肉の人

(第一コリント人への手紙3章1-2)


使徒パウロは、生まれた時からの自然な状態にあり、肉の思い、肉の欲のままに人生を歩む「生まれながらの人」と、新しく霊から生まれ、霊にある新しい命の誕生をした「霊の人」とについて述べた後で、この箇所で肉に属する人について述べています。
肉に属する人、「肉の人」という状態にあるクリスチャン、福音を信じながら肉の思い、肉に属する人という状態が果たして存在し得るのだろうかということを疑問視する神学者たちは、「肉の人」ということば自体が矛盾したことばであると主張しています。
肉の思い、肉に属する人がキリストにある新しいいのちの誕生をしているとは言い難く、新しいいのちの誕生をした人は肉の思い、肉に属するものではないというのです。
しかしながら、パウロがここで述べているように、本当に霊の人として成長していない、キリストにある幼子の状態にとどまっている人々が存在することも事実です。

不幸なことに、数多くのクリスチャン、福音を信じる人々の集まりのなかにあって、数十年もその集まりのなかで霊の成長の見られない、霊的に幼子のままの状態にある人々が存在します。

使徒パウロは、このような人々に対して「あなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、あなたがたは乳を飲むことしかできないので、ステーキのような大人の食事をすることができない。」と、述べています。

ヘブル書の著者も、「あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。」(ヘブル人への手紙5章12-14)と、福音を信じ、霊にある新しい命の誕生をした後も霊的な成長をしていないキリストにある幼子の状態にとどまっている人々が存在することを嘆いています。

クリスチャンと言われる人々のなかでも肉の思い、肉に属する状態にあり、霊的な成長をしていないということが現実です。

赤ん坊が生まれ、新しいいのちの誕生を目の当たりにすることことほど素晴らしいことはありません。親たちは幼子が最初に口にするあどけないことばを聞いて子供の成長を思い胸を躍らせます。しかし、何年経ってもその子供が同じことばしか喋らなかったら、子供の成長が停止した状態であることに胸を痛めるでしょう。

同じように、福音を受け入れ、霊にある新しい誕生を見ることほど心の躍ることはありません。しかし、その人が新しく生まれたときの状態から成長せず、いつまでも幼子の状態のままであれば、悲しむべきことです。

「肉の人」は、キリストを救い主と認めながら、自分を明け渡して霊の支配に人生を委ねるよりも肉の思い、肉に属して人生を歩んでいます。

丁度、赤ん坊がしばしば癇癪を起すように、自分の思い通りにならないことにイライラするのです。
彼らにとってイエス・キリストは救い主であっても、人生の主ではないのです。

神は 天と地の創造される前からわたしたちをイエスにあって選ばれ、イエスにある信仰を選び取るものに、必ず永遠のいのちを与えるという約束を聖霊によって押される証印によって保証されています。 しかし、わたしたちには、肉にある人々が、永遠のいのちにあずかる救われたクリスチャンと本当に言えるのかどうかは分かりません。それは、最終的な裁きをされる神の領域だからです。

わたしたちに確実なのは、わたしたちがイエスを信じ聖霊の導きのなかに人生を歩み続けるかぎり、神は決してわたしたちを拒まれず、永遠のいのちを保証されているということです。


使徒パウロは、コリントの信徒に「 わたしの兄弟たちよ。あなたがたの間に争いや分派があると聞かされている。あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いている」と述べています。

ヤコブがヤコブ書のなかで「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。 」(ヤコブ書3章14-16)と述べているように、イエスを信じる人々の集まりのなかで肉に属する人たちによって、争い、妬み、分派が引き起こされます。

争い、妬み、分派は、肉に属するものであり、それらは、あらゆる混乱とあらゆる忌むべき行為のもととなります。

イエスを救い主と認めながら、すべての事柄に自分の主張や方法を押し付けようとする人々が存在することは、大変不幸な現実です。

このような人々は、ある問題が提起されたとき、常に自分の主張や方法と異なっていることに不満と不平を持ち、自分とは異なる立場の人々を中傷、非難し、集まりのなかに分裂を引き起こします。

彼らは、み言葉の理解についても常に論争することを好み、自分たちの理解や立場に同意しない人々は神の国にはいることが出来ないと、一方的に断定し、分派的な議論に明け暮れます。
争い、妬み、分派といったことが起こるということは、人々が明らかに肉の思い、肉に属する状態にある証拠です。

キリストにある幼子の状態にとどまっている人々、肉に属するクリスチャンの特徴は、分派心です。 それぞれが、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っているのなら、そのような人々は肉の人であって、普通の人間のように歩いているということになります。
同様に、神が選ばれなければイエスのもとに来ることはできない。ということを一方的に強調したり、人がイエスを救い主であることを選ばなければ神の選びにあずかることができない。ということを一方的に強調し、所謂カルバン派とアーメニウス派に分かれて果てしない論争に巻き込まれることや、カソリックかプロテスタントか、或は聖公会か、キリスト教団か、ルーテル派かバプテスト派かという宗派対立に巻き込まれ、イエス・キリストにある自分の信仰的立場を強調し、お互いの立場を譲らずに争い合うことも、キリストにある幼子の状態にとどまっているということになります。
霊的に成長した人々ほど宗派的、信仰的な自分の立場を超えてイエス・キリストにある霊の一致をすることができます。そうでなければ成長した「霊の人」とはいえません。


キリストにある幼子の状態にとどまっている人々、肉に属するクリスチャンが、神との和解の喜びを体験するだけではなく、状況を超えた神の平安を得る「霊の人」へと成長すろための鍵とは何なのでしょうか。

使徒パウロは、わたしたちが成長するために最も必要なことは、キリストがわたしたちを愛され、仕えるものとしてこの世に来られ、わたしたちのためにご自身をささげられたという神の恵みをより深く知って愛のうちを歩くことだと勧めています。
「また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。」(エペソ人への手紙5章2)

愛のうちを歩くことは、特別なことではなく私利私欲によって自分のうちにある肉の思いに従って歩むのではなく霊の思いに従って歩むことです。

霊の思いに従って歩むというのはどういうことでしょう。

福音を受け入れ、霊にある新しい誕生をした人のうちには聖霊が住んでくださいます。

聖霊は、この世に来られたイエスのみが人にとっての唯一の救いであり、神の前に立つとき、神が決められている唯一の裁きの基準が、この地上でどれだけキリストに信頼し、従ったかが問われることを証ししています。
さらに、人が勝手に夫々決めた規準ではなく神の決められている他を愛し互いに仕える人生の歩みの基準を、わたしたちの心に示してくださいます。 
そして聖霊がわたしたちのうちに住まわれることで、わたしたちの理解を超えた状況に置かれたり、自分の失敗によって自責の念にかられるときにも、キリストの十字架によって、わたしたちに敵対する心の葛藤やこの世の肉の思い、わたしたちにとって不利な債務、支配、権威にすでに勝利し、解放されていることを知ることができるのです。

霊の思いに従って歩むということは、内に住んでくださるこのような聖霊の示す思いに従うということです。

もしわたしたちが、本当に愛のうちを歩むのであれば、わたしたちが妬みや争いによって人生を歩むことはない筈です。

霊の思いにしたがって歩み、愛のうちを歩む人は、他の人と比較したり、他の人が受ける喜びをうらやむのではなく、他の人の喜びや祝福を共に喜ぶことができます。

もし、わたしたちが本当に愛のうちを歩んでいるのであれば、同じ福音を信じイエスをキリストとして信じる人々のあいだに争いや分派ということは、起こらない筈です。 
もし、わたしたちが他に対して、「彼らがわたしに対して行った、行為、悪意をあなたが知ったなら、あなただってとてもそのような行為や悪意を赦せるものではないだろう。」と言い張るのなら、わたしたちは、自分自身が自分の存在の中心であり続けているということになります。

わたしたちは、自分自身、自分の我、を中心にして生き続けるかぎり、聖霊の導き、イエスを主として生きていることにはならず、肉に属して生きているということになります。

使徒パウロは、「できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。(エペソ人への手紙4章2,3)」と述べています。

わたしたちは愛をもって仕えようとしても、他の思いどおりに人に接していないかも知れません。  
同様に、他の人がわたしを愛するというときでも彼らが期待するような接しかたをわたしたちにしているとは限りません。
       
愛をもって互いに仕えあうということは互いの欠点を忍びあい、傷付けられてもそれを互いに赦しあうということでもあります。
主が「すべてに仕える者となりなさい。」と言われているように、わたしたちに必要なのは、互いに仕えあい愛のうちを歩むことです。
 
わたしたちは、互いに仕えあい愛のうちを歩むことを求められていますが、お互いはすべて主に仕え、主が裁かれるのであって、わたしたちがお互いに裁き合うということでありません。
もし、わたしたちが自分の基準で他を批判し、お互いを中傷し合うなら愛をもって互いに仕え合うということは不可能です。
 
福音の恵み、イエス・キリストの贖いと救いを自分のものとして受け取る人々が成長するために必要なもう一つの鍵は、み言葉に常に接し、み言葉のなかに人生を歩むことです。

福音を受け入れた人々を、聖書はキリストの肢体と呼んでいます。人の肢体には様々な多様な機能や部分がありますが、キリストの肢体にも実に様々な機能、部分があってそれらの部分がすべて機能し合い全体として一つの肢体となっているのです。

キリストの肢体の部分々が複合的にどのように機能し合うのかについて、使徒パウロは、「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。 」(エペソ人への手紙4章11-15)と、述べています。

使徒ペテロも「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」(第一ペテロの手紙2章2)と述べて、、キリストの肢体の夫々の多様な賜物を与えられた人々によってみ言葉が栄養として貯えられ、み言葉が霊の成長に欠かせないことを宣言しています。
もし、聖書のみ言葉から離れて、人々が霊的に思えるなものだけを求め、超自然的な現象や高揚される体験だけを求めるのならば、そのような人々は、結局自分がもてなされ、受け入れられることだけを追い求め、霊の成長を求めてはいないということになり、健全なみ言葉の教えから離れて耳障りのよい、様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることになります。
わたしたちは、霊的な体験によって成長するのではなくみ言葉によって霊の成長をするのです。

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ書1章22)

御ことばを喜びとして聞き、昼も夜もそのおしえを深く考え、御ことばを学び、それを口ずさみ行う者となるとき、わたしたちは必ず時が来ると必ず実を実らせるものとなり栄えることができるのです。



 
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