主と共に歩む忍耐と不滅の希望


(第一テサロニケ人への手紙4章14-17)


復活といのちは、イエスによってもたらされたという福音の宣言にも拘わらず、福音を信じた多くのテサロニケの人々の中にも、死が避けられない現実であることを目の当たりにして、彼らは死にたいする自然な恐れの感情のゆえに、肉体の滅びと主の再臨、栄光の永遠のいのちについて多くの人々が疑問を抱きました。

この箇所でパウロは、人々の疑問に答えてキリストの信仰に生きる人々にとってすでに肉体が滅びた人も、それまで肉体をもって生きる人々にも、復活と栄光の永遠のいのちの約束が確実であり、その約束は天から下って来られる復活の主が、信仰に生きる人々を、一瞬のうちに栄光の永遠のいのちに引き上げられて実現することについて述べています。 

イエス・キリストがわたしたちの創造の神に対する罪の贖いとしてこの世に来られ十字架に架かられ贖いを完成してくださり死んで葬られ、三日目に復活され天に昇られたという福音には、主がわたしたちと共に歩まれ、キリストはまた来て、私たちの肉体を栄光のからだに変えて、天国に連れて行ってくださるという確実な約束が含まれています。

キリストを信じる信仰によって歩む人々は、肉体が滅び死んだ瞬間に魂は魂の親である神のもとへと還り、時間と空間を超越して死んだその瞬間に丁度赤ん坊が母親の腕に抱かれて安らかに眠るように眠り、神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、完全に復活し、天からキリストが下って来られるときキリストによって神の御座にまで引き上げられます。

聖書が述べている最も確実に信頼できる神の約束の一つは、イエス・キリストは再びこの世に来られるという約束です。

イエス・キリストの再臨について旧約聖書には1527箇所以上言及され、新約聖書には380箇所に言及されているとされています。
新約聖書だけをとって見てもイエスご自身、十字架に架かられる前夜弟子たちに「わたしは父の家に行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。」と、再び来られるという確実な約束をされています。(ヨハネ福音書14章2,3参照)
又、復活されたイエスが天に上って行かれるのを人々が見つめているときも白い衣をきた二人の天使が、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう(使徒書1章11参照)」。と、イエス・キリストが再び来られることを証言しています。

使徒パウロは、イエス・キリストの再臨を「恵みの希望」と述べ、使徒ペテロは「あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。(ペテロ第一の手紙1章7参照)」と述べてイエスの再臨によって、信仰による試練は朽ちる金よりも尊いことが明らかにされ、賛美と栄光と誉とに変わると証ししています。
さらに、使徒ヨハネも「子たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、彼が現れる時に、確信を持ち、その来臨に際して、みまえに恥じいることがないためである。(ヨハネ第一の手紙2章28参照)」と述べてイエス・キリストの来臨が確実であることを前提に信仰の歩みを確かなものとするように励ましを与えています。
このように、旧約聖書だけでなく新約聖書にもキリストの再臨は、わたしたちにとってもこれから起こる確実な神の約束です。

キリストの再臨は、これから起こる最も大きな出来事ですが、この出来事には二つの側面(二つの段階)、があります。

キリストの再臨の一つの側面は、パウロがこのテサロニケの人々への手紙で述べている、キリストの花嫁である教会のためにキリストが天から降りてこられ、その花嫁を引き上げられるときに起ります。

もう一つの側面は、神の救い、恵みを拒否し続けるゆえにこの世が一掃され、浄化され、新しくされ、神の選びの民イスラエルが回復されてこの地上に神の国がもたらされイエス・キリストがこの地上に神の国の王として再臨されるときに起ります。

イエス・キリストがキリストの花嫁を迎えに再び来られる瞬間、すなわち、信仰をもって死んだ人にとっては時間と空間を超越して死んだその瞬間に、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちの朽ちるべきからだは朽ちない栄光のからだ、見違える姿に変貌し、キリストによって神の御座にまで引き上げられます。


イエスの十字架と復活が人の罪の贖い、赦しであり、一方的な神の恵みであることを受け入れ、イエスを主として人生を歩むとき、イスラエルの民だけではなく、異邦人を含むすべての人々が神の選び、救い、神の栄光、神の祝福を受け取ることができるという福音は、パウロによって当時の全世界の果てにまで伝えられました。

しかし、この福音はイスラエルの伝統を厳しく守り、神からの救いはユダヤ人たちに特別に与えられるものだという心情を抱いていた多くのユダヤ人にとって受け入れ難いものでした。         

栄光の復活のキリストに出会い、回心をする前のパウロ(若いときのサウロ)自身、モーセの律法を知らず、律法を厳格に守ることもなく、イスラエルの伝統に関わりのない人々が、イエスの十字架の死と復活を信じ、イエスがメシア、キリストであり、主であるることを信じるだけで創造主である神の前に義とされイスラエルの民ばかりでなく、異邦人を含むすべての人々に救いの手が差し伸べられるということは、信じ難いことでした。

そのために、回心前のパウロ(若いときのサウロ)は、イエスがキリストであり主であるという信仰に生きる人々を激しく迫害したのでした。

復活のキリストに出会ったパウロは、イエスの十字架の死と復活が神の限りない人々への愛の証しであり、一方的なキリストによる神の恵みと愛による救いだと述べて、このイエスの十字架の贖いによって、イスラエルの民ばかりでなく、異邦人を含むすべての人々に救いの手が差し伸べられ、イエスがキリストであり主であるという信仰の土台に建てられる時代、恵みの時、救いの時、すなわち、キリストの肢体、イエスがキリストの花嫁と呼ばれている教会の時代が人類に差し伸べられているということについて、福音伝道のために生涯を捧げ、新約聖書のなかで多くの書簡を残しました。

そして、キリストの花嫁である教会の時代は、旧約の時代には知られていなかった奥義の時代であると宣言しています。

わたしたちは、現代まさに、福音を信じる信仰によって、すべての人が救われるという恵みの時、救いの時、すなわち、奥義の時代、キリストの花嫁の時代に生かされています。


イエスは十字架に架かられる数日前、オリブ山の上から黄金に輝きすばらしい石や奉納物で飾ってあるエルサレムの神殿を眺めながら、神殿の崩壊と、ご自分が十字架に架かられ、三日目に復活されることを弟子達に告げられ、復活後に起こることを預言されました。

この預言のなかで、キリストの花嫁である教会が、聖霊の灯火を心に燃やし続け、花婿であるキリストが 父なる神の家、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家の備え、場所を用意されて迎えに来られる日まで、絶えず祈り、気をつけて待ち続け、花婿であるキリストのもとに集められることを期待することの大切さについて、警告をされました。(マタイ福音書25章1-13 参照)

イエスが預言されたように、イエスがキリストであり主であるという信仰の土台に生きる人々、イスラエルの民ばかりでなく、異邦人を含むすべての人々 は、キリストの花嫁と呼ばれています。

やがてキリストは再び来られ、イエスを主と信じ人生を歩んでこの世の生涯を終えた人々を迎えられ、イエスの福音を信じ、恵みと救いの時代の終わりのときまで信仰に生きる人々を、天の神の御座にまで引き上げられ、この世に再臨されるとき完全な義をもって生ける人と、すでに肉体が滅び眠りについたすべての人々をキリストの御座の前で裁かれます。

ここで、わたしたちが知らなければならないのは、キリストの御座の裁きは、救われた人々が丁度、競技の後で賞を得る者を判定するような裁きであって、福音を信じ罪を赦された人々にとって罪を問う裁きではないということです。(第一コリント人への手紙3章13-15参照)


福音を伝えられたテサロニケの人々は、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ個人的に受け入れ、イエス・キリストの再臨と、この世が贖われるときが近づいていることを信じた人々のなかで、それを待ち望みながら、現実にはこの世の贖い、キリストの再臨を見ることなく死んだ人々には望みがなくなってしまったのだろうか。という疑問をパウロに投げかけました。

そして、困難な時代の中で、再臨を待ち望む人々にとって、どのように生きてゆけばよいのかという疑問に答えて、使徒パウロは、『 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このよにして、 私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい 』と答え、それらの人々に対する慰めと励ましを与えています。

ここで、使徒パウロは、主が再び来られるときまで生き残っている人々が、キリストにあって復活した人々といっしょに雲の中に一挙に引き上げられることについて説明しています。

この一挙に引き上げられるという単語の原語、ギリシャ語(ハーパーゾ、ἁρπάζω の三人称未来形 ρπαγησομεθα ) は、ラテン語で ラプチュス、英語でRapture、と訳されています。英語のRaptureという言葉を日本語では携挙と訳しています。

使徒パウロは、テサロニケの人々に宛てて書かれた手紙のこの箇所で、イエス・キリストの十字架の贖いを信じ個人的に受け入れ、困難な時代の中でイエス・キリストの再臨と、この世が贖われることを待ち望む人々が、天から下ってこられる栄光のイエスのもとへ一瞬のうちに、(人が瞬きをする千分の一以下の速度で)引き上げられ、キリストにあって、希望を抱いてすでに眠った人々と共に朽ちない栄光の姿に変貌するということを明言しています。 

キリストが罪のため十字架の上で死なれ、葬られ、三日目によみがえられたという十字架のことばを信じ、キリストを主として歩む人々、キリストの花嫁を迎えに再び来られるときには、終りのときの神の合図のラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして十字架のことばを受け入れて死んだ人々も、そのときまでキリストの信仰に生きる人々も、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちの朽ちるべきからだは朽ちない栄光のからだに変えられ天から下って来られるキリストによって引き上げられます。 

クリスチャンにとってこの地上の生涯は、キリストに人格的に似ていくための工事期間なのです。
そしてこの工事期間の間には、多くの人に迷惑をかけるものなのです。
しかし、ついにその工事が完成する時がやってきます。ですから、わたしたちは、工事期間中のこの世の生涯を希望の忍耐をもって人生を生きることができます。

キリストを信じる信仰によって歩む人々は、神の力に助けられ人生を歩み、肉体が滅び死んだ瞬間に魂は魂の親である神のもとへと還り、キリストがキリストの花嫁を迎えに再び来られる瞬間に時間と空間を超越して死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちの朽ちるべきからだは朽ちない栄光のからだ、見違える姿に変貌します。

神の恵みを受け入れキリストを信じる信仰を持った人々は、神の力、すなわち、わたしたちの内に住まわれ、わたしたちの人生と共に歩み導き力を注いでくださるキリストの霊、聖霊によって、万物が栄光のキリストに服従し、わたしたちがキリストに似たものとして完成されるという、不滅の希望を持って、どのような状況をも忍耐し、乗り越えることのできる人生を歩み、共に朽ちない栄光の姿に変貌するという約束されたキリストの再臨のときを待ち望む(μαρὰν ἀθά Maranathaマラナタ)ことができます。

イエス・キリストが聖書に預言されたとおり、わたしたちの罪の贖いとして十字架に架かられ、死んで三日目 に復活の初穂として復活され再び来られるという福音には、イエスと共に歩むすべての人に与えられている何と素晴らしい不滅の栄光の希望が約束されていることでしょう。

この約束のゆえに、どのように困難に思える状況にあっても、わたしたちは、不滅の希望に人生を歩むことができるのです。


第一テサロニケ人への手紙

 

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