完全に解放されて神からいただく栄光の新しいからだを着ることができる祝福です。

このために、使徒パウロは、「なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。死のとげは罪である。罪の力は律法である。
しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」(第一コリント人への手紙15章40-57)と宣言しています。

使徒パウロは、イエスの贖いを信じ、罪を悔い改めてイエスを主として人生を歩もうとする人々が肉の思いと御霊の思いがわたしたちのうちでせめぎ合い葛藤するとき、完全な御霊の思いによって歩むことを切望しています。
そして、ピリピ人に宛てた手紙のなかで、「わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。              
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。
わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。
しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。」(ピリピ人への手紙1章20-24)と、肉体の滅び、死は、一時的な幕屋から、栄光のからだ、神から与えられる建物に移り、栄光の変貌をするむしろ素晴らしい祝福なのだと述べています。

さらに、ローマ人に宛てた手紙では「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。」(ローマ人への手紙8章22,23)と述べています。

わたしたちがこの滅ぶべき肉体にあって生きるかぎり、一時的な幕屋、テントに住んでいるようなものであり、イエスを主として信仰に生きる人々にとって、肉体の滅び、死は一時的なテントから、汚れのない口で言い表すことのできない素晴らしい栄光の光のなかで神が与えられる建物に移る祝福でありそのことを保証する御霊の最初の実を持っているわたしたちは、心のなかでうめきながら、からだが贖われてキリストと共にいることが願いなのだ。と、述べています。

旧約の時代にも古代イスラエル統一王国の王となったダビデは、詩篇23篇のなかでわたしたちの造り主である主との関係を持ち、主が牧者となってくださる人生を詠んで、わたしたちを主が養われ、導かれ、守られ、共に歩まれる人生が、いのちの日の限り、いつくしみと恵みが、わたしを追って来る人生だということを詠っています。そして、人生の最後に、たとえ、わたしの魂が肉体を離れ死の陰の谷を過ぎて歩んでも、目ざめるときに、栄光の主の 御顔を仰ぎ見、その御姿に満ち足り、永遠に栄光のなかに住まわれる父なる神の家に共に住むことになるという魂の告白をしています。

イエス・キリストを主として歩む人生は肉体から魂が離れるときも、神から栄光のからだを与えられて栄光の光のなかに、涙も悲しみもない永遠の神の国に住まう人生です。

わたしたちを創造された神はわたしたちを愛され、御子を十字架に架けてまでわたしたちが栄光の光のなかに永遠に新しい滅びることのないからだを与えられて主と共に神の国に住む道を開いてくださったのです。
神の愛を受け入れ、イエスを主として歩む新しい人生を是非選ばれることをお勧めします。  



 

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