信仰の働き、愛の労苦、主イエスに

たいする望みの忍耐

(第一テサロニケ人への手紙1章2-4)


使徒パウロは、テサロニケに於いて短い期間に伝えられた福音とキリストにある希望を受け入れた人々に、彼らの信仰の働き、愛の労苦と、主イエス・キリストに対する望みの忍耐が成長していることを知って、彼らを励まし、福音とキリストにある希望がどのようなこの世の試練や困難にも優って栄光に満ちた素晴らしい神の約束であり、キリストにある神の愛と選びに留まり続ける希望の忍耐について神への感謝と共にこの手紙を書いています。

天地万物を創造された神が、神のことばに背き離れてしまった人の罪を贖うためにキリストをこの世に 送られ、罪の全くない方を十字架の上で罪とされ、贖いを完成されたばかりでなく、死んで復活されたキリストを天に引き上げられ、人の義の基準を示され、この方を信じる信仰によって新しい霊のいのちを与えられ、福音を信じる人々を天に上げられた栄光のキリストに似た者へと変えてくださるというパウロの福音の伝道は、多くのテサロニケの人々に受け入れられました。
しかし、これらの福音を受け入れた人々は、福音を信じない人々や、伝統に固執しイエスが約束されたキリストであることを受け入れないユダヤ人達によって様々な反対や試練を受けました。

パウロは、福音を信じながら試練や困難に出会っている人々に、イエス・キリストを主として歩む信仰の歩みには、必ず栄光の永遠のいのちとキリストの復活にあずかるという希望の約束が確実であり、それは天から下って来られるキリストが、イエスを信じる人々を引き上げられるときに完全に実現することを述べて、その希望の忍耐は必ず実るものだと述べています。


この世に来られたメシア、救い主キリストは、神が約束されたとおり、人の神に対する背き、罪のため十字架の上で死なれ、葬られ、三日目によみがえられ天に昇られましたが、この歴史的な出来事が起こる前にイエスは、キリストの福音を受け入れイエスを主として歩むとき、キリストはまた来て、私たちの肉体を栄光のからだに変えて、天国に連れて行ってくださるという確実な約束をされました。        

イエスが人の罪の贖いの代価、神への背きにたいする犠牲のなだめの供え物として、わたしたちのために血を流され、十字架の上で死なれ、三日目によみがえられたという十字架のことばを受け入れる人々にとっては、十字架のことばはわたしたちの罪のすべてを神が赦し、神の栄光を受け取ることのできる、救いに至らせる神の力です。

イエスがすべてに先立って死からの復活の初穂となられたことで、キリストが人の救いに必要なすべてとなられ、新しい創造がもたらされました。

十字架のことばは、人の知識や知恵によって理解しようとするとき、愚かで馬鹿げたことのよに思えるかもしれません。
十字架のことばが多くの人にとってつまずきとなることもあります。      

人を創造された神への背きにたいする犠牲のなだめの供え物としてわたしたちのために血を流され、十字架の上で死なれ、よみがえられたイエスを信じることによってのみ、わたしたちが神の前で義とされ、神の栄光を受けることができるという福音のことばは、イエスが人を救われるメシアであることを信じない多くの人々にとって気に障るメッセージであり、多くの人々が苛立ち、気持ちを乱されます。

何故なら、人は創造の神から離れ、神を無視して生きるという人の根本的な罪を認めようとせず、人に死がもたらされたのは、すべての人が罪の下にあり創造の神の基準からは完全に堕落した存在であり、すべての人が罪の縄目から自分の力や努力によって逃れることが不可能であるという聖書の宣言に反発するからです。

人は自分を出発点とし自分と他人との相対的な比較によって自分の義を主張するという抜き去り難い思いから解放されません。

他人に害を与え、人々からは嫌悪される状況にある人でも血を流され、十字架の上で死なれ、葬られ、三日目によみがえられたキリストが自分のための救いだということに気付き、自分が創造者である神から離れ、背いていることを認め、キリストを信じるだけで罪のすべてが赦されて、神の栄光を受けることができる、というメッセージは、他人と比べて自分の動機や行いが正しく、その自分が認められ、報いられたいと努力しながら人生を歩んでいる人々にとって人の相対的な義の基準からみると十字架のことばは、不条理に思われます。 

さらに、人に侮られ、捨てられ、自分を、とがのための供え物として手と足を刺し貫かれ、断たれて殺されるというキリストの姿は、人の罪を赦し栄光のいのちを与える権威を持った栄光の神のイメージからは程遠く思え、すべての人の罪のために一人の人が死に、その死によっていのちががもたらされ、人が死の滅びから救われるために自らを十字架の上で犠牲にし、復活するというイエスの十字架とよみがえりによって人を救うという神は、多くの人々にとって愚かな話に思えるのです。

他人との比較ではなく、すべての人には心の思いのなかに人知れぬところでしてきた、他人に害を与えたり、自分でも嫌悪するような不純な動機や思い、行いが隠されています。
しかし、キリストは、わたしたちが人知れぬところでしてきたことをもすべて、そしてすべてのつぶやき、すべての恥ずかしい事を全部ご存知です。そしてそれらを全部知ったうえで、なおあなたを愛し、あなたを思がうままに、ご自分のいのちを十字架の上で捨てて下さったのです。

それはあなたの罪を完全に償うためなのです。

このキリストの犠牲が、わたしたちの罪を赦し、償うものであるということを、人の知識や知恵によって理解しようとするとき、それは、愚かで馬鹿げたことのよに思えるのです。
しかし、このことが人を救うための神の計り知れない御計画なのだということを受け入れ、神の愛に信頼し、恵みを受けとるとき、神はわたしたちが栄光の神の前に義とされて立つことのできる立場を与えてくださったのです。
  
あなた以上に、あなたの闇をご存知な方は、あなた以上に、あなたのことを愛しておられます。

死からの復活の初穂となられたイエス・キリストを信じて生きる人生には、この世の権威や栄華に優る栄光の報いが必ずあります。そして、それは天から下って来られるキリストが、主を信じる人々を引き上げられるときに完全に実現します。


十字架のことばは、救われるものにとっては、わたしたちを罪の滅びから救う神の力です。     
キリストが死後三日目に復活されたことによって、この復活のゆえに、人は死んで終わりではないということ、罪の赦しを持って死んだ人には、勝利者として神の前に立つことが保証されているという希望が与えられています。

神は、恵みにより、信仰によってわたしたちを罪の支配から義の支配へと移され、わたしたちを新しい人へと変え、栄光の永遠のいのちの生きた希望を与えてくださいました。

神の恵みを受け入れキリストを信じる信仰を持った瞬間から、わたしたちが完成された完全なものとなった訳ではありません。
しかし、神は、キリストを信じ受け入れる人には、罪赦され、キリストのゆえにわたしたちを神の子どもとして喜んで受け入れて下さるというその勝利者の立場を与えて下さったのです。

神は、救いの福音を聞いて、イエスを主として歩む人々に、神の国を継ぐ保証として約束された聖霊の証印を押してくださいました。
十字架のことばを聞いて、キリストの贖いと復活を信じ人生を歩む人々には、栄光の朽ちないからだに変貌し、キリスト、イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得るという目標が与えられています。
これはわたしたちが全力で人生を生きる動機付けになります。 
わたしたちがキリストに似たものとして完成されてゆくことを可能にして下さるのは、神の力、すなわち、わたしたちの内に住まわれ、わたしたちの人生と共に歩み、導き、力を注いでくださるキリストの霊、聖霊によるのです。

わたしたちは、信仰によって義とされ、新しいいのちに生きていても、肉のからだにあって生きるかぎり、内に住む肉の思いと、キリストの霊とのせめぎあいを続け、心は熱していても、肉体が弱いために肉のうちに住む罪の性質に惹かれる性癖を完全に拭い去ることができません。

使徒として福音を伝えたパウロでさえ、この世の人生を歩み続けるかぎり、栄光の復活のキリストに出会い数十年を経過した後も「 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ人への手紙3章12-14) と述べて、自分が完全にキリストに似たものとして完成したのではなく、キリストにおいて神からの賞与を受けようと、後のものを忘れ、前のものにむかってからだを伸ばし、目標にむかって走っていると宣言しています。

使徒パウロは、わたしたちがキリストにある恵みを受け取り、勝利の歩みを歩むうえで、知っている、認める、捧げるという三つの鍵となる言葉によってキリストに似せらたものへと変えられる人生を歩む秘訣を強調しています。 

第一に「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(ローマ人への手紙6章6)と述べているように、わたしたちの罪によって誘惑に欺かれ、束縛され、そのために様々な問題を引き起こす古い人はキリストの十字架とともに死んで葬られ、わたしたちはもはや罪の支配ではなく、キリストの義の支配のもとにあることを知らなければならないということです。

第二に「罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。」(ローマ人への手紙6章11)と述べられているように、わたしたちは、古い自分が死にキリスト・イエスに似せて永遠に生きるものとされたことを認めなければならないのです。

第三に「 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。」(ローマ人への手紙6章13 )と述べられているように、わたしたち自身を不義の道具として罪に捧げるのではなく、自分自身を義の道具として神に捧げなければならないのです。


使徒パウロは、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ることができるのは、自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだし、キリストが示されたわたしたちへの神の愛による労苦、キリストの死と復活、キリストが再び来られて信じる人々を引き上げられるという希望の約束に生きることだと述べています。

この箇所でもパウロは、テサロニケの人々にイエス・キリストが成し遂げてくださった御業と約束の素晴らしさをより深く知り体験することを祈って、信仰、愛、希望が具体的なわたしたちの行動、行為として信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストに対する望みの忍耐としてあらわれることを述べています。

キリストを信じる信仰によってわたしたちは救われ、罪の支配から義の支配へと移されるということには、必ずわたしたちの行動にもあらわれます。

本当の信仰を持つことはわたしたちの行いや、すべての見方が新しく変えられます。
復活を見てイエスがキリストであることを信じたイエスの兄弟ヤコブは、ヤコブ書のなかで、行いを伴わない信仰のむなしいこと、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものであることを詳しく述べています。

パウロはテサロニケの人々が福音を信じる信仰の働きと愛の労苦に成長することを祈っていますが、わたしたちへの神の愛がキリストの御業によって示されていることを信じ、キリストのうちに自分を見いだすとき、想像を超えた犠牲と労苦を払われて、わたしたちへの愛を示されたイエスによってわたしたちも愛の労苦を厭わずに人生を歩むことが可能となることを述べています。

わたしたちは愛を感情的な面からのみ捉えよう、それも、わたしたちの感情という面から理解しようとします。しかしイエスがわたしたちに示された愛は、感情的な愛を具体的な行為、わたしたちが救われ、永遠のいのちを得るために払われたイエスの自己犠牲の愛の労苦によって知ることができるのです。

わたしたちは、身近に自分の子供のために母親が自己犠牲の愛の労苦を払っている姿を目にします。
しばしば母親は産まれたての赤ん坊のために日常の雑事以外に自分がどんなに疲れ果てていても昼夜を問わず世話をし、ケアすることを厭いません。

キリストが十字架の上で払われたわたしたちへの愛の労苦を見るとき神の永遠の愛のうちに歩むことにはわたしたちも愛の労苦に成長することが含まれていることがわかります。            
福音を信じることには、キリストが主であることを信じる信仰の働きとキリストが示されたわたしたちへの愛の労苦を知って、わたしたちが愛の労苦を厭わず歩むものとなるという主からの願いが込められています。

そして、パウロはテサロニケの人々に信仰の働き、愛の労苦に成長しながら人生を歩むとき、そのような人生には必ず栄光の報いがあり、わたしたちはその栄光の報いをキリストがわたしたちを引き上げられるときに、必ず現実のものとして体験することができるという確実な希望を述べ、その確実な希望のゆえに忍耐をもって栄光を待ち望む人生を歩み続けることを勧めてています。

やがてキリストは再び来られ、イエスを主と信じ人生を歩んでこの世の生涯を終えた人々を迎えられ、イエスの福音を信じ、恵みと救いの時代の終わりのときまで信仰に生きる人々を、天の神の御座にまで引き上げられます。わたしたちは、この期待と希望のゆえに主を待ち望み、信仰の働きと愛の労苦にも喜んで人生を歩むことができます。


第一テサロニケ人への手紙

 

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