すべてに解放される自由

(第一コリント人への手紙6章12)


使徒パウロは、イエスを信じたコリントの信徒たちにキリストにある自由について大胆に、「すべてのことがわたしには許されている」と宣言しています。

人は自分の欲するままに行うことの出来ることが自由であると呼んでいます。

しかし、人は果たして自分の欲するままに行うことの出来る自由を得ることが出来るでしょうか。

わたしたちは、それを得るためにすべてを賭しても行いたいと欲するようなことがこの世に存在するでしょうか。
自分の意志が欲するものが存在しないのなら、その人には自由な選択そのものがないということになります。

何かを行いたいと自分が欲しても、それを行う機会が制限され、それを達成する手段が無ければ、それは自由とは言えません。
さらに、欲することを行う機会が与えられ、それを達成することができたとしても、その行いが最終的に悔いを残すようなものであれば、それは本当の自由とはなり得ません。

たとえば、すべての制限から逃れ多くの人を驚かせ、自由に空間を飛びたいと思って数百メートルの高さのビルから何も着けずに飛び降りるとすると、その人は数秒の間味わったことのないスリルと、それを見物する人々の驚嘆の的となることができるかもしれませんが、地上に激突し肉体が砕けてしまえば、その人にとっての一瞬の自由は、意味のないものとなります。
たとえ、それを達成することが出来、自分では悔いがないという場合でも、その行為が廻りの家族や社会にとって悔いの残るものであれば、その人は本当の自由を行使したことにはなりません。

通常わたしたちは、肉の欲望や思いを達成するための機会や手段を手に入れるための制限のないことが自由だと思いがちですが、肉の欲望や思いは必ず最終的には人を滅びに至らせます。

それは、この世の肉の思いや欲求が人を創造された神の意志や思いから離れ、背くものだからです。 

もし、自由な選択が可能であり、その手段や機会が与えられても、その行為が最終的に自分の滅びや周囲の人々に悔いを残すものであれば、それは本当の自由とはなり得ず混乱を招くものとしかなりません。

人が創造された神の意志や神の思いから離れることを聖書は罪とよんでいます。そして、人は罪によって滅びに至るのです。すべての人が、そのままでは、このような罪の奴隷の状態にあります。

イエスが宣言されたように、すべて罪を犯す者は罪の奴隷です。(ヨハネ福音書8章34参照)

使徒パウロも、「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった。」(ローマ人への手紙6章16-18)と、同様のことを述べています。

キリストを信じ、罪の束縛から解放されたクリスチャンにとって、人の目に見える自分の行為が正しい範囲の行動かどうかということに関心を向け、自分を正当化することは問題ではありません。自分が正しい範囲の行為を行っているかどうかばかりに関心を向けると、人は律法的な偽善に陥ります。

クリスチャンにとって、大切なのは自分の行為を正当化することではなく、自分の行為が、より神に喜ばれる行動なのか、心の動機が内に住まわれる神の霊、聖霊が喜ばれる歩みを歩んでいるかどうか、ということが問題なのです。

たとえば、すべてのことがわたしに許されているのなら、クリスチャンが飲酒、喫煙をすることが許されているのだろうか、また自分がどこまでこの世と妥協しても救いから漏れないだろうかということに疑問を持ち、そのような行為についての是非が議論となることがあります。

救われたクリスチャンにとって、必ず飲酒や喫煙が罪となるとはかぎりません。

パウロは若いテモテに宛てた手紙のなかで、「これからは、水ばかりを飲まないで、胃のため、また、たびたびのいたみを和らげるために、少量のぶどう酒を用いなさい。)(第一テモテの手紙5章23)と、述べていますし、千万人以上の人々に福音を説き、宗派を超えて当時のイギリスの大衆の信仰に影響を与えたチャールス・スポルジョン(紀元1834年-1892年)は、パイプ喫煙愛好者であった、と伝えられています。

しかし酒を飲み、酔って正常の判断を失ったり、アルコールに影響され酒を飲まずにはいられないというのなら、その人はもはやアルコール中毒になり酒に支配され、同様に、もし煙草を喫わなければいられないというのなら、その人はニコチン中毒であり、煙草に束縛されているのです。

そして、それらの行為自体が決定的な罪にはならないとしても、イエス・キリストにある栄光の自由を犠牲にしていることになります。


イエスは「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」と言われ、わたしたちの罪の贖いを完成し、復活によって死とこの世の支配を打ち破ってくださいました。

クリスチャンには、律法を完成され、神の国を継ぐ永遠のいのち、聖霊が内に宿っています。

わたしたちの歩みが、罪の束縛へと引き戻されたり、この世の思いに支配されない歩みなのかどうか、神の律法を全うされたキリストの霊、聖霊に従う歩みを歩んでいるかどうか、ということが大切なのです。

パウロは、クリスチャンとして人生を歩む人々に与えられている自由が、すべての束縛から解放される自由であることを述べると同時に、クリスチャンの自由が肉の欲望、肉の思いに対して最も解放された自由であることを述べています。

罪とこの世を支配するサタンの欺きの束縛から解放されたクリスチャンにとって、すべてのことが許されていると宣言しているこの箇所の前で、「正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。」と、正しくないこの世の汚れにたいする強い警告がされています。

十字架の贖いが罪の束縛からの解放だということを経験しない者にとって、肉の欲望や肉の思い以外の選択肢はありません。

不品行、姦淫、偶像礼拝、貪欲、などの罪がすでにキリストの十字架によって滅ぼされたことを知り、これ等の肉の欲望や思いよりも、イエスを信じる人々の内に住まわれる聖霊の思い、神がわたしたちに意図されている思いを選び、従うという自主的な選択のできることこそが本当の自由です。 

クリスチャンには、神の律法を完成されたキリストの霊が宿り、肉の欲望、肉の思いに捉われることを拒否する自由があるのです。

「すべてのことは、わたしに許されている。」と宣言できる人は、自分の人生を完全にイエス・キリストに明け渡し、人生の歩みがイエス・キリストに完全に喜ばれる歩みとなるように心を決めている人です。
したがって、そのような人は、神の律法に縛られるのではなく、神の律法が要求する規準をより高い規準で、人の目に見えるうわべだけでなく心の動機から実行しようとする人々です。

クリスチャンの自由が何人にも借りのない、愛によって神の律法を全うするものだということを、使徒パウロは、ローマの教会の人々に宛てた手紙のなかで、「 今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。 もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。 それだから、あなたがたにとって良い事が、そしりの種にならぬようにしなさい。」(ローマ人への手紙14章13-16)と、述べています。


使徒パウロは、キリストにある自由について述べたあとで、すべてのことが益となるわけではないと述べています。

クリスチャンにとっても、肉体をとって人生を歩むかぎり、罪は容易にわたしたちに絡みつき、罪の奴隷の状態に引き戻される危険があります。

パウロは、「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすこと、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達することが自分の人生の目標であり、そう宣言しているのは、すでに目標を達成したとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのだ。そして、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ人への手紙3章9-14参照)と、述べています。 

ここで、クリスチャンの人生の歩みが、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努め、目標を目ざして走る競技者に譬えられています。 

わたしたち一人一人が、神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走る競技者のような者なのです。

競技者は、重い登山靴や長靴を履いたり、背中に荷物を背負って競技に参加をするようなことはしません。そのようなことをして競技に勝利することは決してないからです。
もし競技に勝利しようというのなら走る上で邪魔になる益とならないものを捨てて目標に向かうのが賢い競技者だということになります。

キリストの十字架の贖いによって罪から解放されクリスチャンには、すべてのことが許されるという幅広い自由が与えられています。

神が創造され、人に与えられたもので、それ自体、汚れているものは一つもありません。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのです。
クリスチャンにとって、すべてのことが解放され、それ自体で汚れているものはありません。
しかし、汚れていると考える人のまえで与えられた自由を行うことが人々の躓(つまずき)となり、自由を行使するクリスチャンの行いが人々の誹(そし)りとなるのであれば、その自由を強制されることなく使わないという選択をすることがキリストにある愛の選択であり、本当の自由です。 

わたしたちは、福音を受け入れ、永遠のいのちの生きた希望に、「わたしにとってすべてのことは、わたしに許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない。」と宣言することのできる自由を得ているでしょうか。

ヘブル人に宛てられた手紙では、「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル人への手紙12章1,2)と、ここでもわたしたちの人生の歩みを競走に譬え、わたしたちがいっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、わたしたちの参加すべき競走を走りぬくことを勧めています。

わたしたちが、内に住まわれる聖霊の導きに従い人生のマラソンを走り続けるとき、わたしたちをイエス・キリストにあって選んでくださった神は、完走することのできる力を必ず与え、キリスト・イエスの日までにわたしたちの内に始められた良いわざを完成してくださいます。



 
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