生まれながらの人、霊の人

(第一コリント人への手紙2章14-16)


使徒パウロは、イエス・キリストが血を流され、十字架に掛かり、死んで葬られ三日後によみがえられたのは、わたしたちの罪の贖い、罪の虜となっているすべての人を解放するためであり、人の罪を完全に赦し神の義を得させるために、完全な義の方で全能、全知の聖なる神が完成してくださった恵みの業だと宣言しています。   

そして、それは神がわたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれた神の知恵です。しかし、この神の知恵をこの世の支配者たちは、誰一人として知らなかったために、栄光の主を十字架につけてしまった。と述べています。

パウロは、この世で目に見えるもの、この世で聞くもの、この世の人々の心に浮かぶことによつて、神の知恵を知ろうとしても、それは不可能であり、神の知恵を知ることができるのは聖霊のはたらきであり、人の知恵ではないと宣言しています。

ご自分を愛する者たちのために備えられる神の霊を、わたしたちが受けるとき、すべてのものをきわめ、神の知恵を知ることができます。         

神の霊、聖霊は全知の神と同じ性質、全知の能力をもっておられ、わたしたちに惜しみなく神の奥義を知らせてくださる方だからです。

パウロは福音を受け入れたコリントの人々に、「わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。」(第一コリント人への手紙2章12)と述べ、使徒ヨハネも、世と世の欲とは過ぎ去るが、イエスの救い、イエスをキリストと信じる人々には聖霊が注がれているので、神のみ旨を知りそれを行い、永遠に生きることができると宣言しています。                         

全能の神のみ旨を知ることができるのは、神ご自身と等しい人格を持たれる聖霊のはたらきです。

「しかし、あなたがたは聖なる者に油を注がれているので、あなたがたすべてが、そのことを知っている。(第一ヨハネの手紙2章20)」
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。(ヨハネ福音書14章26)」

聖書の御言葉の素晴らしさ、神の愛、恵みの豊かさを知り、神の栄光を見、味わうことができるのは聖霊がわたしたちの心を照らし出してくれるからです。


使徒パウロは、「生まれながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。」と、この箇所で述べています。

「生まれながらの人」と、ここで使徒パウロが言う人は、どのような人なのでしょうか。      

すべての人が産まれたときの状態から肉体的、精神的に成長し、この世の知識を増し加えたとしても、そのままの状態であれば、その人は大人になっても「生まれながらの人」です。          

イスラエルの議員の一人であり、人々の指導者であったニコデモがイエスのもとに来たとき、イエスは「肉から生れる者は肉である」と宣言され、人は生まれたときの状態のままであれば、すべて「生まれながらの人」であると言われています。 
このような、「生まれながらの人」を、神学者たちは、アダムの性質を持った人、はじめの人アダムが神のことばに背いて罪に陥り死ぬものとなった人、と呼んでいます。
すべての人がアダムの犯した原罪の性質を受け継いでおり、すべて「生まれながらの人」が本質的に神に背き、神との関係から断たれた状態にあります。

イエスは、ニコデモに「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と、宣言されましたが、「生まれながらの人」は、新しく生まれる、ということを体験したことのない人のことです。 

神によって創造された最初の人アダムは、置かれた素晴らしい環境のなかで、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。 と言われた神の警告に背き、誘惑する者のことばに従って、禁じられたたった一本の木から実をとって食べました。
その瞬間からアダムには霊の死がもたらされました。                      

神は人を霊的な存在として造られましたが、神のことばに背き、誘惑者のことばに従って「取って食べると死ぬ」と、警告された木の実を取って食べた瞬間から人の霊には死がもたらされたのです。   

人は霊的な存在として造られ、霊によって霊である神との交わりを持ち、神を体験することができるのです。

アダムが罪を犯したときから、人が神との深い交わりを持つことのできる霊は、死んだ状態となってしまい、人が創造の神を知ることの出来る能力が失われてしまいました。              

イエスはニコデモに「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。と、宣言され、その人が新しい霊の誕生をしなければ神の国には入ることができない、と言われています。
使徒パウロは、生まれながらの自然な人のことを「古い人」と呼んでいます。

肉の思い、肉の満足だけを求めて生きる人は古い人であり、新しく生まれた人は、新しい霊の性質を持ちます。

「 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(ローマ人への手紙6章6)

使徒パウロは、エペソの人々へ宛てた手紙のなかで、「あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ人への手紙4章22-24参照)と、わたしたちが古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けることを勧めています。

生まれながらの人は、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩き、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、神からの怒りを受けるべき者だ、と述べています。(エペソ人への手紙2章2、3、参照)

さらに、「主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように
歩いてはならない。彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。」(エペソ人への手紙4章17-19、参照)と、生まれながらの人がむなしい心、すなわち創造の神との交わりを持つことの出来ない状態で人生を歩み、全知、全能の神の知恵から程遠い暗闇のなかで、生ける神から疎外された状態にあり、霊的に無感覚になり、肉の欲求と不品行、放銃に身を委ねる者だということを指摘しています。

生まれながらの人がこのような状態にあるのは、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊、サタンのはたらきなのだ、とパウロは指摘しています。

そして、イエスを信じ新しく生まれた人々に、「だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。」(コロサイ人への手紙3章5、7、8、-10、参照)と、強く勧めています。

「過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。」(第一ペテロの手紙4章3 参照)

このように、「生まれながらの人」は、わたしたちの生まれた時からの自然な状態にある人、肉の思い、肉の欲のままに人生を歩む「古い人」であることがわかります。
 
パウロがこの箇所で、「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。」と、述べているように、生まれながらの人は、聖霊について知り得ず、聖霊がその人の内に住まわれることを受け入れていないために、神の愛、神の恵み、神の栄光、神の知恵を知ろうとするとき決定的な障害を持っており、聖霊のことを理解することができません。

全く耳の聞こえない人の前でどんなに素晴らしい交響楽団が演奏をしても、その人は、その演奏を楽しむことができません。それは、音を聞くための能力、聴覚に障害があるからです。全く目の見えない人は、海辺の素晴らしい夕日を眺めても光線が海辺に照らすその色彩の素晴らしさを見ることができません。それは、光線や色彩を感知する能力、視覚に障害があるからです。

同じように、その人の内に聖霊が住まわれなければ、十字架の言、神の恵み、神の栄光、神の御計画の素晴らしさを知ることができないのです。

しかし人は、神の変ることのない生ける御言と、イエスがわたしたちの身代わりのなだめの供えものとして、罪にたいする神の裁きを受けられ、十字架に架かられたことを信仰をもって受け入れるとき、新しく生まれ、霊にある新しい命の誕生をします。
人が十字架の言を受け取り、新しく生まれなければ、その人は「生まれながらの人」であり、その人の内に神ご自身と等しい性質を持たれる聖霊が住まわれないので、神の愛、神の恵み、神の栄光、神の知恵を知るための決定的な障害があるのです。

十字架の言は、滅び行く者には愚かなこととしか思えないのです。


使徒パウロは、「しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。」と、この箇所で続けて述べています。
パウロが述べている「霊の人」とはどのような人のことなのでしょうか。
「霊の人」は、新しく霊から生まれ、霊にある新しい命の誕生をした人です。
人は、もともと物質的な肉体だけでなく、意識や感情という内面的な魂を持っていますが、それだけではなく霊を持つ三次元的な存在として創造されました。
肉体という一次元的な存在であるばかりでなく、思いや感情などの内面のいのちを持つ二次元的な存在でもある人は、新しく霊から生まれ、霊にある新しい命の誕生をすることで、本来人が人として創造された三次元的な存在に生まれ変わるのです。

新しいいのちの誕生をした人は、父なる神と子と聖霊の一体である唯一の神に出会い、天地を創造された神との交わりをもつことができるのです。
「 霊の人は、すべてのものを判断する」と、パウロは述べていますが、霊にある新しい命の誕生をした人は、神の霊が内に住まわれるので神の愛、神の恵み、神の栄光、神の知恵を知ることができるのです。

詩篇には、「 主の親しみは主をおそれる者のためにあり、主はその契約を彼らに知らせられる。」(詩篇25篇14)と述べられ、箴言には、 「 悪人は正しいことを悟らない、主を求める者はこれをことごとく悟る。」(箴言28章5)と述べられていますが、霊の人は神の契約、神が人に約束されておられるその奥義を悟ることが出来ます。
聖霊がわたしたちに知らせてくれる事柄は、次元の異なる事柄であり、「生まれながらの人」が悟ることのできない次元の事柄です。

聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さいます。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるからです。

霊にある新しい命の誕生をしていない「生まれながらの人」は、創造の神との交わりを持って生きる喜びを体験することができません。

イエス・キリストが十字架に架かられたことによって、自分の罪が完全に赦され、罪の代価が完全に支払われているということを知ることで、わたしたちは、表現できることば、状況を超えた喜びと平安が与えられます。

パウロは霊にある新しい命の誕生をした人々が与えられる平安について、「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ人への手紙4章6,7)と、述べています。

「霊の人」が与えられる神の平安を「生まれながらの人」は、体験することができません。何故ならそれは、人知ではとうてい測り知ることのできない状況を超えた平安だからです。  

聖書が述べているイエス・キリストにある平安、喜び、愛、は人が体験することの出来る究極的な体験です。
イエス・キリストにある平安、喜び、愛、栄光は人知を超えたものであり、多くの思想家たちや哲学者たちがある意味で求めている、究極の体験です。                  

神はわたしたちにご自身を神の霊、聖霊によってあらわされます。            

イエスは、十字架に架かられる直前、弟子たちに、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」(ヨハネの福音書十八章12-14)と述べられました。

聖霊、真理の御霊はイエスが十字架に架かられ、三日目に復活され、その四十日後に天に昇られ、五旬節の祭の日(ペンテコステ)に弟子たちが集まっているときに降りました。

聖霊によって、わたしたちは、神の恵み、栄光の広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、わたしたちが満たされることができるようになる(エペソ人への手紙三章18,19参照)のです。


使徒パウロは、さらに、「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。」と、述べています。                    

パウロは、別の箇所で、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ピリピ人への手紙2章5-7)と、キリストの思いによって神のかたちであられる方が、おのれをむなしくして僕のかたちをとられ、人間の姿をとられたばかりでなく、おのれを低くして十字架の死にいたるまで従順であられたことを述べています。                               

キリストの思いは、おのれを低くして神の意志、神の権威に謙遜であり、愛にあって仕えるものとしての思いである、というのです。

キリストの思いを持つとき、わたしたちは、何一つ誇るものをもっておらず、愛をもって互いに仕え合うものへと変えられます。

わたしたちは、わたしたちの理解を超えた状況に置かれるとき、しばしば、「何故神は‐‐‐なのだろう。?」という疑問を投げかけます。
しかし、それらの疑問は、多くの場合わたしたちの理解を超えた悲惨な状況に直面するとき、もし、わたしたち自身が神であれば、そのような状況が起こること、そのような状況が起こること許容しないであろう、天地を創造された神よりも自分が主体であるという暗黙の前提を基本的に含んでいます。

「生まれながらの人」は、何故神と等しくあられた方がわたしたちと同じように人となられ、何故、罪のない方が罪の身代わりの代価として十字架に架かられるという不条理な状況にならなければならないのか、何故神と等しいお方がおのれを低くして十字架の死に至るまで父なる神の御計画と御意志に従順でなければならないのだろうか。何故人生を一生懸命善い人として生きるだけでは不十分なのだろうか。という疑問と心の葛藤を持ちます。                              

十字架は、「生まれながらの人」この世の思いでは馬鹿げたことのように思えるのです。

しかし、パウロが宣言するように、十字架の贖い、罪の赦し、神の恵みを受け取る人々は、霊にある新しい命の誕生をし、より深い神への感謝、神の恵みの素晴らしさを体験し、キリストの思いを持つものへと変えられます。

イエスは、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ福音書15章13)と言われ、
使徒パウロも「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(ローマ人への手紙5章8)と宣言しています。

「生まれながらの人」にとっては、十字架は残酷なローマのみせしめの刑であり、十字架の言は愚かに思えま。
しかし、キリストの思いを持つわたしたちにとっては、十字架は、神のわたしたちへの愛を示すものであり、神がわたしたちの持っている罪の責めのすべてを赦されようとされている恵みの深さを示しています。

神はすべての人が霊にある新しい命の誕生をする機会を与えておられます。イエスは、ニコデモが、どのようにして霊にある新しいいのちを得ることができるのか。と質問したとき、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」と、答えられました。

神がこの世に賜ったひとり子を信じることによって、わたしたちもキリストの思いを持ち、人知を超えた神の御計画を悟るものへと変えられてゆくのです。



 
第一コリント人への手紙のメッセージに戻る


a:1012 t:1 y:0

powered by HAIK 7.0.5
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. HAIK