時は縮まっている 

(第一コリント人への手紙7章29-31)


第一コリント人への手紙7章で、禁欲と結婚についてコリントの信徒たちが質問したことについて使徒パウロは答えています。
キリストの福音を受け入れたコリントの人々が使徒パウロに宛てた質問の内容について、その詳細は明らかではありません。
                        
しかし、アフロディテを祀る神殿が存在し、そこにいる千人を超える神殿娼婦たちがこの地を通過する水夫や男たちの相手をし、コリントの婦人ということと娼婦は同義語と考えられ、性的な不品行がはびこり、道徳的に退廃していたコリントの地で、信徒たちのなかで肉体と霊を分けて世界を二元論的に理解しようとする異端的な思想(グノシズム)に影響された人々が、独身主義と禁欲を貫こうとすることについて、どのように考えるべきかという疑問が起こり、性と性欲、結婚と離婚ということについて質問があったことは明らかです。 

パウロは、7章1節から7節に男性が性欲のみに駆られて性行為をすることを慎むべきだと述べた後で、結婚によって男と女が肉体的に結ばれることは、神が意図されたことで祝福されたものあると述べています。
8節から24節では、結婚と離婚について神が示されている規準と意味について、男と女が一体となって互いに満足と喜びを得、この世でどのように人生を共にするべきか、について述べてています。
そして、25節から、独身であっても結婚をしていても、この世の状況、福音を信じて人生を歩む人々が栄光のキリストに引き出されるときが今すぐにでも近づいており、この世の状況が切迫していることを前提にして生活し、福音の素晴らしさを第一として情欲に捉われず足ることを知る人生を歩み、イエス・キリストに仕えることが出来れば、より望ましいことであり、そのような状況に置かれることは、神から与えられる賜物であり、自分の心の思い以上に、主なる神、キリストの御手のうちに自分の人生を委ね、キリストに信頼して人生を歩むことが神の喜ばれる人生の歩みだということを述べています。


時は縮まっており、わたしたちが本当に目指し、望んでいるのは、この世の一時的な状況のなかで思い煩いに捉われず永遠の神の国の素晴らしさを深く知り、それを証しすることであって、わたしたちが見るこの世の有り様は過ぎ行くとパウロは述べています。
このパウロの宣言からも、使徒パウロの持っていた切実な期待が、信仰によって歩む人々が直ぐにでも栄光の神の御前に引き出され、キリストが治められる神の国が実現するということであったことがわかります。
すべての時代のクリスチャンたちが神の国が実現するという差し迫った期待を持つことは、神が聖霊によって故意に意図されていることです。  
イエスが十字架の上でわたしたちの罪の贖いを完成され復活をされたときから、いつの時代も栄光の神に引き出され永遠のいのちを得るものとなることが、福音を受け入れ信仰によって人生を歩む人々にとって最も差し迫った課題であることは間違いありません。
イエスは十字架に架かられる直前、弟子たちに、「よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」(マタイ福音書24章47-50)と、 主人の帰りを待つ僕の譬えを話されました。

これは明らかに、イエスを信じ神の国の者とされた人々が神の国の主人がすぐにでも戻られることを忘れてこの世の有り様に心を奪われることへの警告です。

キリストが復活をされ、昇天される直前にエルサレムで約束の聖霊を受けるために待つように弟子たちに命じられたときにも、彼らはイエスに「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか。」と問い、イエスが神の国を実現されることを期待し、生涯キリストが治められる神の国が直ぐにでも実現することを期待し、福音の伝道活動を続けました。

テサロニケの信徒たちもパウロから福音を聞いて、彼らが生存中にキリストが再臨され神の国を実現されることを期待しました。                                  
彼らの期待にも拘わらず、生存中にキリストの再臨を見ることなく次々と信徒たちがこの世を去って行くことを体験し、パウロが伝えた神の国が近いという福音のメッセージに疑問を抱いた人々に、パウロは彼らを慰めて「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」(第一テサロニケ人への手紙4章13-18)と、福音を信じた人々が栄光の主イエスに引き出され復活の栄光に変貌される約束は変わりないこと、そして福音を受け入れた信仰者にとってキリストが治められる神の国の実現が間近いことを期待して、与えられた人生を歩むよう述べています。

パウロは、ピリピの信徒たちへ宛てた手紙でも「わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストの来られるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(ピリピ人への手紙3章20、21)とも述べて、福音を信じた人々が栄光の主イエスに引き出され復活の栄光に変貌され、キリストが治められる神の国の実現が何時にでも起こることを期待して前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努め人生を歩むことを勧めています。

使徒ヨハネも、「彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。」(第一ヨハネの手紙3章2,3)と、わたしたちが何時にでも栄光の主イエスにひきだされ、栄光のイエスの似姿に変えられるという期待を持つ者は、この世での歩みもイエスがきよくあられたように、自らをきよくすると述べています。


イエスは十字架に架かり、復活をされ天に昇られる直前、弟子たちに、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ福音書14章1-3)という約束をされました。                                    
イエスは生きておられ、イエスの恵みを信じる人々のために天で場所を用意されています。イエスがわたしたちを迎え、神の国を現実のものとされるときは迫っています。

イエスはこの世に来られたとき、常にこの世の目に見える出来事、この世の営みよりも天の御国、天と永遠について人々に語られました。

わたしたちが人生を歩む上で、最も大切なことは、神の御国、イエスがわたしたちの贖いを完成され、わたしたち一人一人のために聖霊の導きによって実を実らせ、栄光のイエスの似姿に変えられるために時を与えられているということです。

神の御国の栄光の現実よりも、わたしたちは容易に目に見えるこの世の出来事、この世の有り様に目を奪われ日常の営みに捉われます。                     

栄光の主キリストが信じる人々を引き出され、再び現れ御国の王として来られるときが切迫していることが現実なのだということを知ることは、この世で生きてゆく上で適切な見方を与えてくれます。

使徒パウロは、時が縮まっており、予期しないときキリストが信じる人々を引き上げるために来られることを覚えて、この世の有り様に捉われず人生を歩むことがわたしたちの生きる上での態度でなければならないことを強調して「今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。」と、述べているのです。

注意すべきことは聖書に述べられていることを、その前後関係から外れて見るとき、わたしたちはそのメッセージが述べようとしている本来の意味から全く離れた解釈をしてしまいます。

使徒パウロは、独身主義や禁欲主義を勧めているのではありません。
結婚生活もこの世の喜びも悲しみも、すべてのこの世の有り様は過ぎ行くものであって、この世の営み、出来事のみに心を奪われるとき、主が来られる時が間近に迫っていることを容易に忘れることを警告しているのです。

今は、自分だけの喜びや悲しみ、自分だけの営みに拘泥し、自分の問題だけに捉われて神を忘れ、神の恵みの福音を忘れるときではありません。

イエスは、「あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。」(ルカの福音書21章34)と、その日が突然やってくることを警告されています。

自分の問題だけに拘泥するとき、その人には神の霊が働かれず、思いがけないとき、その日がわなのように人々を捕えることになります。

世界の情勢は、聖書の様々の預言が述べている終わりのときの状態をますます呈しています。

イエスは、終わりの再臨のときが近い兆しについて、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。また大地震があり、あちこちに疫病やききんが起り、いろいろ恐ろしいことや天からの物すごい前兆があるであろう。」(ルカの福音書21章11)と、預言されました。

この預言のとおりに現代 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、世界各地で国家間の一触即発の緊張状態がつづいており、大地震があり、あちこちに疫病や飢饉が起こり、いろいろな恐ろしいことや観測史上にも例を見ない気象異変が現実に起こっています。

さらに、終わりの時、再臨のときが近づいてくると、人々の心は冷え、多くの人々が終わりの時を示す、「自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者」(第一テモテの手紙3章2-5)という預言は現代の時代、現実となっています。

イエスが御国の主としてわたしたちを引き出されるその時は確実に縮まり切迫しているのです。



 
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