最も大いなるもの 

(第一コリント人への手紙13章13)


福音が伝えられ、コリントの信徒たちは聖霊の働きによる夫々の賜物を用いようとしました。しかし、コリントの信徒たちのあいだには聖霊のはたらきと賜物について、混乱した理解があり人々は聖霊の賜物が与えられる本来の目的とは異なる用い方をし、乱用しました。
                 
使途パウロは、このためにコリントの教会の人々に宛てて、賜物を本来の目的のためにどのように用いたらよいのかを正すために、この手紙でコリントの信徒たちの疑問に答えています。

御霊は御子イエス・キリストを証しされ、聖霊の賜物は、それを用いることによってイエス・キリストがわたしたちのために成し遂げられた御業と約束の素晴らしさと栄光に満ちた確かな希望を体験し、感謝と愛に満ち溢れることができるために与えられています。

もし、聖霊の賜物を用いていると言いながら、賜物そのものや、賜物を用いる人に注目が集まり、本来の目的、すなわち、キリストの栄光に焦点を当てること以外に聖霊の賜物が用いられると、福音を信じる人々のあいだに混乱が起こり、賜物を用いる人も賜物を受ける人も自分自身と他を欺くことになります。

聖霊は思いのままに、わたしたち一人一人の人生の上に働かれています。そして、福音を受け入れた人々の内に住まわれ、キリストのからだ全体の益となるために、御霊の現れが賜物として与えられています。

聖霊の賜物は様々であり、夫々異なっています。さらに、聖霊の賜物の働きも異なっています。

使徒パウロは聖霊の賜物として、知恵のことば、知識のことば、奇蹟をおこなう力、信仰、癒しの賜物、預言、霊を見極める力、異言、異言の解き明かしをあげています。

パウロは、それらの賜物を挙げたあとで、更に大いなる賜物を得ようと熱心に努めることを勧めています。

最も大いなる賜物は愛であり、愛が最もすぐれた聖霊の賜物であると宣言しています。

従って、聖霊の賜物が与えられるのは、福音を受け入れた人々がイエス・キリストの恵みと知識において成長し、キリストのからだの一部として与えられた賜物を生かし、栄光のキリストの似姿へと変えられるという信仰により、キリストの御顔に顔と顔を合わせる生ける希望によって聖霊の実である愛の人に変えられイエス・キリストの御業と栄光の希望に焦点を当てることが目的です。


聖書は信仰について、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認するこであり、信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのです。」(ヘブル人への手紙11章1、2)と、述べています。

わたしたちは誰でも何かを信じることなく人生を送ることは不可能です。その意味では、すべての人が何かを信じて人生を送っています。

信仰は最終的には人が知識や理解によっては証明しきれない信仰の前提となっているものを意志によって選びとることです。

すべての人は、究極的に二つのうちの一つを信じることにに分けることができます。    

一つは、はじめにすべてを創造された神の存在、人創られた神を信じる信仰です。

この信仰のもとでは、創造者である神がすべての第一原因であり、わたしたち人間の存在は、すべてを創造された神によって存在し、創造者である神が一人一人の人生に意味を与えられ、計画を持っておられるということを前提にしています。そして、それらの信仰は客観的な事象から導き出される科学的法則と矛盾しない。というものです。

もう一つは、はじめにすべてを創造された神を否定し、人つくりだした神を信じる(神と呼ばれるものが存在するとしても、それは人の宗教心が作り出したものであり人がすべての中心であるという)信仰です。

このような信仰は懐疑的に物事の表層を見ている自分自身、我だけがその存在を疑い得ない、人間の存在は偶然の積み重ねによるもので長い時間による偶発的な進化によって成り立ち、人生には相対的な意味しかなく、人生の計画は各自に委ねられているということを前提としています。彼らは、科学と宗教は相反するものだというのです。

イスラエル統一王国の王となったダビデは、「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。」(詩篇19篇1-4)と、被造物の素晴らしさを見、それを創造された神の存在と栄光を告白する詩を詠んでいます。

わたしたちも、神の創造の御業を見、被造物の精巧なデザインや自然界における秩序と法則を見出すとき、それらのすべてを創造された方の永遠の力と神性を認めざるえません。    

自然の法則を見て、自然とその中にある法則を造られた方の存在を否定し、秩序を見て、その秩序を決めた方の存在を否定し、形をみてその形を創られた方の存在を否定する人々は、はじめから神の存在を否定することを心に決めているのです。

すべてを創造された「神の存在」を信じることは、創造者である「神の存在など無い」ということを信じることに比べずっと容易なことです。

創造者である神の存在を抜きにして最も最初の原因、すべての根拠を説明することには無理があります。

ビッグバンが宇宙の存在原因だと唱える人は、突然何もない宇宙空間に爆発を起こさせる気体が偶然存在したのだと説明しますが、それでは創造の根拠、第一原因を説明することにはなりません。
爆発を起こさせる気体がどこから出てきたのか、それらの空間が一体どこからきたのかについての説明が一切ないからです。

被造物の繊細で緻密なデザインを観察し、それを創造された最初の原因である創造者の存在を信じることは、被造物の繊細で緻密なデザインが思いがけない偶発的な結果で出来上がったということを信じることよりもずっと論理的であり、知的にも納得のゆくことです。

進化論は、偶然の連続によって長い、長い、長い時間をかけて偶然に無から有が生じ、混乱から時間の経過と変異によって秩序立った体系や繊細で精巧な組織や構成が成り立ってきたと説明しようとし、宇宙はその発生から約130億年が経過し、生命が発生してから約47億年が経過している。と主張しています。

しかし、最近の科学による生命体における細胞内の構成物質である核酸(DNA分子)の存在とその塩基配列の研究によれば、細菌のように単純で最も簡単な生物でも構成物質であるたんぱく質は340個のアミノ酸が結合して構成されていて、その配列の仕方は 10の300通りもあるために、水(H2O)、メタン(CH4)、アンモニア(NH3)のような無機化合物が、細菌のような単純な生命体に偶然によって自然発生する確率は、3兆年という期間に10の280乗分の1以下の確立でしか発生しないという試算がされています。(著名な情報学者マルセール・ゴレは、全宇宙の全時代を通じて、最も簡単な生命が自然に発生する確率はどれくらいあるか、を計算している。彼は、疑わしい要素はできるだけ進化モデルに有利に計算し、宇宙の年齢も三兆年(進化論者によって言われている宇宙の年齢のさらに200倍)として計算した。それでも、その期間内に物質がうまく組み合わせられて、生命が自然に発生する確率は、10の280乗分の1以下だった。論文集・リバイバル情報・預言と奇跡・科学から信仰へ、“生物の起源とサムシンググレートの存在、2005 11/10”の論文より)

全能の創造者である神が、人をご自身のかたちに似せて創造され、人生に意味を与え、宇宙の壮大な計画のなかですべてを支配され、神が御子にあってわたしたちの罪の責めを十字架の上で受けられ、復活の初穂となってくださったばかりでなく、永遠のいのちを与えられ、栄光の復活のキリストの似姿に変えられるという神への信仰は、たとえ、すべてが消え去り、わたしたちの知っているすべてのものが失われると思われるような状況に置かれても、わたしたちが人生を歩むうえでの現実の支えを持つことが出来ます。

そして、これらの創造の神のキリストによる贖いと復活、神の永遠の御計画を信じる信仰は、聖霊のはたらきによってより確信へと変えられてゆきます。

そればかりでなく、キリストの御顔に顔と顔を合わせ、神について知り得る事柄が一層明らかにされた後にもなおキリストへの強い確信と信頼となっていつまでも信仰は続きます。


イエス・キリストの十字架の贖いと復活、再臨と完全なこの世の贖いを信じる人々に、聖霊は彼らが御子とともに、栄光の神の子とされ、御国を受け継ぐ者となる希望の約束を与えられます。 

人は何故、誰でも死ぬのだろうか。人のいのちは、肉体の滅び、死によって終わるのだろうか。人にとって、死後の世界が存在するのだろうか。死後の世界が存在するとすれば、それはどのような世界なのだろうか。という尽きない人生の大きな疑問を心に突きつけられてきました。

創造の神は、神に似せて人を創られたとき、人を死ぬものとしては創造されませんでした。しかし、人は神に背き、神から離れ、死ぬものとなりました。人には、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、定まっています。 (ヘブル人の手紙9章27参照)

それにもかかわらず、神は人を愛され御子の贖いと死からの復活によって、御子イエスを救い主と信じるすべての人に、肉体の滅びの後にもより素晴らしい復活の永遠のいのちを約束されています。

イエスは、人生の意味や人の存在の意味、死後の世界と死後の存在について「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」と、はっきり宣言をされています。(メッセージ“わたしは、よみがえりであり、命です“参照)
        
復活といのちは、イエスによってもたらされ、よみがえりといのちの権威はイエスにあります。そして、このいのちは、イエスを救い主と信じ、聖霊の導きに従って人生を歩む人々に与えられています。 

聖書は死後の世界について説明するとき、人の存在の本質が肉体ではなく霊であることを一貫して主張しています。人の本質は霊であって、霊が宿る肉体を聖書は幕屋と呼んでいます。
わたしたちは、幕屋、一時的なテントに住んでいるのです。わたしたちの本質的な霊の思い、魂の思いは、肉体をとおして表現されます。

しかし、一時的なテントがほころび、機能を果たさなくなるように、やがて肉体も、はじめに意図され、デザインされた機能を果たすことが出来なくなります。      

神は、御子イエスを救い主と信じるすべての人に栄光の復活の身体を用意され、肉体の滅びと同時に人の霊は宇宙のどこかを彷徨うのではなく、神のくださる建物に住むことになります。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

そして、キリストに信頼する人々は、この肉体が滅びても栄光の姿に変えられ、創造主である神の愛から引き離されることがない、という希望を与えられています。

この希望は、聖霊がわたしたちの心に働かれるとき単なる希望ではなく確実な希望だということを証しされます。

わたしたちを創造された主である神は、わたしたちが人の手によらない、天にある永遠の住みかである新しい身体に移る準備をされています。

わたしたちに与えられている希望は、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思うことのできる希望です。
                              
聖霊の賜物はわたしたちにこの希望を与えられると同時に、わたしたちはどのような困難や悲しみに出会うときにもそれを乗り越えることの出来る力を与えられます。

復活の永遠のいのちを与えられ、キリストの似姿に変えられ、栄光のイエスの御顔に顔と顔をあわせるとき永遠のいのちの希望はわたしたちにとって現実のものとなり、栄光のキリストとの交わりをより一層深めたいという希望となって神の御国の現実が絶えることなく存続します。


そして、パウロは、いつまでも残る信仰、希望、愛の三つのうちでも愛が最も大いなるものだと宣言しています。

最も大いなる賜物、最もすぐれた聖霊の賜物を得ることは、コリントの信徒たちだけでなく福音を受け入れた人々が目指す、最高の目標です。

寛容であり、情深く、また、ねたむことをせず、高ぶらず、誇らず、不作法をせず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかず、 不義を喜ばず真理を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える完全な愛は、抽象的な概念でも人の感情でもなく具体的な意志による選択と行動です。 

神のことばは一貫して、人が愛のあるものとなることを求めています。
聖霊の働き、霊の賜物のうちで最も大いなる愛のあものへと変えられることは、わたしたちが神の国で永遠のいのちを享受するうえで絶対不可欠な条件です。

このことについて、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」と、言ったとき、イエスは、 彼に言われ、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。と答えられ、律法学者が旧約の律法の戒めを引用して、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。と答えると、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」と言われました。

律法学者が自分の立場を弁護しようと思って、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。とイエスに問うと、イエスは、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。と、有名なサマリヤ人の譬えの話をされました。律法学者が、「その人に慈悲深い行いをした人です」。と、答えるとイエスは、「あなたも行って同じようにしなさい」。と言われました。

わたしたちにとって隣人とはわたしが手を差し伸べることの出来る最も近くの他の人であって、わたしたちには必ず助けを必要とする隣人が存在しています。

わたしたちが神に背を向け、神から断絶されていた状態であったときに、十字架の贖い、キリストがわたしたちの罪のためのなだめの供え物となってくださったことがどんなに大きな神の愛であるかということを体験し、生きた神がわたしたちの人生に目的や計画を持たれ、永遠のいのちと栄光の神の国を継ぐ者となる信仰と希望なしに、わたしたちが肉の思い、肉の欲求を優先していつまでも続く完全な愛を行う者へと変えられることは不可能です。

すべての人々が、そのままでは愛が欠如しています。人は自分の努力や決心だけで完全な愛の人となることはできません。
                           
しかし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、わたしたちの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、わたしたちの内に宿っている御霊によって、わたしたちが神の霊に従って歩むとき、わたしたちを内から御子イエスの似姿に変えられ、神の喜ばれる愛の人へと変えてくださるのです。

「 主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。
世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」(第一ヨハネの手紙3章16-18)

「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからです。」(ヨハネ第一の手紙4章19)

「しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(ユダ書1章20,21)

わたしたちが神の愛のうちに自らを保たなければならないのであれば、わたしたちはイエスが十字架の上で示された神の愛から決して離れてはなりません。イエスが示してくださった十字架の犠牲によって神の愛は惜しみなくわたしたちに注がれているからです。そして、そのような自己犠牲の愛によってわたしたちは他を愛するということをはっきり表すことができるのです。何故なら「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」からです。

「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。
それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(第一ヨハネの手紙4章7-10)

わたしたちが栄光の神の御座の前に引き上げられれて最初に見るキリストの姿は、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊の姿であり、いつまでも続く神の愛の姿です。

神の愛は他との関わり、関係を持つ愛です。神との永遠の交わりでも、愛のない交わりはあり得ません。神の愛の姿にわたしたちが変えられるという信仰と希望は永遠に変わることなく、愛による交わりこそが永遠の豊かさと喜びを享受する鍵です。       

信仰と希望と愛は、人々が栄光のキリストの似姿に変えられた後も永遠に存続する最も素晴らしい聖霊の賜物であり、愛こそが聖霊の賜物のうちで最も大いなる賜物です。
  



 

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