唯一の神 

(第一コリント人への手紙8章4-6)


紀元50年から紀元51年頃にパウロは、エルサレムから第二次伝道旅行に出かけ、はじめて小アジア地方からヨーロッパのギリシア、マケドニア地方に渡り、このとき同行したシラスとテモテと一時ベレヤの地で別れ、再び落ち合うためにアテネの地で彼らを待っている間に、この地があらゆる神々を祀る神殿や祭壇に満ちているのを見て心に憤りを感じ、会堂ではユダヤ人や信心深い人たちと論じ、広場では毎日そこで出会う人々を相手に論じ、アレオパゴスの評議所では、エピクロス派やストア派の哲学者たちに、人つくり上げた神々は偶像であって、人創造された生きた神が存在し、この唯一の神によって人と天地のすべてが創造され、神をあらわすために来られたイエスと復活について説きました。

このアテネのアレオパゴスの評議所の丘の上には壮大なパルテノンの神殿が聳え立ち、丘を下った場所にはその都市の守護女神アテーナーを祀る神殿が建ち、麓の広場の角々には名も知られない神々を祀る祭壇が建立されていました。2千年近くを経た現代もギリシャを訪問し、この地を訪れるとこれらの神殿や広場の跡やパルテノン神殿の古代遺跡を見ることができます。

この福音伝道の旅でパウロはアテネからコリントの地に移り、福音を伝えるときにキリストの十字架が無力なものになってしまわないため知恵の言葉を用いずに十字架につけられたキリストを宣べ、神の力、神の知恵であるキリストの福音をコリントの人々に宣べ伝え1年半のあいだ滞在しました。

この世に人として来られたキリストが、生きた神との交わりから離れ不義のために滅びに向かっている人々を、十字架に架かり、復活をされ、救われた、という福音のメッセージは多くのコリントの人々に受け入れられましたが、一方でコリントの人々もアテネと同様あらゆる神々を祀る神殿や祭壇が満ち、アフロディテを祀る神殿が存在するコリントの地で多くの人々が神々を祀り、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付け宗教心に駆られて、人によってつくり上げられた偶像の神々に囲まれ、汎神論的な影響を強く受けていました。

現代においても、世界中至るところで人がつくり上げた神々が祀られ、宗教心に駆られ、技巧や空想によって造られた神々が人々に拝まれ、多くの人々が汎神論的な宗教観に影響されています。
そして日本もその例外ではなく、人がつくり上げた神々が祀られ、人々は神々を拝んでいます。


人々にとって自分の願望や目標となる様々な人やものは、その人にとって偶像の神々となります。それ故に人々の熱狂の対象となるような人のことを、スター、アイドルとよび、彼らは天の星、偶像になぞらえられるのです。

人のあらゆる感情によって神々がつくり上げられ、怒りの神、恐れの神、愛の神、憎しみの神、平和の神、戦争の神、等々多くの神々が存在するように思え、人々の人生を支配し主となるように思えるものがいろいろあります。

ギリシャ神話でも、生殖と性の神秘に捉われ女性と男性の性を象徴する神々がアフロダイテ、エロスの神として祀られ、アフロダイテの女神は多くの神々を愛人とし、繁殖と豊穣を祝う淫らな祭りが行われました。情欲やセックスに捉われ、そのことばかりが関心な人々は、アフロダイテ、やエロスを神として人生を過ごしているということが言えるでしょう。
ギリシャ神話におけるゼウス神は、神々のなかの主神として祀られていますが、ゼウスは神々を支配する神として知られています。権威や力、人を支配することが人生の目標となっている人々は、実質的にゼウスを神としていると言えるでしょう。
現代もその地名が残っている都市アテネの守護女神アテーナは、芸術と戦いの守護女神であると同時に知識、工芸の女神でしたが、知識を得、他に優ることを人生の至上目的として多くの人々が人生を送っていることがわかります。

人々はそれらの神々に象徴されている権力、支配、性的な魅力、性愛、知識、芸術、工芸などを人生の目標、熱情を傾ける対象として神々をつくり上げ、それらの神々を拝んでいます。

ここでパウロが述べているように、これらの人にとってはあるいは天に、あるいは地に多くの神々が存在し、人生の主となるように思えるものがいろいろ存在しています。
しかし、これらの神々は所詮人がつくり上げた神々に過ぎません。

偶像の神々の虚しさについて、イザヤは次のように述べています。
「 だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。
見よ、その仲間は皆恥を受ける。その細工人らは人間にすぎない。彼らが皆集まって立つとき、恐れて共に恥じる。
鉄の細工人はこれを造るのに炭の火をもって細工し、鎚をもってこれを造り、強い腕をもってこれを鍛える。彼が飢えれば力は衰え、水を飲まなければ疲れはてる。
木の細工人は線を引き、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを人の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。
彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。
こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。
その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、『ああ、暖まった、熱くなった』と。
そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、『あなたはわが神だ、わたしを救え』と言う。
これらの人は知ることがなく、また悟ることがない。その目はふさがれて見ることができず、その心は鈍くなって悟ることができない。
その心のうちに思うことをせず、また知識がなく、悟りがないために、『わたしはその半ばを火に燃やし、またその炭火の上でパンを焼き、肉をあぶって食べ、その残りの木をもって憎むべきものを造るのか。木のはしくれの前にひれ伏すのか』と言う者もない。
彼は灰を食い、迷った心に惑わされて、おのれを救うことができず、また『わが右の手に偽りがあるではないか』と言わない。」(イザヤ書44章10-20)

詩篇の作者も、偶像は人がつくり上げた神々であって口があっても語ることができず、目があっても見ることができない。耳があっても聞くことができず、鼻があってもかぐことができず、手があっても取ることができない。足があっても歩くことができない。また、のどから声を出すこともできない。偶像を造る者とこれに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。(詩篇115篇1-8参照)と、述べて偶像を拝む者は、究極的に役に立たない神を拝み自身もそれと同じ者となることを宣言しています。


イザヤは、人がつくり上げた虚しい偶像の神々ではなく、人を創造され、この世界とその中にある万物を造られた天地の主であり、唯一の神をおぼえ、心にとめなければならない。と、呼びかけています。

「 あなたがたはこの事をおぼえ、よく考えよ。そむける者よ、この事を心にとめよ、いにしえよりこのかたの事をおぼえよ。わたしは神である、わたしのほかに神はない。わたしは神である、わたしと等しい者はない。 わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』」(イザヤ書46章8-10)

人が宗教心に駆られて努力や行いによって届こうとする神は、人によってつくり上げられる偶像の神となります。
しかし、人と万物を創造された唯一の神は、人の努力や行いによってではなく、人が届くことの出来るように人と同じようになられ、恵みによってこの世の罪の贖いをされ、永遠のいのちと栄光の希望を与えてくださる神です。
人が神に届くことはできません。しかし、人の届くように神が人となってこの世に来られのです。これが、宗教と信仰の違いです。

創造の唯一の神に信頼することは、根拠のない信頼ではなく、まだ起こらないことを告げられる神のことば、預言が歴史のなかで成就し、それが唯一の神が成されたことであり、神の御計画が必ず成就することに信頼することです。

使徒パウロは、わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。と、宣言しています。

永遠に生きておられる唯一の神は、すべての父であり、人を創造され、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出され、この世界とその中にある万物とを造られた天地の主です。

この永遠に生きておられる唯一の方は、父と子と聖霊という三つの人格をもった一つの神としてご自身をわたしたち人類に示され、表わされています。

この完全に聖で義である神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになった御子によってそれをなし遂げようとされ、御子イエスを歴史のなかでこの世に送られ、人の罪の贖いのためのなだめの供えものの子羊として十字架に架けられ、死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に歴史的事実として示されています。

人と万物を創造され、保っておられる永遠に生ける神は、人がつくり上げた神々のように宗教心に駆られて人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けられ、手で造った宮などにはお住みにならず、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない方です。

人は神のうちに生き、動き、存在し、神によってすべての人々が命と息と万物とを与えられています。
宇宙を含めた万物が、神のうちに生き、動き、存在しているということは驚くべきことです。
神学者たちはこのことを、神が遍在される方である、という説明をしますが、詩篇の作者は、創造の神が万物に遍在されており、どこに逃れようとしても、そこにおられる方だということを次のように詠んでいます。

「わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。
わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。」(詩篇139篇7-10)

唯一の創造者である神のもとで人は生かされ、命と息を与えられ、わたしたちも、詩篇の作者が詠んでいるように、人は、「いと高き者のもとにある隠れ場に住み、全能者の陰にやどる」(詩篇91篇1)ことができるのです。

創造者であり、全能の生ける神のもとにある隠れ場 に住み、その陰に宿ることのできる人々は何という素晴らしい栄光を受ける特権にあづかっていることでしょう。

イエスは、十字架の贖いをされる直前、「もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なく
なるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。
(ヨハネの福音書14章19-21)と、生ける神が父と子の関係のなかでわたしたちにあらわれて下さる神であり、イエスご自身に信頼することが、全能の生ける神のもとにある隠れ場、その陰に宿ることだということについて弟子たちに話されました。


パウロは、テモテに宛てた手紙で、「 時がくれば、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、キリストを出現させて下さる」(第一テモテへの手紙6章15)と、キリストが再臨されるときの万物の栄光ある回復について述べています。  

黙示録は、サタンが人類を滅びの支配下に置こうとする最後のあがきの戦いの様子を詳しく預言しています。サタンは、反キリストと偽預言者によって、イスラエルの民族、国家を滅ぼそうと世界の指導者たちをメギドの平野に集め人類を自滅させる最後の戦いに駆り立て、神の計画に反抗し、救い主の到来と、神の国が実現することを阻止しようと試みようとすることが描かれています。この人類最後の戦いのただなかに、栄光のイエス・キリストがこの世に再臨されます。このとき、サタン、反キリストと偽預言者に従うすべての者が子羊であるキリストに立ち向かおうとし、王の王、主の主である栄光のキリストの口からでることばによって一瞬のうちに滅ぼされ、キリストはこの世に栄光の神の国をもたらされます。

ゼカリヤが預言しているように、このとき栄光の神、主は全地の王となられます。その日には、主ひとり、その名一つのみとなります。(ゼカリヤ書14章9) 

人々の持っている習慣、情熱、目標、理想といったものがそれ自体で人生の至上目的となり、人の宗教心によって様々につくり上げられるとき、たとえそれらの偶像がかたちのある像として刻まれ彫られなくとも、それは人がつくり上げた神々となるのです。           
これらの偶像の神々は、偶像をつくり上げた人々を捉え、隷属し、人生の究極的な罪や死の問題を解決してはくれません。

使徒パウロは、万物は唯一の創造者であるこの神から出て、わたしたちもこの神に帰し、また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。と述べています。すなわち、イエスによってイエスのために万物が存在しているのです。



 

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