キリストの凱旋 

(第二コリント人への手紙2章14)


神は、キリストの死と復活によって、かつてわたしたちを支配していた肉の欲望の虜ではなく、キリストの死と復活とともにわたしたちを新しい人とされました。       

使徒パウロは、福音をコリントの信徒たちに伝え、キリストの十字架の贖いと復活を信じた瞬間から、わたしたちが古い自分からキリストの支配に人生を委ねる新しい人へと変られているという思いによって人生を歩む大切さを強調しました。

しかし、コリントの信徒たちの間には異邦人の間にもないほどの不品行な者がおり、それらの不品行を許容することが寛容なことだとする信徒たちや、信徒のあいだに分裂や分派が起ったり、聖霊の働きについての誤解といった様々な問題が起こり、これらの問題に対してパウロはコリントの信徒たちに宛ててイエス・キリストに支配されて歩み、キリストにあって聖化され成長することについて手紙を送りました。(第一コリント人への手紙)

ところが、パウロが手紙を送った後も信徒たちのあいだにはパウロの述べたキリストにある自由と聖霊の導きによって聖化されることについてパウロの述べた聖書の基本的な教えをを受け入れる人々と、パウロを使徒として認めずパウロが述べているキリストにあって新しい人とされて歩む自由についての教えに必ずしも賛成しない人々との両極端な信徒たちが存在するという報告をテモテから受けました。
その後、パウロは伝えたことばがコリントの人々に福音として正確に伝えられたことを見届けるために、テトスをコリントに送り、マケドニアまで出かけそこでテトスからコリントの信徒たちが、パウロの述べた福音、教義が使徒の権威によって述べられた言葉としてコリントの信徒たちに受け入れられているという報告を受けました。

コリントの信徒たちに伝えた神の国の福音が人々に正確に伝わり、イエス・キリストの福音宣教のための努力が無駄なものではなく、キリストにある自由と聖霊の導きによって聖化されることについて聖書の基本的な教えが受け入れられているという報告をテトスから受け、この箇所でパウロはコリントの信徒に宛てて、「神は感謝すべきかな。神はわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。 」と、述べています。

ローマの軍団が戦いに勝利し、勝利の歓呼に迎えられて都にラッパの吹き鳴らす音とともに兵士たちが戦利品を戦車に載せ、敵を鎖に繋ぎこれらの捕虜を行列に加えてさらしものにし、白馬にひかれた黄金の戦車に乗って将軍が凱旋する全軍の行列とともに、誇らしげに都に入城行進し、貴婦人たちが行列にふりまく香料によって芳しい香りの漂うなかで壮麗な凱旋行進を行う様子をしばしば目の当たりにしていた当時のギリシャ人やローマ人にとって、パウロが「神はわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さる」と述べるとき、この手紙を受け取ったコリントの人々は、キリストの凱旋に伴われて、戦いに勝利し行進する兵士たちが凱旋の将軍に伴われて勝利の芳しい香りのなかを行進する光景を容易に目に浮かべることが出来たに違いありません。

パウロは、キリストの凱旋という表現を使っています。
わたしたちが信仰によってイエスに従うとき、将軍に従って都に入城する兵士たちのように勝利の行列に加わって凱旋し、キリストが罪への聖い犠牲の捧げものとなられ、祭壇に捧げられる犠牲の焼き尽くす捧げものが神にたいする芳しいかおりとなってくださったように、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを放って下さると述べています。

神は愛する独り子のイエスをこの世に送られ、すべての罪、人の汚れ、不品行、あらゆる偽善、心の欺き、自分の正しさに固執しようとする高慢さ、創造の神でないものを神として拝む偶像礼拝などのあらゆる思いと行いに対するわたしたちに向けられるべき裁き、神の怒りを、人の思いや方法を遥かに超えてわたしたちの罪の身代わりとして十字架の上でご自分の身に負ってくださいました。

キリストは、すでにわたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれ、復活されて勝利され、もろもろの支配と権威との武装を解除されました。

福音を自分のものとしてキリストを主として歩む人々は、凱旋の将軍とともに勝利の行進をする兵士たちのように、キリストの凱旋に伴われ、信仰の歩みに敵対するもろもろの敵をさらしものとしてその行列に加え、栄光に満ちた凱旋の列に加えられます。


イエス・キリストを信じ、聖霊にしたがって歩む人生の歩みが必ずしも順風満帆の歩みではなく、むしろ正しく生きようとする人々が人生で様々な試練に出会うことをわたしたちはしばしば見聞します。

凱旋ををするためには、それ以前になんらかの戦い、争い、闘争が存在したということが前提となります。
信仰によって人生を歩み、正しく生きようとする人々がしばしば苦難や試練にさらされるのは一体何故なのでしょう。

滅びるべきわたしたちの肉体が新しい栄光のからだに変貌し、キリストの凱旋に伴われるときまで、わたしたちの信仰の歩みには絶え間ない戦いが存在します。
信仰によって正しく生きることが、この世の苦しみや試練から免れることができるという約束は、聖書全体のどこにもされていません。
     
それどころか、イエスは十字架に架かりこの世を去られる直前、弟子たちに「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ福音書16章33参照)と述べて、イエスを信じ、神の永遠の御計画に信頼して正しく生きようとするとき、この世では必ずなやみと試練がある。という、わたしたちにとってあまり有難くない約束をされています。

パウロは、福音を受け入れ 贖われた人々が、神の国の民としてキリストの凱旋に伴われるために闘わなければならない争い、戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。と、述べています。

滅びるべきわたしたちの肉体が新しい栄光のからだに変貌するときまで、肉体を持ってわたしたちがこの世で生きるかぎり信仰の歩みには肉の思いや様々な欺きや敵対するものからの策略に出会い、それらがわたしたちの内に住まわれるキリストの霊とせめぎ合います。
この様に信仰によって生きる人々、正しく生きようとする人々にはこの世で苦しみや試練があります。    

わたしたちは、サタンの策略を知って、その欺きに惑わされないためにも、信仰の歩みのなかでわたしたちが戦うべき、この世、肉のうちにある罪、誘惑とキリストの霊とのせめぎ合い、という基本的に三つの相手について知る必要があります。

信仰の歩みのなかでわたしたちの戦うべき一つ目の相手は、「この世」です。

聖書は、「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。」と、述べています。
使徒ヨハネは、「この世」が何を意味しているのかについて、それは、すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、虚栄であって、それらが父なる神から出たものではなく、世から出たものであり、世と世の欲とは過ぎ去るが神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。と、述べています。聖書は、神に敵対し、神がわたしたちに望まれている、聖く、義とされる人生の歩みを阻み、わたしたちを誘惑の虜にする肉の欲、目に見える美しいもの、虚栄、を「この世」と述べています。

二つ目の相手は、「肉のうちにある罪の思い」です。
聖書は「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」と宣言し、わたしたちはその言葉を信じています。他の箇所では、「わたしたち、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された。」とも述べています。          
さらに、わたしたちは、全能の神がわたしたちに起るすべてのことを知られ、支配されておられることを信じています。

わたしたちの肉体は精巧な機械以上に精密にデザインされ、それぞれの目的に従って適切に機能しています。
わたしたちが肉体の渇きを覚え、空腹を覚えることは、生命を維持する上で必要な神の創造の素晴らしいデザインの一部であって、水分を必要とし渇きを覚え、空腹を覚え食欲が与えられていることは肉体を維持するための大切な肉の欲求です。
空腹を覚え、食欲を持っていること、肉体が生存に必要な欲求を覚えること自体は、善悪や罪の問題ではありません。
しかし、人が神のことばに背き、罪に支配される者となったときから本来霊の思いを表現するために創造された肉体は、霊が死んだ状態となってしまったために生物的な肉体の思いに支配され、神の霊と人の霊の思いが絶たれてしまい、生物的な肉体の思いが人の魂を支配するようになりました。
もし、神が御子を十字架の上で罪のための供え物としてわたしたちの救いのために犠牲となってくださるほどわたしたちを愛され、しかも神が全知、全能の方であるのなら、どうして信仰によって生きる人々、正しく生きようとする人々に苦しみや試練の起ることを許されるのだろう。という大きな疑問が湧きおこります。

人は肉体を維持するための生物的な自然の欲求を持っていますが、生物的な自然の欲求だけにわたしたちの魂、思いが支配されるとき肉体を維持するための生物的な自然の欲求は、肉体の欲求を満たすことに向けられ、肉のうちにある罪の思いは、不品行、偶像礼拝、姦淫、男娼、男色、盗み、貪欲、酒に酔い、人をそしり、略奪といった神の意図に真っ向から背く罪の行動となってあらわれます。

もし、わたしたちが生物的な肉体の維持と、肉体の欲求だけに捉われて生涯を過ごすなら、わたしたちが創造された本来の意味を満たすことなく人生を送るということになり、
そのような生涯は、恐れと悩み、不安に満ちたものとなります。
今までにも数々の病人を癒され、奇跡の業をされたイエスにマルタは、イエスがラザロの病気を癒すことのできる力を持っておられ、状況を支配され、兄弟ラザロの死による悲しみを避けることが出来た筈だという期待、揺るがない信仰を持っていました。
主は、主イエスに信頼する人々の悲しむ状況を避け、苦しみ、不都合、痛みの起ることを避けることが出来る力と権威を持っておられる筈です。

使徒パウロは、生物的な肉体の維持と肉体の欲求だけに捉われた状態について「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」(ロマ書8章6)と、述べています。

イエスが十字架に架かり復活されたのは、人の肉のうちにある罪の思いを十字架の上で裁き、滅ぼし、わたしたちを復活のイエスにあずかる新しい人とし、わたしたちのうちに死んでいた霊を生かし霊による神との交わりを回復してくださるためでした。
わたしたちは、神が何故そうされるのかということについて多くの場合本当のところは何もわかっていません。突然の災害や病によって愛する自分の子や配偶者を失うというような状況に遭うとき、何故すべてを可能にし、わたしたちを愛される創造の神がそのような悲劇の起ることを許されたのだろうという疑問に駆られます。

三つ目の相手は、パウロが「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊」と呼んでいるサタンとそれに従う悪霊たちの策略です。
わたしたちには、神がこの世のあらゆる矛盾、悲惨、死、滅びの中で、どのように正しい裁きを行われ、どのようにすべてを知られているのか、神のご計画のなかで御ことばの約束をどのように成就されるのか、その方法のすべてを窮めることはできません。

わたしたちには、サタンや悪霊と呼んでいる存在を目で見ることができませんが、聖書はそれらの存在をわたしたちと異なる次元で創造された神の被造物だということを述べています。
聖書には、わたしたちの目に見えない世界や、時間や空間を越えた存在がどのように創造されたのかについての詳しい記述はありません。
さらに、人とは次元の異なる被造物である天使が何時創造されたのかについての明確な記述もありません。
しかし、すべてを創造された神は、わたしたちの目でみることのできない世界、時間や空間を越えた次元で神の御座近くにあって神に仕える天使をも創造されました。
同様にイザヤも、主である神が「 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章8,9参照)と告げたことばを述べて、神のされる方法が人の思いや、やり方をはるかに超えたものであることを宣言しています。

イザヤ書の14章には、天の神の御座近くにあり、特別に聖別された天使の記述があります。
この天使は、天使たちの頂点に立って美しさと権威を与えられ、神を賛美する明けの明星とよばれました。ところが、この天使は、自分の美しさを誇り、神を賛美するかわりに、神の栄光を自分に帰して自分自身が神となることを望みました。 この大天使こそが永遠の滅びに定められ、天から堕ちたサタンであり、多くのこの世における人々の野望と、野望によって国々を征服しようというもろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊の背後にはたらいている闇の力の正体です。

完全なものとして神との交わりを持っていたにも拘わらず、最初につくられた人は、神のことばより、神に反逆をする者、サタンのことばを選びました。
サタンが最初に女を欺いたときのことばは、「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」というものでした。
これは、神が言われたことばに真っ向から反逆し、神との交わりのなかで神に似た者とされるより、自分が神になるという野心をそそのかすものでした。神のことばに信頼するよりも、神に反逆する者のことばを選び取った人は、神に反逆しただけでなく、神に反逆するサタンに隷属する者となりました。
これこそが罪の本質であり、すべての人がこの性質を持っています。
しかし、その場合わたしたちは、富や祝福を得るために神を信じ愛しているのか、神に揺るぎない信頼をおいてその信仰の結果富や祝福を与えられる神を愛しているのか、自分自身にも分からないということがしばしばあります。

神は、天使もこの世もわたしたちの肉体をも創造されました。しかしサタンは人を誘惑し、わたしたちが神の意図に逆らい肉体とこの世のものをサタンの隷属のもとに歩むものとしてしまいました。

イエスがこの世にこられたのは、この世をご自身に買い戻されるためでした。
十字架の上でイエスは息を引き取られる直前に「完了した。」(ヨハネ19:4)と言われました。
イエスは十字架の上でわたしたち一人一人の罪の代価の支払いを完了してくださいました。
すでにイエスの十字架によってサタンは打ち破られ、イエスはわたしたちの罪を完全に贖ってくださいました。

イエスの贖いを信じるすべての人は一時的なテント、仮の住まいである肉体が滅びるとき決して滅びることのない栄光のからだを与えられ、イエスがこの世を買い戻したことを証明し、所有権を宣言されるとき被造物の完全な解放が完成します。

神は、御子イエスによって、わたしたちがイエスの贖いを受け入れ罪の悔い改めをするとき死んだ状態であった霊を生かし、キリストの霊、聖霊が内に住んでくださり、生きた神との交わりを回復してくださいました。
しかし、現在、わたしたちのからだは栄光のからだに変えられておらず、イエスが地球の所有権を宣言され被造物の完全な解放がされてこの世が完全に神の国として贖われることをわたしたちは霊によって信じることができても現実のものとして見ていません。 


パウロは、神がわたしたちをキリストの凱旋に伴い、キリストによってわたしたちを勝利に導かれることを感謝しています。神は、どんなときでもキリストの凱旋にわたしたちを伴ってくださるのです。

第一コリント人への手紙のなかでも、同じように、「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」(第一コリント人への手紙15章57参照)と、述べています。

肉の思いと御霊の思いがわたしたちのうちでせめぎ合う体験をするとき、イエスが人としてどのように誘惑に会われ、すべての霊的戦いに勝利されているのかをわたしたちは知らなければなりません。
わたしたちもキリストの勝利の模範に倣うとき、魂を聖霊の支配に委ねて霊的な戦いに勝利することができるからです。

イエスが最初に会われたサタンの試みは、わたしたちが生きてゆく上での肉の領域に関わる誘惑でした。

サタンは、イエスにたいして、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と、言い、イエスに神の思い、意思より自分の肉の欲求を優先することを勧めました。
サタンは肉の欲求を霊の思いに優先させ、与えられている意思や知性、感情、肉体をとおして与えられている神のデザインを、神の意思や言われていることば、神との信頼関係よりも自分自身の満足のために使うように仕向けたのです。

イエスはサタンのこの誘惑にたいして「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(4節-5節)と、答えられました。
   
人の人生は、神のことばによって方向づけられ、神の意思を知ることができ、神に信頼し、霊の深い喜びを得、魂が満たされることができるのです。

人は単に肉体を維持し、肉の思いが満たされること以上に、神のことば、霊の思いによって魂が満たされることが重要です。

この誘惑に引き続いて悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」と言いました。
悪魔は、「あなたが神のことばがそれほど重要であり、信頼に値するのなら目を見張るようなことを人々に見せて、神のことばを証明したらよいではないか。神のことばに『まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。(詩篇91篇11-12) 』と書いてあるではないか。神殿の頂から飛び降り、御使いたちがささえるのを見れば群衆は目を見張り感服するではないか。」と、イエスを誘惑しました。
この誘惑にたいしてもイエスは、「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」と、御言葉によって答えられました。
わたしたちに分かっているのは、イエスを信じ続ける人々にイエス・キリストの十字架の贖いと復活によって、状況を超えた祝福と希望、永遠のいのちが確実に与えられているという約束です。     

イエスは、サタンが神のことばを神の栄光より自分の虚栄を満たすために引用したのにたいして、神のことばが神の栄光を褒め称えるものであるのに自分の虚栄を満たすために引用されてはならないと、を適切に引用して誘惑を撃退しています。
サタンは、わたしたちが無意味に神のことばを試し、自分自身に人々の注目を集めさせるという誘惑を仕掛け、人々から注目を浴びることと神の栄光を混同しようとします。 

サタンの最後の誘惑は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」というものでした。 

サタンは、イエスに、自分を否定し十字架への道を採らないでも国々とその栄華は差し上げよう。神が目的とされていることより、サタンを拝めばサタンが簒奪したこの世をイエスに渡そう、という誘惑を仕掛けたのです。

肉の思い、肉の欲望は、神が持っておられるご計画や神との関係よりも、常に自分自身の思いや要求を優先させます。

自分の思いや欲望の主張を否定することなど馬鹿げている。という誘惑は、常にこの世からの誘いであり、サタンからの欺きです。 

イエスはこの世に来られ、十字架に架かられ神の栄光をあらわされる最も重要な時が来たとき、弟子たちと最後の晩餐のあとでオリブ山に行かれ、ゲッセマネの園でひざまずいて、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。と、祈って言われました。

最も激しい歴史的な戦いは、このときに戦われた戦いでした。

イエスは、この戦いで苦しみもだえて、ますます切に祈られ、そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちました。しかしイエスは、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。と言われて、イエスご自身の思いを世の始まる前から神が決めておられた計画に従わせ、十字架の上ですべての人の罪の責めの裁きを負われました。

イエスがこの世に人として来られ、人としての肉の思いを父なる神の御計画、神の意志に従わせたとき歴史的な霊の戦いに決定的な勝利がもたらされました。


使徒パウロは、信仰にあって歩む人々に肉の思いと御霊の思いがわたしたちのうちでせめぎ合い、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反し、二つのものは互に相さからうことを述べています。
そして、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。と命じています。

肉の思いと御霊の思いがわたしたちのうちでせめぎ合うという体験は、イエスの贖いを信じ、罪を悔い改めてイエスを主として人生を歩もうとする人々が体験する葛藤です。 

聖霊の住まわれない人の魂は肉の思いに支配され、肉の思いと御霊の思いがわたしたちのうちでせめぎ合うということはありません。何故なら、サタンの隷属のもとにある人々はわたしたちを創造された神を否定し、肉の欲、目の欲、虚栄に満ちたこの世にあって良心が麻痺させられ御霊の思いがその人にはないからです。

信仰にあって歩もうとする多くの人々が肉の思いと御霊の思いがわたしたちのうちでせめぎ合い、わたしたちの魂を肉の思いに明け渡すとき、霊的な戦いの敗北感を味わいます。

信仰に歩もうとする人々が霊的な戦いに敗北感を味わうのは、イエスがあらゆる誘惑のなかで霊的な戦いに勝利されたことを本当に知らず、魂を肉の思いに明け渡してしまうからです。

イエスは、人は単に肉体を維持し、肉の思いが満たされること以上に、神のことば、霊の思いによって魂が満たされることを示されました。
虚栄を満たすために神のことばを引用し自分に注目を集めるという誘惑にも、神の栄光と人々から向けられる注目を混同されませんでした。
さらに、自分の肉の思いや主張を神の御計画に明け渡され、十字架の上でわたしたちの罪の贖いを完成されました。このために、神はキリストを死からよみがえらせ、わたしたちに滅びることのない栄光のからだが与えられるという現実の希望を与えてくださいました。

サタンはイエスによってすでに霊的な戦いに完全に敗北しています。わたしたちがこのことを知って誘惑に抵抗するとき、サタンはわたしたちの魂を肉の思いに隷属させる権利を持っておらず、人の魂を霊の思いに明け渡さなければなりません。

聖書は、「そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。」(ヤコブ書4章7、8参照)と述べて、肉の思いと御霊の思いがわたしたちのうちでせめぎあうとき、心を決めて誘惑に抵抗することの大切さを強調しています。

ヘブル人への手紙のなかでも、「 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。」(ヘブル人への手紙12章2-4参照) と、キリストがすでにわたしたちのためにサタンの誘惑を完全に打ち破られていることを覚え、わたしたちが誘惑に抵抗し打ち勝つよう命じられています。

勝利の鍵はキリストと共に歩むことを学び、神のことばを心に刻み、心を決めて誘惑に抵抗することです。そのとき、キリストはわたしたちが自分自身の力では出来ない超自然的なサタンに抵抗する力を与えてくださいます。

イエスはサタンの誘惑のすべてに勝利され、敵から戦利品を勝ち取られるために十字架に架かられ、復活によって栄光の勝利をすべての人々に示されています。サタンはすでに戦いに敗北した敵なのです。

使徒パウロは、わたしたちが、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ち、キリストの凱旋に伴われ神の国の栄光に満ちた喜びに肉の思いと内に住まわれるキリストの霊とのせめぎ合いのなかでキリストの凱旋にあずかるために、神の武具を身につけ、絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。(エペソ人への手紙6章13-18参照)と述べ、「あなたがたが最初の日から今日に至るまで福音にあずかっていることを感謝している。 そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」(ピリピ人への手紙1章5,6参照)とも述べています。

わたしたちが神のことばを心に刻み、心を決めて誘惑に抵抗し、聖霊の導きのなかに歩み続けるとき、キリストは栄光の勝利の凱旋にわたしたちを伴い、神の国の勝利の行進に必ず加えてくださいます。



 

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