死人の復活、復活の初穂 

(第一コリント人への手紙15章20)


ギリシア文明の影響、人を中心とした哲学に感化された多くのコリントの人々にとって死者の復活ということは、愚かな作り話のように思え、パウロがコリントの街で伝道をはじめたときにも、神が人としてこの世に来られ、人のために自らのいのちを十字架の上で犠牲にし、復活するということは、愚かなことと受け取られました。

罪の贖いの代価、神への背きにたいする犠牲のなだめの供え物として、イエスがわたしたちのために血を流され、十字架の上で死なれたという十字架のことばを受け入れ、福音を受け入れたコリントの信徒たちのなかにも死人の復活について多くの人々が疑問を抱きはじめました。

このような状態に対して、使徒パウロは、福音を最初にコリントの人々に宣べ伝えたときのことをもう一度思い起こしてもらいたい。と訴えて、「 わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。」と、宣言しています。

イエス・キリストが死人のなかから復活されるという歴史的な事実は、突然起こった出来事ではなく、神が贖いの備えをされ、人の罪の救いのために死なれ、葬られ、三日目によみがえることは、旧約聖書に記録されている人類の歴史をとおして示されているタイプや預言によっても、幾度となく語られていたことであり、多くの証人によってキリストの復活が現実に証しされていることを思い起こしてほしいと訴えています。

イエスご自身も十字架に架かる前、多くの奇跡を目の当たりにしながらイエスをメシアと認めようとせず、自分たちの解釈、人の伝統によって神の律法を曲げ、知識があると言いながら、その知識によって人々を真理から遠ざけようとする宗教指導者やパリサイ人との論争のなかで、ご自分のいのちは他から取り去られるのではなく、わたしたちがいのちを得るためにご自分のいのちを捨てられ、死者から復活されることを預言されました。

「だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。」(ヨハネ福音書10章18)
 
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ福音書11章25)


パウロはキリストの死者からの復活は、福音の核となる中心的なメッセージであると宣言しています。

キリストが死人の中からよみがえったことが歴史的事実だということをパウロ自身を含む現実に復活のキリストに出会った多くの人々が証言しているにも拘わらず、死者の復活が信じられない、あり得ないとすれば、十字架の上でイエスが死んだということも、わたしたちにとってには何の意味もなく伝えた福音は虚しいものであり、パウロたちの宣教も、人々が受け入れた信仰も虚しいものとなると、パウロは訴えています。

福音の宣教によってもたらされる信仰、希望、そして人々にもたらされる神のより深い愛、それらは、死者からの復活ということを抜きにしては虚しいものであり、わたしたちの宣教は虚しく、信仰も虚しいものとなります。      

死者の復活ということを抜きにして、イエス・キリストが神の御子としてこの世に来られ、その十字架の死によって人々が超えることのできない創造者である神と人との溝を埋める唯一の仲介者となられ、わたしたちに永遠の命を与えられたという生きた信仰を持つことはできません。

死者の復活、イエス・キリストのよみがえりを抜きにしてキリストの十字架の歴史的事件から数年にして福音が当時の世界中の人々に伝わり、ローマ帝国皇帝からの激しい拷問や迫害のなかでも弟子たちをはじめ、六百万以上の人々が信仰のゆえに殉教することはあり得なかった筈です。   

キリストの復活がなかったのなら彼らの死は無駄死だったということになります。

わたしたちは、イエスが十字架に架かられたのは私たちの罪の責めをご自身の上に負われるためであったことを信じています。

聖書が宣言しているように、神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされました。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためです。(第二コリント人への手紙5章21)
 
わたしたちの不完全さ、神への背き、それらの罪の自責の念、罪の責めは、キリストがわたしたちの代わりに十字架の上で負ってくださったことによって、すべての罪の責めから解放され、赦される喜びを享受することができます。

わたしたちは「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」(ローマ人への手紙8章2)というみ言葉を文字通り受け取ることができます。

しかし、もしキリストが死者のなかからよみがえられたということが偽りであるならば、わたしたちが罪の責めから解放され、神に対してわたしたちの持っている背きが赦され、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則が、罪と死との法則からわたしたちを解放したという宣言も虚しい偽りだということになります。


パウロは続けて、「すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。

もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。

もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。」(第一コリント人への手紙15章16-19)と、述べています。

数えきれない人々が、この世の人生を終え、死の床にあっても、神のキリストにあるわたしたちへの限りない愛、神の永遠の御計画、栄光の神の国にあってわたしたちに与えられている永遠のいのちが確実であり、間もなく顔と顔を合わせて栄光の主を仰ぐことが確実であるという約束によって、肉体の滅びを迎え、この世の人生での最後の息をひきとるときにも希望の光を見、慰めを受けてきました。

わたしたちも、このような主にある人たちの最後の死の床に立ち会って、希望の光と状況を超えた荘厳な慰めのときをしばしば体験することがあります。

しかし、もしキリストが死からよみがえられたということが歴史的事実でないのならば、それらのキリストにある希望を抱いて死んだ人々は、肉体の死をもって滅んでしまったことになり、福音の栄光の希望、慰めはすべて偽りだったということになり、わたしたちは、肉体の滅び、わたしたちにとって最大の敵、死によってすべてが終わってしまったということになります。     

さらに、人生はすべて不公平で不公正であり、正義などないということになり、悪が正しさに勝利し、この世でも不正を裁き正義を唱える根拠などなくなってしまいます。     

創造者である神の裁きより人の裁きが優先するというのなら、一体誰が正しく、だれが不正だということができるのでしょう。公平や公正について論議すること自体意味を持たず、わたしたちの人生も意味など持たず、人生はいっとき飲み、食い、享楽に身を委ね、暴力によって自己主張の強いものが正しいものとなるということになります。

わたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在です。


使徒パウロは、「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」と、死人の復活、キリストのよみがえりが歴史的事実だと断言しています。        

キリストが眠っている者の初穂として死人のなかから復活されたことが否定できない事実であれば、福音は、まさに素晴らしい知らせであり、決して虚しい知らせではないことになります。

神は、恵み深く、慈しみに富んでおられ、イエス・キリストの十字架の死と復活によってわたしたちの罪を赦し、わたしたちが神の愛を知って、隣人を互いに愛し合うことを求められていることをも知ることができるのです。

キリストが眠っている者の初穂として死人の中からよみがえられたことが歴史的事実であれば、キリスト・イエスにある者は、神への背き、罪を赦され、聖いものとされ、決して罪に定められることがないという神の約束が確実な約束であるということになります。 

死人の復活、キリストのよみがえりによって、福音を信じ信仰によって人生を歩む人々が、肉体を離れても主のみもとに栄光の住むべき場所が与えられ、永遠の栄光の喜びと賛美のうちに主を仰ぎ、痛みも苦しみも悲しみもない、すべてが過ぎ去り、すべてが新しくされる想像を超えた素晴らしい栄光の体験をすることができるのです。

死人の復活、キリストのよみがえりが確実なのであれば、正しい人生を送ることには報いと栄光の希望があり、神から離れた不義な人生を送るものは、永遠の滅びに至るということが変わらない摂理だということになります。
           
創造者である神の裁きは公平で、公正にすべてを裁かれる日が必ず来ること、そして人は必ず神の裁きの前に立たされる日があることが聖書全体をとおして宣言されています。     

神は、わたしたちの不義をみ前におき、わたしたちの隠れた罪をみ顔の光のなかにおかれ(詩篇90篇8参照)、わたしたちの心を探り、思いを試みられ、おのおのにその道に従って、その行いの実によって報いをされます。(エレミア書17章10参照)

使徒パウロは、この手紙でもコリントの信徒たちに、「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」(コリント人への手紙4章5)と述べています。

イエス・キリストが十字架の上でわたしたちのための罪の代価を完済してくださり、死んで葬られ、三日目に預言されたとおり死者のなかからよみがえり、今も生きておられ、死んだ者も生きている者にも公平な裁きをされることを信じるわたしたちには、すでに罪の裁きをイエスが引き受けてくださったことを知って、永遠の滅びから救われ、死と死後の裁きの恐れからすでに解放されているのです。

使徒ペテロも「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。」(第一ペテロの手紙1章3,4)と述べて、わたしたちのキリストにある希望が生ける確実な希望であることを保証し、死者からの復活とキリストにあってわたしたちに与えられている栄光の希望の約束が現実の希望であり、永遠に神の豊かさをわたしたちが受け継ぐ者となることが確実であることが宣言されています。

イエス・キリストの復活によって与えられている永遠のいのちの約束が、神のわたしたちへの限りない愛と慈しみであり、その素晴らしさに気付くとき、わたしたちは創造者である神への賛美をせずにはいられません。

  



 

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