キリストの苦難によって受ける慰め 

何故信仰によって生きる人々が苦難や試練に遭わなければならないのか。

(第二コリント人への手紙1章4,5)


イエスに出会い劇的な回心をしたパウロは、栄光のイエスからユダヤ人だけではなく異邦人を含むすべての人々に福音を伝える召命を受けました。 
ローマの極刑である十字架に架かり、復活されたイエスこそが、旧約聖書に様々に述べられている預言の成就であり、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての人々が、イエスの復活をとおして永遠の命の保証を与えられ、やがて成就する神の国の王としてイエスがすべての被造物を治められるとき、共に治める者とされる特権を与えられる、という素晴らしい福音は、パウロの伝道によってコリントの人々にも伝えられました。
多くの人々がパウロの伝道によって、福音を自分に与えられた神からの恵みとして受け入れ、コリントの地でも信徒たちが交わりの輪を広げるようになりました。
しかしながら、コリントの信徒たちのあいだには未熟な信仰のゆえに起る様々な問題とパウロがコリントの地を去ったあとで、イエス・キリストの福音を信じることはユダヤ人の伝統と律法を守ることでなければならないと主張し、パウロの使徒としての正当性を否定する人々、自分たちの教えによって信徒たちを惑わそうとする偽預言者、偽使徒たちがあらわれました。
このような状態にあったコリントの信徒たちに、パウロは、伝えた福音がパウロ自身の個人的な名を誇るためのものではなく使徒としての権威によって伝えた聖霊による神の言葉であり、伝えた福音や教義が正当なものであることを訴えました。
          
パウロのことを非難し、自分たちの教えを誇り、個人的な名声を得ようとする偽預言者、偽使徒たちによって信徒たちが惑わされず、福音を伝えるためにパウロ自身が多くの患難や試練に出会ったことこそがキリストの僕としての証しなのだだということを訴え、彼らがイエスの霊によって信仰の成長をすることを願い、この手紙をコリントの信徒たちに宛てて送りました。 


イエス・キリストを信じ、聖霊にしたがって歩む人生の歩みが必ずしも順風満帆の歩みではなく、むしろ正しく生きようとする人々が人生で様々な試練に出会うことをわたしたちはしばしば見聞します。

信仰によって人生を歩み、正しく生きようとする人々がしばしば苦難や試練にさらされるのは一体何故なのでしょう。

信仰によって正しく生きることが、この世の苦しみや試練から免れることができるという約束は、聖書全体のどこにもされていません。                  
それどころか、イエスは十字架に架かりこの世を去られる直前、弟子たちに「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネ福音書16章33参照)と述べて、イエスを信じ、神の永遠の御計画に信頼して正しく生きようとするとき、この世では必ずなやみと試練がある。という、わたしたちにとってあまり有難くない約束をされています。

聖書は他の箇所でも、「 いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける。」(第二テモテへの手紙3章12参照)とも述べ、使徒ペテロも手紙のなかで「 愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。」(第一ペテロの手紙4章12、13参照)と述べています。

この様に信仰によって生きる人々、正しく生きようとする人々にはこの世で苦しみや試練があります。    

この世で試練や苦しみに遭遇することが不信仰や、悪を行うことによって起こるものではないことは明らかです。
                             
ヘブル人への手紙には信仰によって人生を歩んだ雲のような証人のことが述べられています。  
多くの旧約聖書に述べられている信仰によって生きた人々、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた人々の名が挙げられた後で、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった人々、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った人々、あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた人々が挙げられ、この世で苦しみや試練によって信仰をあかしされながら約束のものは受けなかった人々が信仰の偉人として挙げられています。

苦しみや思わぬ試練に出会うとき、わたしたちはそれらが自分自身の欠陥や、人生の歩みにある自分自身の不正や不信仰によって起こるのではないかと思いがちです。
     
わたしたちが思わぬ苦しみや試練に遭遇させられるとき反射的に「一体自分は、このような災難や試練に出会うような何をしたというのだろう。」という疑問に駆られます。そして、自分のなかにある不信仰や過去に犯した過ちについて思い巡らし、犯した過ちや罪の結果、自分には苦しみや試練が襲って来たのではないかと思うのです。

しかし、聖書は人生の試練や苦しみが、そのような不信仰や過去の過ちの結果とは無関係に起り、正し く、信仰によって生きる人々も試練や患難を受けることを述べています。
信仰によって生きる人々、正しく生きようとする人々が、このようにこの世で苦しみや試練に出会うという現実は、イエスを信じ正しく人生を生きようとする人々にとって大きな疑問であり、信仰によって生きるということ自体にたいする大きなチャレンジとなります。
わたしたちを創られた神がわたしたちを限りなく愛されている。ということを信じるのであれば、そのような愛の神が、信仰によって生きる人々、正しく生きようとする人々に何故、苦しみや試練を与えられるのだろう。という疑問を持ちます。

聖書は「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」と宣言し、わたしたちはその言葉を信じています。他の箇所では、「わたしたち、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された。」とも述べています。          
さらに、わたしたちは、全能の神がわたしたちに起るすべてのことを知られ、支配されておられることを信じています。

もし、神が御子を十字架の上で罪のための供え物としてわたしたちの救いのために犠牲となってくださるほどわたしたちを愛され、しかも神が全知、全能の方であるのなら、どうして信仰によって生きる人々、正しく生きようとする人々に苦しみや試練の起ることを許されるのだろう。という大きな疑問が湧きおこります。

エルサレムに近いベタニアの村にイエスの愛しておられたマリアとマルタの姉妹、兄弟のラザロが住んでいました。イエスはエルサレムを離れ、ヨルダン川の向こう岸、洗礼者ヨハネが初めにバプテスマを授けていたアイノンという地域に滞在されていましたが、ラザロの病気が重くなったので、姉妹は人をイエスのもとにつかわして「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせました。この報告を聞いてもイエスはなおふつか、そのおられた所に滞在され、イエスがベタニアのマルタとマリアの姉妹のもとへ着いたときにはすでにラザロは死んで四日間も墓の中に置かれていました。大ぜいのユダヤ人が、その兄弟のことで、マルタとマリヤとを慰めようとして集まっていましたが、やっとイエスがこられたと聞いて、出迎えに出て行ったマルタは、イエスに、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。」と言って泣きました。     

今までにも数々の病人を癒され、奇跡の業をされたイエスにマルタは、イエスがラザロの病気を癒すことのできる力を持っておられ、状況を支配され、兄弟ラザロの死による悲しみを避けることが出来た筈だという期待、揺るがない信仰を持っていました。
主は、主イエスに信頼する人々の悲しむ状況を避け、苦しみ、不都合、痛みの起ることを避けることが出来る力と権威を持っておられる筈です。

神は何故神の愛を信じ、神の創造の権威を信じて正しく生きようとする人々が苦しんだり、試練に会うことを許されるのでしょう。                    
神は何故イエスを愛し、イエスに信頼するマルタやアリアが兄弟ラザロの死という悲劇に直面することを許されたのでしょう。

わたしたちは、神が何故そうされるのかということについて多くの場合本当のところは何もわかっていません。突然の災害や病によって愛する自分の子や配偶者を失うというような状況に遭うとき、何故すべてを可能にし、わたしたちを愛される創造の神がそのような悲劇の起ることを許されたのだろうという疑問に駆られます。

わたしたちには、神がこの世のあらゆる矛盾、悲惨、死、滅びの中で、どのように正しい裁きを行われ、どのようにすべてを知られているのか、神のご計画のなかで御ことばの約束をどのように成就されるのか、その方法のすべてを窮めることはできません。
    
何故神がそのような方法を採られるのかを知ろうとするとき、わたしたちはしばしば神がされることを理解できずに挫折感を味わいます。
使徒パウロも神の方法の測りがたい奥深さについて、「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。『だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか』。(ローマ人への手紙11章33-35)と、述べています。

同様にイザヤも、主である神が「 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章8,9参照)と告げたことばを述べて、神のされる方法が人の思いや、やり方をはるかに超えたものであることを宣言しています。

神が限りない愛の神であるなら、何故神は、神を信じ神を愛する人々をこの世の苦しみ、不都合、痛み、試練、悲劇から守られ、神の富と祝福で惜しみなく豊富に満たして下さらないのだろう。神を信じる人々が富と祝福で満たされるのを見て、より多くの人々が神を信じる者へと変えられるではないか、と思います。

しかし、その場合わたしたちは、富や祝福を得るために神を信じ愛しているのか、神に揺るぎない信頼をおいてその信仰の結果富や祝福を与えられる神を愛しているのか、自分自身にも分からないということがしばしばあります。


イスラエルの民がエジプトで奴隷の状態から解放されて荒野で四十年の間放浪の旅を続けたあとで約束の地に入ろうとするとき、民を率いたモーセは彼らが苦難の旅を余儀なくされた理由を、「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。」(申命記8章2参照)と述べています。
このモーセの宣言からも明らかなように、イスラエルの民が苦難や試練を受けたのは、イスラエルの民自身が自分たち自身の心を知り、自分たちの心が状況を超えて本当に神に信頼するものなのかを知るためであったことが述べられています。         

神がわたしたちを試みられるのは、神がわたしたちの心にあるものを知るためではなく、わたしたちがわたしたち自身の心にあるものを知るためです。

神はわたしの真実、心の奥底を知っておられますが、わたしたちは、わたしたち自身の心の奥底にある本当のわたし自身を知りません。                   

神は、苦難や試練の体験をとおしてわたしたち自身が自分の心の奥底の本当の思いを知ることができるために、敢えてわたしたちが試練や苦難を体験し、悲嘆のどん底を体験することを許され、その体験をとおしてわたしたちの信仰をさらに深められます。

苦しみや痛み、失望を味わうとき、わたしたちは選択に直面します。
わたしたちが想定外の苦しみ、痛み、失望する状況に追い込まれたとき、もし神がこのような状況の起こる事を許され、神の愛がこのようなものなのであれば、神の愛を信頼することはできない。という選択をするか、苦しみ、痛み、失望に陥る状況を神が何故許されるのか、神の方法がわたしたちの理解を超え、わたしたちには分からなくとも神がわたしを愛され、キリストにあって示された愛は変わることがないという選択をする二者択一の選択に迫られるのです。

わたしたちは、苦しみや痛み、失望、試練の只中に置かれるとき、もし将来の結末が本当に希望と喜びに満ちたものであることを知っていれば、自分たちが現在味わっている苦しみや悩みが和らげられ、試練を乗り越え、現在の苦しみが一時のものであり、苦しみや試練を乗り越えた後にはそれを忘れることができるだろう。と思えるのです。      
しかし、神はわたしたちが苦しみや痛み、失望、試練の只中に置かれているとき、必ずしもどのようにしてそれらの苦しみ、試練を、喜び、希望に変えられるのかをはっきりとは示して下さいません。  

わたしたちは、明日何が起るのか、どのような未来が自分には用意されているのか本当のところは分かっていません。

わたしたちに分かっているのは、イエスを信じ続ける人々にイエス・キリストの十字架の贖いと復活によって、状況を超えた祝福と希望、永遠のいのちが確実に与えられているという約束です。     

それゆえに、わたしたちには、試練や苦しみ、痛みのなかで失意のなかにあるとき、逆に余計イエスに信頼し、イエスだけが希望を開くことのできる唯一の道であることを体験することができるのです。


パウロは、福音を伝えるために、キリストの僕として多くの患難や試練に出会ったことをこの第二コリント人への手紙のなかで率直に述べています。

「苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。 幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。 」(第二コリント人への手紙11章23-30参照)

パウロが述べているのは、自分が苦しみや患難、痛みや状況を超えた試練に出会ったのは、同じような、苦しみや患難、痛みや失望する状況に状況に追い込まれた人々を心から思いやることが出来るためであり、そのことこそが自分がキリストの僕であることの証しなのだった、と語っています。                     

神は、人々にうわべだけではない心からの思いやりと慰めをを与え、福音とイエスに信頼することの本当の希望を人々に伝える為に、苦しみ、試練をとおして、試練に会っている人々に心から同情することのできる器と変えられるように、福音を伝える者を練られている、と述べているのです。

愛する人を失ったことのない人がどうやって愛する肉親や配偶者を突然失い、悲しみのなかにある人の心を知り、慰めることができるでしょう。有り余る富に恵まれ、困窮する経験の全くない人が、食べるものにも事欠き、日々の生活に困窮する人にどうやって心からの同情をすることができるでしょう。 苦しい体験、悲しみの体験を、イエスにある深い霊の希望によって慰めの体験をした人が、苦難の只中にある人々、悲しみにくれている人の心を本当に知り、神がキリストによって与えられる慰めと励まし、状況を超えた霊の慰めの希望を与えることができるのです。

神がキリストにあって状況を超えた悲しみや苦難のなかでも慰めと希望を与えられることを体験する人は、その慰めと希望によって同じように悲しみや苦難のなかにある人々を慰めることができるのです。
 
これが、パウロの宣言している「キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれている」ということの意味です。

人生の歩みにおいて、自分本位ではなく正しく生きようとする人々がしばしば苦しみや人生の試練に会うのを見聞するとき、最も正しく人々を救うためにこの世に人として来られたイエスご自身が人々の苦しみを担われ、十字架の試練に会われたことを思わずにはいられません。 

イエスは、十字架に架かられたとき「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれ、それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味でした。          
メシアの悲しみ、イエスの苦難については、イエスがこの世に来られる紀元前五百八十六年にユダ王国が滅ぶときに詠まれた「すべて道行く人よ、あなたがたはなんとも思わないのか。主がその激しい怒りの日にわたしを悩まして、わたしにくだされた苦しみのような苦しみが、また世にあるだろうか」(哀歌1章12参照)。という預言的なエレミアのことばのなかにもなぞらえられています。

最も正しい人、神の永遠の御計画を信じ、正しく生きようとする人々がこの世で試練に出会わないという保証はありません。
エレミアが哀しみのなかで詠ったように、より正しい人がこの世の人生の歩みのなかで他の人々以上に想像を絶するような苦しみや試練に出会うということは、歴史的な現実のようにも思えます。    

使徒パウロは、手紙のこの箇所で自分の体験をとおしてキリストの苦難がわたしに満ち溢れている、と述べています。

ヘブル人への手紙のなかで、この手紙の著者は、イエス・キリストがわたしたちの大祭司としてわたしたちが苦難や悲しみに会うとき、慰めと希望を与えられることについて、 「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」(ヘブル人への手紙4章15参照)と、述べています。

わたしたちの人生の体験をとおして、わたしたちを創造された神を知り、神がキリストをとおしてわたしたちに示された十字架の贖いと復活がわたしたちが滅ぶことのない永遠のいのちを得るためのものであったことを知ることに優る体験はありません。

神がわたしたちを愛しておられ、どのように辛く、苦しい試練のなかにも真実の神はわたしたちと共におられ、イエス・キリストにある神の愛と慰めによってわたしの苦しみや患難、痛みや状況を超えた試練を共に乗り越えてくださるという体験をするとき、わたしたちは、愛の神とのより一層深い関係を築くことができるのです。
それは、キリストの栄光が現れる際に、わたしたちが一層大きな喜びにあふれるためなのです。

  



 

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